会えぬまま過ぎ去っていく時間、縮まらない距離。
そんなジレンマは、会えば解消されるはずなのに、自分でも怖いくらい貪欲に佐野を求めてしまう。
照明を落とした薄暗い自室のベッドに新田は横たわったまま、まだ目を閉じたままの隣にいる佐野の寝顔へと
腕を伸ばす。
「ごめんな。」
ポツリと呟き頬に垂れた髪に触れ、ゆっくりと撫でてやる。
佐野に無茶をさせているという意識を新田は持ち合わせているつもりだった。けれど自制が利かない、顔を見れ
ば冷静ではいられなくなるのだ。
―――会えなかった空っぽな時間を、全て埋めつくしたい。
前から時々、新田を不安にさせたのは、佐野の口から何度も出る次藤との話だった。
付き合い始めた頃、次藤の事を嬉しそうに話す佐野が何だか恨めしく、佐野は自分よりも次藤と一緒に居る時
の方が佐野らしくいられるのではないかと寂しく思う事もあった。
中3になり、次藤が卒業した後はほとんど次藤の話も出てこなくなり、自然とそれは新田がすっかり忘れていた
感情だった。
あと数日で、この春からまた佐野は次藤と同じ高校になる。そしてここ最近、佐野の口から次藤の話がまた増え
ている。
先輩後輩の関係の他に何もないとは思いながらも、新田には佐野が生活の大半を次藤と過ごすという事が何だ
か切なく感じていた。
―――こんなにも独占欲が強いなんて。
今こうして自分の街へと佐野が来て、一緒に過ごしている時間は偽りのない事実で。
今ここにいるはずのない次藤に少なからず嫉妬の念を抱いている自分に新田は苦笑していた。
「バカだよな、ホント。」
そう呟きながらも新田はまた、すぐに離れていってしまう目の前の恋人の寝顔に軽く頬を寄せた。
* * * * *
次藤が国見に入学してから2度目の春が来ようとしていた。
この春、比良戸中時代一緒にプレイしていた1年下の佐野が同じ国見に入学する事が決まり、次藤はまた佐野
と、今度は高校で共に全国制覇を目指す事となった。
今日は新入部員らと先輩サッカー部員らとの顔合わせ。
新入部員の挨拶がなされる中、他の新入部員の挨拶はほとんど耳には入らず、次藤は佐野の様子にだけ目を
やっていた―――…
佐野の国見受験の日、国見の校内で、次藤はほぼ1年振りに佐野の姿を見つけていた。
「祈っててください。国見の優勝のためにね?」
生意気な事を言い、佐野は次藤に余裕の笑みを浮かべると足早に試験のある教室へと入って行く。
そんな小さな佐野の背中を、次藤は微笑みながら見送っていた。
そして4月。
真新しい制服の1年生らの中に長髪の後輩をみつける。佐野のブレザー姿も中学時代の学ラン姿とは違い、次
藤にはやけに新鮮に映る。
次藤の視線に気づいたのか、佐野は他の1年生とともに軽く頭を下げ笑顔を向ける。
体はやっぱり小さいのに、佐野は会わなかった1年もの間に随分大人びた顔を見せるようになったなと、次藤は
感慨深げに佐野を見ていた。
嬉しそうに自分の後をいつも追ってきた可愛い後輩。そんなイメージも今は遠い思い出なのだろうか、そんな思
いが次藤の頭を過る。
「相変わらずお前、佐野ば見る目が保護者だなぁ。」
一緒にいた姫路は嬉しそうに次藤を見上げ、次藤は当たっているだけに苦笑するしかなかった。
…―――佐野の番が回ってきた。
「1年C組の佐野満です。働きますんでよろしくお願いします。」
言ってくれるね?と顔を見合わせる先輩部員。
普通に考えれば、入学したばかりのこの生意気な1年坊主の自己紹介に文句をつけないところがなんだか可笑
しい。
佐野が幾日か春休みに国見の練習に参加していたせいもあるが、実際それがなくても、中学で2年連続全国大
