歩を進めると、バサバサバサッと鳩たちが一斉に空に飛び立った。
思い切りよく晴れ上がった空を振り仰いでその鳩たちが遮っていった太陽の光に、日
向は顔をしかめる。
「まったく…」
もう一度視線を下ろして広い公園を見渡し、日向は一人でつぶやいた。
「どこへ行っちまったんだ」
南 風 〜もしくはある宿敵たちの俯瞰図に寄せて〜
確かに肩の凝る場だった。
春の国際大会についての調整会議は、もちろんサッカー協会の役員達が顔を揃えて、
ひたすら実務的な意見を交わしつつ、あっちを押しこっちをなだめ、省庁レベルの意向
だのスポンサーサイドの要望だの、いわゆる「大人の事情」のすり合わせに汲々とする
ばかり、選手代表として出席していたU−22代表の選手2名は立会い人としての名目
上のお飾りに過ぎず、たまに相づちを求められる以外はただただ黙っているだけのつま
りは「退屈!」以外の何物でもない状況に置かれていた。
「あの2人ってさ、相当仲が悪いそうじゃないか」
「ですよね。チームの代表として指名されてきたとかですけど、何もそんな組み合わせ
にわざわざしなくたって…」
会議の片隅でささやかれる声は、いったん休憩が告げられて皆が席を立っていくざわ
めきの中にも紛れていた。
「ほら、小学生大会以来って言うから、もうライバルなんて生易しいレベルじゃないん
だろうな、試合で対決する時以外でもそれだけ火花が散るんじゃあ」
「特にあの日向の顔、かなり不機嫌っぽいですよね、あ、なんか今、血相変えて出て行
きましたよ」
休憩を入れることになった途端に、翼は外の空気を吸いたいと言って姿を消してしま
ったのだ。それを追っていった日向に、数人の出席者が心配そうな目を向けていた。
会場に隣接した広い公園にはあまり人影はなく、もちろんその翼の姿もない。
別に探してやる義理もないんだが、と強がりを言いつつも、日向は噴水のある広場か
らさらに先へと歩き出した。
噴水から水路が引かれてその向こうの池まで続いていた。常緑樹が配されて、日本庭
園のような朱塗りの祠がその中央に見える。
それをぐるりと見渡した日向はふと何かの気配を感じて視線を一点に留めた。
池から背後に目をやって目を凝らすと、少し先の植え込みが何か妙な動きをしてい
る。
「…あのな」
近づいて行くと、見覚えのある靴が植え込みの隙間から覗いていた。地面ギリギリに
ある枝の茂っているそのさらに下の隙間にどうやら潜り込もうとしているらしい。
日向は近づいて行って、その靴底をトントン、と軽く蹴った。ぴたっと動きが止ま
る。
「何やってんだ」
「えっ? …あ、日向くん?」
奥からこもった声がして、靴とそれを履いた人物がもぞもぞと順に逆戻りしてきた。
ぱっと起き上がって、翼は日向の渋い顔をまぶしそうに見上げた。
「あのさ、この奥で猫の声がするんだ、すごく弱々しいんだけど」
日向は表情を動かした。少し考えて自分も植え込みの前に片膝をつく。
「…こっちから無理なら反対側はどうだ?」
植え込みをじっと睨みながら日向は別のルートを探っていた。
そして今度は自分が植え込みをかき分け始める。そうやって少しスペースを作ってお
いて目で翼に合図した。一回り体の小さい翼のほうが可能性がある。
「あ、聞こえる。さっきより近いみたい…」
また潜り込んで行った翼がすぐに声を上げた。そのまま全身をひねって完全にすっぽ
りと入り込み、そこで動きが止まる。
「いた! 猫だ、仔猫だよ」
声をひそめた報告に日向も枝を支えたまま声をかける。
「どうした、逃げられちまったのか」
「…違うんだ、何か、引っ掛かってて、それで動けないらしいんだよ。よーしよし、今
助けるからね…じっとしてて」
翼の声が途切れて作業に手こずっているらしい気配が伝わる。
「えと、あともう少し…このリボンが…。よし!」
さっきと違って今度は注意深く翼は後退りして出てきた。胸元に抱え込んでいるもの
を、立ち上がってから改めて見つめる。
その薄茶色の小さな毛の固まりは、明るい場所に出されて小さくニャ〜と声を上げ
た。翼も笑顔になり、それを見ていた日向も表情を緩める。
「よかったー、声しか聞こえなかったから心配したんだよ」
だからってわざわざ潜り込んで行くのもどうなんだという話なのだが。
「野良じゃなさそうだな」
リボンを見ながら日向が言った。確かに、生まれてまだ1ヵ月そこそこに見えるその
仔猫が真新しいリボンを首に巻いていると言うことは、ここらで生まれた野良猫とは考
えにくい。
「そうだよね。…あ、ちょっと抱いてて」
翼は仔猫を日向の手に預けると、脱いでそばの植木に引っ掛けていたジャケットを取
って日向のところまでまた駆け戻って来た。
「…あ〜、ダメだ、俺の服すっかり冷えちゃってる」
猫をくるんでやろうと思ったらしいのだが、脱いで放置してあったジャケットは風に
さらされてさすがに冷たくなっていた。
「日向くん、じゃあよろしく」
「あ、おい!」
猫を抱いていて抵抗できない日向のスーツのボタンに翼は手を伸ばす。上の一つだけ
外すと猫をその内側に入れ、にこにこ覗き込んだ。
「そこならあったかいよね」
「こら…」
日向が抗議しようとしたが翼は気にせずにそこに手を入れて猫のリボンをきちんと結
び直した。
「あ、あれ…?」
最初逆に結んでしまってまたやり直し。一人で百面相をしながらリボンを結んでいる
