その日、翼は朝から逃亡中だった。
ケガが完治していない状態で合宿に参加している立場を考えて、監督を初めと
するスタッフ陣に言われた通りに、参加するのはミーティングのみ、あとの練習
メニューはすべて見学、という指示を守っていたのだ。
しかし、翼のガマンは1日しかもたなかった。
誰もいないところでこっそりと練習しようと早朝にボールを持ち出したもの
の、他の自主練中の選手たちに見つかり、またコーチングスタッフにバレ、さら
に合宿所の職員やスタッフまでもが目を光らせている状況に追い込まれた。
「ああ〜、ダメだぁ。どこ行っても見つかっちゃう」
翼もさすがに疲れてきた。ボールも途中であっさりと没収されて練習がとうと
う叶わなかったのも翼をがっかりさせていた。
「どこかにボール、落ちてないかな…」
人目を避けてやってきたのは、クラブハウス隣の平屋建ての別棟だった。正面
からは近づかず、裏手に回って窓を覗いてみる。
「あっ、ボールあった!」
顔を輝かせて翼はそのボールに見入った。室内は無人だ。
窓に手を掛けると鍵はかかっておらず、これ幸いと翼は窓に跳びついてまんま
と部屋に入ってしまった。
「あれ〜? ここって、誰かの部屋?」
きょろきょろと室内を見渡すと、今入り込んだ部屋と続き部屋になっている部
屋が隣にあり、そちらを覗くとベッドがある。手前の部屋もスパイクだのユニフ
ォームだの見覚えのある一式が転がったりクローゼットの前に掛けられていた
り。ボールもその中の一つで、この部屋は明らかに選手の誰かが使用中らしい。
翼は入り込んだ部屋の真ん中にあるテーブルに目を止めた。
テーブルの上には弁当が3つ置いてあった。じーっと見つめてしまう。
すっかり忘れていたが、朝抜け出したきりだった翼はごはん抜きだった。しか
もそのまま数時間、飲まず食わずで走り回っていたことになる。
「…おいしそう」
ぐーっと腹の虫まで鳴き始めそうな勢いである。
「選手用のゴハンだったら、俺がもらっちゃっても、いいよねぇ〜?」
なにしろ自分も一応代表候補選手の一人としてここに来ているのだから、と翼
は都合よく納得する。
テーブルにそーっと近づいて翼は弁当を眺めた。3つあるがそれぞれ形が違っ
ていた。
一つ目の弁当を開いてみると、大きな耐熱容器にシチューがドカ盛りされてい
た。ロールパンが2個添えてある。
「シチューとパンだけ?」
量としては十分でもあまりにシンプルな献立だと翼は思った。しかしいい匂い
につられてシチューをスプーンですくってみる。
「あち!」
たった一口でヤケドしそうになり、翼は食べるのをあきらめた。
そこでその弁当はやめて今度は次の弁当を開いてみた。
「あっ、中華弁当だ」
翼は嬉しそうな顔になった。詰め合わせてあったのはマーボ豆腐とジャジャ
麺、あとは中華ではないがキムチも添えてあった。
翼は割り箸を割ってジャジャ麺の肉ダレを少し口に入れてみた。
「かっ、辛っ〜!!」
よく見るとジャジャ麺にも隣のマーボ豆腐のほうにも唐辛子がこれでもかと言
うほど入れてあるのが見えた。中華は中華でも本格四川風に違いない。
あまりの辛さに飛び跳ねて、翼は飲むものを捜したがテーブルに置かれたコッ
プには水さえ入っていなかった。
急いで3つ目の弁当を開く。こちらは幕の内風だった。隅に入れてあったうさ
ぎリンゴを見てぱくりと口に放り込み、翼はやっと口の中を中和することができ
た。
「これなら大丈夫そう…」
遠慮がちに食べ始めたのは最初のうちだけ。弁当はあっという間に空になる。
考えてみればここまで空腹になったのもこんな思い切り食べたのも久しぶりかも
と翼は考えた。練習ができない空白感から、食欲さえ落ちていたのかもしれない
と。
ようやく人心地がついた翼は椅子に深くもたれ込んだ。
「ふう…。なんだか眠くなってきたかも」
疲れていたところに満腹感が重なって、まぶたが重くなり始める。
翼はジャージを脱いで椅子にかけた。
「ん〜、汗かいてて気持ち悪い…」
さらに下に着ていた練習着も脱いで、代わりに着るものをきょろきょろと捜し
た。壁にはユニフォームが掛けてあった。代表のユニフォームではなく、練習用
に各自で持参したものらしかった。
その1枚を手にとってさっそく着てみる。
「あはは、ぶかぶかだぁ」
ドイツ語の企業名が入っているそのウェアはぶかぶかであるばかりか丈も長
く、翼が着るとベビードール状態になってしまった。
そこでそれは脱いで床に放り出し、次のウェアに手を伸ばした。こちらはTOHO
の文字が背に入っているキーパーウェアだ。
「これも大きいしー」
今度はマイクロミニのワンピースのようになってしまった。もう眠くて半分ぼ
んやりしつつ翼はそれを脱ぎ捨て、別の1枚をハンガーから取った。胸に小さい
ワンポイントとして漢字で「南葛」と書かれていたが翼はそれに気づいたかどう