会、海外の試合にも出場している佐野の実力をここにいる全員が知らないはずもない。結局は実力があるからこ
そのこの生意気な態度であり、周りの対応なのだ。
ふいに次藤は去年の自分が、実は今の佐野と然程変わりない生意気な挨拶をしていた事を思い出す。
コイツも相変わらずだ、そう思いながら次藤は佐野と視線が合った瞬間ニヤリと笑った。
サッカー部に佐野が入部して10日が過ぎようとしていた。
そんな中練習中、ゴール前に詰めこもうとディフェンスラインまで走りこんできた佐野が膝から崩れた。
「さすがの佐野クンももう限界か?」
ミニゲーム中、茶化すように3年が言う。
すみません、そう言って苦笑する佐野を見ながら次藤は首を傾げた。
日没と同時に練習が終わり、当番の1年を残して部員は帰路へと向かう。
2、3年のほとんどがシャワーを終わらせ着替え始めた頃、部長ら数名とまだ打ち合わせをしていた次藤は、終
えるとすぐ部長らと同じように汗で生温かく濡れた練習着を首から乱暴に抜くとロッカーへとそのまま放り込ん
で、代わりにそのロッカーから乾いたタオルを取り出しシャワー室へとゆっくり向かった。
オヤジの様な呻き声を僅かに発し、次藤がシャワーを浴び始めてしばらく経った頃、自分に何かを訴えるような
声が聞え、次藤はダラダラと洗っていた頭を急いで流しシャワーを止めた。ドアに引っ掛けていたタオルですぐに
ワシャと頭を拭いて声のする方へと向くと、声の主は当番の1年生で切羽詰ったような顔をして次藤を見てい
た。
どうやら何かあったようだ。
「どがんした?」
「よかった!次藤さんが残ってて。佐野が……。」
「佐野?佐野がどがんした?」
佐野と2人で一緒にボールを体育倉庫に仕舞い込んだ後、佐野がそこに座り込んだまま動かなくなって、手を貸
そうとしたが後で行くから先に行けと言われ、部室に独りで戻ってきたらしい。
次藤は目の前にいる1年に、任せて帰れと言い、手早く着替えをすませるとすぐに体育倉庫へと向かった。
体育倉庫内では佐野がダラリと後ろの壁に凭れていて、明らかに様子がおかしい事に気づく。
「やっぱい調子悪かったとか。」
次藤の声かけに脱力していた佐野がゆっくり目を開ける。
「あ……すみません。ちょっと疲れて休んでただけですから。」
無理に作り笑いをしているのはすぐにわかる。次藤は佐野の近くへと歩み寄っていく。
「中学と高校では違うやろう?まぁだ入ったばっかりだけん無理すっことはない……っていうかお前、部活が終
わった後も何処かで余計に練習しとるやろう?オーバーワークはようない。」
佐野は座り込んだまま次藤を見上げ、次藤は佐野の前に屈み込むとすぐ佐野の額に手をやった。
「やっぱいタイ。熱あるじゃなかか。そがんで練習すっヤツがおるね?」
「……練習で体温上がっただけですって。」
「そがん訳なかやろう?まぁだお前は1年だ、来年げなあるとばい。何ばそんげん焦っとるんタイ。」
次藤の言葉に佐野は唇を噛み締める。
――― 一緒に国立へ。新田と約束したから。
そんな事を次藤に言えるはずがなかった。
国見の選手層はかなり厚い。佐野の実力ならスタメンも夢ではないが、やはりまだ中学を卒業したばかりで、し
かも小柄な佐野の体力は高校サッカーではまだ十分とは言えないのだ。
余計に意気消沈した佐野の様子に、次藤は溜息をつくと佐野の方へと屈んだままクルリと背を向けた。
「ほら、送ってってやるから、乗れ。」
次藤の言葉に一瞬躊躇いはしたものの、佐野は素直に従い重い体を起こし次藤の背中へと覆いかぶさる。する
と佐野の鼻先を石鹸の匂いが掠めた。
「すみません。俺、練習着のままだし、汗掻いたままだし……。せっかく次藤さんシャワー浴びたのに。」