翼を見下ろしながら日向は苦笑した。
「よ〜し、これくらいでいいや。あ、こらこら、引っ張っちゃダメだよ」
手にじゃれつく仔猫を最後になでておいて、翼はようやく日向から離れた。真面目く
さった顔で二、三歩下がり、日向をじっと見つめる。そしてにっこりした。
「ふうん、意外と似合うね、日向くん」
「ば、馬鹿言ってんじゃねえ」
なぜかムキになって怒鳴り返す日向だった。
「それより、こいつどうすんだ」
「そうだなあ」
翼はゆっくりと周囲を見回した。
「迷子だったら迷子案内所だよね、とりあえず」
「そうか、飼い主が探してるかもしれねえな」
しかしこの公園に迷子案内所などあるのだろうか。管理者棟にとりあえず向かうこと
になった。
「あ、今度俺に」
翼はやっと温まった自分の上着の中に猫を抱きかかえた。
それを何度も見下ろしながら嬉しそうに笑う翼に、日向も苦笑するしかない。
「どうせ今だけだぞ?」
「いいんだよ、それでも」
よしよし〜と声をかけてなでてやってから、翼はちらりと日向を見やった。
「日向くんも交代したい?」
「いらねえよ」
おまえが抱いてろ、と口の中でぶつぶつ言っているうちに、公園の端の管理者棟が見
えてきた。
「すみませーん、猫の迷子なんですけど」
翼が事務所の窓口で呼びかけると、その中の椅子に座っていた二人連れがはっと顔を
上げた。何か書類を手にしていた事務所の係員も同じように振り返る。
「あの〜?」
小柄な老夫婦は何度も頭を下げて仔猫を受け取った。
「もらってきて家に連れて帰る途中だったんです。休憩させようとここに寄って…」
それがいきなり車から飛び出したということだった。
途方に暮れていたに違いない二人は本当に嬉しそうに礼を繰り返した。
「え、名前を?」
「はい、これもご縁ですし、ぜひ」
なんと老夫婦は、まだ名前をつけていないこの仔猫に名前を付けてくれないかと言い
出した。翼は少し困ったように首をグルグル動かして、そしてふと隣の人物に目を止め
た。
「じゃあ…小次郎!」
「あ、こら!」
日向はぱっと顔を赤くして翼につかみかかった。
「なんてこと言うんだ。それにこいつは…」
「あの、女の子なんですけど…」
おずおずと奥さんのほうに言われて翼も目を丸くした。
「あ、そうなの? じゃあ…」
またあちこち視線をさまよわせて考え始める。
「えーと、み、み…みぃちゃん! みぃちゃんでどうですか?」
今度は皆の賛同を得て、無事に名前は決まった。
「さよなら〜! 元気でね!」
管理棟の外で老夫婦と別れて、二人は歩き出した。
「小次郎でもよかったのに…」
「まだ言うか」
一歩先を歩きながら未練っぽくつぶやく翼に日向は苦い顔をした。
「それより、あの『み』ってのは…どっちだ?」
「えっ、岬くんだけど…ああ、三杉くんもそうか。じゃあ二人ともってことで」
けっこう適当だな、と内心少し安心しながら、それでもあの二人にこのことは黙って
いたほうがよさそうだと日向は結論づけた。
公園のちょうど中央を通る広いプロムナードはやはり他に人影はなく、日は差してい
ても少々寒々しい。
それを感じたのか、翼は自分の両手を胸の前に丸く広げてそれをじっと見下ろした。
「小さくて、あったかかったなー」
感触を思い出しているらしい。その手の形はさっきの仔猫の大きさだった。
「急に寒くなっちゃった、手が」
「そうか?」
振り返った翼に見つめられて、日向も口ごもる。まあ、気持ちはわからなくもないの
だ。
「ポケットにでも突っ込んどけ、それだったら」
「うん」
翼は隣に並んで、いきなり日向のコートのポケットに片手を入れた。
「あ、おい! 自分のポケットって言ったんだぞ!」
「言ってないじゃん。それに日向くんあったかいしー。あの子もあったまってたしー」
くすくすと笑う声に少し寂しそうな調子を感じたのか、日向はしかたなくそのまま歩
くことにした。
「それより、どうすんだ、俺たちも。会議はもう始まってると思うぞ、とっくに」
「戻りたいの?」
「いや、全然」
あまりに即答だったので翼はぷっと噴き出した。
「俺もだよ。どうせ俺たちがいなくても会議に関係ないと思う」
「そうだよな」
名目だけの出席者が二人くらいいなくなっても、あの会議ならあのまま続くことだろ
う。
「でも、俺たちのこと、仲悪いって思い込んでたから、あの人たち」
「おまえも聞こえてたのか」
まあ、世間の評判というものが実情と食い違うことはよくあるものだ。人気商売をし
ている身には今さらのことだった。
「俺たち仲悪いんじゃないもんね」
「そうだな」
ちらりと悪戯っぽい目を交わして、二人は声を揃えた。
『めちゃめちゃ仲悪い!』
あはは、と笑い声を上げて翼は日向にもたれかかった。
「おいおい、重い」
「さぁ〜、どこまで歩く?」
「どこまででもいいさ」
いつの間にか日向も片手をポケットに入れて、暖かさは倍になっている。
吹き抜ける木枯らしは、そのうち春の南風になって、遠くの空まで吹き抜けていくは
ず。
「先は長いからな」
飛び立っていた鳩の群れと一緒に視界が巡る。
そんなふうに世界が変わっていく瞬間が、その高さから二人を見下ろしていた。
【 END 】
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