か。
今度もサイズが少し大きめながらなんとか体に合って翼は満足したようだっ
た。
そのまま朦朧としつつ隣のベッドルームに入っていく。3つ並んだベッドの、
手前の一つに翼は横になろうとした。
「わ、わ! 沈む〜」
なんとそのベッドは特別仕様のふわふわスプリングマットが使われていたらし
い。乗ったとたんに沈み込みそうになって翼はあわてて這い出した。
今度は部屋の反対側に2つ並んだベッドの手前のほうに、少し用心しつつ入
る。
「あれ?」
ベッドのようでベッドではない? 翼は毛布をめくってコンコンと叩いてみ
た。
「か、堅いよ〜」
シーツの下にはマットではなく畳か何かが敷かれているらしい。いわゆる畳ベ
ッドというものだろうか。
何にしても眠気が一瞬飛びそうになるくらい翼はがっかりした。
そこでそのまま這うようにして隣のベッドに移動してみる。
「あ〜、これは気持ちいい〜」
もぐりこんで翼は目を閉じた。口元を緩めて毛布を顔まで引き上げる。もぞも
ぞっと体を丸め、そしてそのままあっという間に眠りに落ちてしまった。
部屋の中に聞こえるのは翼の小さな寝息。
そして――。
「あっけなかったな」
隣の部屋から寝室を覗きながらのひそかな声。
一人つぶやいたのは若島津だった。
「大丈夫ですか、若林さん」
「…か、可愛いっ――」
その隣で背中を丸めて口元を押さえている若林を、森崎が心配そうに振り返っ
た。
「俺のウェアを着てあんなに可愛いなんて…写真撮っておけばよかった」
「盗撮は犯罪だぞ。それに、俺のウェアのほうが似合ってた」
寝室へのドアを閉めて若島津はこちらにちらりと視線を向ける。若林はそれに
対して無言で睨み返すが、その背後で一番にこにこしていたのは森崎だった。何
と言っても翼が最後に選んだのは自分のウェアだったのだから。
3人は弁当のテーブルに近づいた。
「ひどい食い荒らし方だな」
「そんな芸のない弁当を作るからだ。ヤケドまでさせて」
「なんだと? おまえこそ自分の好みを基準にするから翼が辛がってたじゃない
か。あれはヒドイぞ」
なんと、用意されていた3つの弁当はそれぞれのお手製料理だったらしい。
「翼は合宿が始まってからほとんど食事に手をつけてなかったから、あれだけ食
べてくれれば一安心です」
完全に空になっていた自分の弁当を見て、森崎は満足そうに言った。若林も若
島津もそれを聞いてちょっとうらやましそうに森崎の弁当を覗き、それから残さ
れた自分の弁当をしぶしぶと食べ始める。
「あんなにしょんぼりした翼は久しぶりに見たから心配だったけど…」
森崎は寝室のほうをもう一度振り返った。
「練習には参加できなくても体力は落としてもらっては困るし、今日みたいな軽
いランニングあたりから始めてちょうどよかったですよね。食事も進むし」
「…なんて説得したってあいつはきかないからなぁ」
ドカ盛りシチューを最後のひとすくいまでパンでぬぐって口に入れた若林が顔
を上げた。
「しかも自覚症状がないときては…」
こちらもほぼ同時に四川風中華弁当を完食した若島津が箸を置いた。
「まあ、こういう居残りメニューなら喜んで協力しますけど」
本当に嬉しそうに森崎が言った。キーパーだけこちらに隔離されているのを利
用して翼をおびき寄せる作戦は今日のポジション別の練習の中で実行されたので
ある。
「ところでおまえは食わなくていいのか? 俺たちの昼飯はこれだけだぞ?」
他の選手たちは早めに上がってクラブハウスの食事をとっくにすませたはずで
もう今からは間に合わない。
若林にそう問われて、森崎はにっこりうなづいた。
「作りながら味見ついでにけっこう食べたんです。翼の好物はちゃんと知ってる
し、その分俺が有利だと思ってましたから」
「ほ、ほぉお」
若林は少々口惜しげな顔になる。食事で釣るために3人でそれぞれ競作の形に
なったが、つまり森崎には最初から勝算があったということだ。
「十分体を動かして、しっかり食べて、そしてたっぷりと眠るのが翼にはまず必
要だったわけですしね」
翼が脱ぎ散らかして行ったウェアを拾い上げながら森崎は2人を振り返った。
ぴくりと眉を動かした若林はしぶしぶと両手をこちらに向ける。
「ああ、わかったよ。3部門ともおまえの勝ちだ。翼の世話係はおまえの担当で
決まりだよ」
「しかたないな」
若島津も腕組みをする。
「世話係というか、説得役というか」
いかにも残念という顔の2人に、森崎はふわりと笑顔を向ける。
「まあ、慣れてますから、俺は」
寝室のベッド。着替えた服。遅い午後の弁当。――そして眠りこける招かれざ
る侵入者が一人。
それらをそーっと後にして、3びきのくまたちは午後の練習メニューに戻って
行ったのである。
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