佐野の珍しくすまなそうにする様子に次藤は鼻で笑って、体の熱い後輩を落とさない様に負ぶったまま立ち上
がると、部室へ寄り鞄を取ってそのままバス停までの道を歩いた。
次藤の中で、ずっと以前、佐野がもっと小さい頃に、佐野を負ぶって帰った記憶が蘇る。
自分はほとんど変っていないのに、佐野の体は当たり前の様に大きくなっていた。
「久しぶりじゃのう。佐野ば負ぶさるのも。」
「何か、オッサン臭いですよ?」
バス停に着いて、次藤はゆっくりとベンチに佐野を下ろす。
そしてすぐ、明日は休め、そう言って佐野の頭を軽く撫でた。
結局、次藤は保護者の様に佐野の家までついていき、ほぼ1年ぶりの訪問にも関わらず、勝手知ったる佐野の
家でグラスを棚から出すと麦茶を入れて佐野に出してやる。
どっちの家?そう言って佐野がケラケラと笑う。
「次藤さんいい嫁さんになれそうですね?」
「気持ち悪かことば言うなよ?」
そう言いながらも次藤はまた台所へと踵を返し、今度は冷蔵庫から冷えピタを1枚取り出していた。
「それ、姉ちゃんのダイエット用なんですけど、ってかそんなの貼りたくないんですけど。」
「文句ば言うな。他によかってがないしな。ちょっとは違うやろう?」
次藤は佐野の座っていたソファーの前に屈むと、佐野の前髪をあげ、熱った額に冷えピタをピシッと貼った。
次藤の目線と同じ場所にある佐野の顔は、前とは変らず大きい黒目が印象的なのだが、何処となく大人びて見
える気がする。親戚の子供じゃないが、久しぶりに見るとやはり違うものなのかと、次藤は感慨深げに佐野を見
つめた。
「あんまり見ないでくださいよ?何かコレかっこ悪いし。」
そう言って冷えピタをつけたまま微妙に膨れっ面になった佐野は、以前のものと変らない顔になった。
「今日せっかくだから夕飯食ってきます?うちのヤツラ喜びますよ?」
佐野は変らぬ懐っこい笑顔を次藤に向けた。
そのまま夕飯を佐野の家で一緒に取る事にした次藤は、食事の合間に佐野の母親に何度も礼を言われ、昔か
ら憧れていた佐野の姉も見れて、酒を飲んでいるはずもないのに酔っ払いの様にかなり上機嫌になっていた。
一方佐野は次藤とは対照的に、具合が悪くてもアンタはいつも教えないと母から懇々と説教をされ、早く寝ろと
食事もそこそこに和やかな輪からは見事に追い出されて、渋々と次藤らが食事をしている最中に風呂に入り、す
っかり部屋着に着替えた後リビングのソファーにゴロリと横になった。そして自分と次藤との扱いの落差にかなり
不満げな顔を見せながらも、母親から渡された錠剤を飲み、また横になってぼんやりと次藤らの様子を見入る。
「ほら!みー、サッサと寝る!次藤君は私たちがちゃーんと接待するから気にしないでいいって。」
姉の横柄な口ぶりが癇に障りながらも毎度の事ながら姉には逆らえず、佐野は次藤に深々と頭を下げ、2階の
部屋へと階段を上っていった。
布団に入ろうと上掛けを剥いだ時、部屋をノックする音が聞え、佐野はすぐにドアを開けた。
「あ、次藤さん。」
「ちゃんと寝ろよ?で、明日は部活は休むんだとぞ?こいはワシからの命令。」
「えー?そんな……。俺に死ねって言ってるようなモンですよ?」
何ば言っとる、と次藤は隠し持っていた新しい冷えピタを、多分風呂に入る際にでも取り去ったのか今は何もつ
いていない佐野の額に再びペシと貼り、その勢いによろけた佐野は、またさっきと同じ不満げな顔で次藤を見上
げた。
次藤が階下に下りていくと、佐野の母親がいそいそと茶の用意を始めていた。
お構いなくと笑みを浮かべ次藤はリビングのソファーへと腰を下ろす。そこへ佐野の姉がビールを飲みながら次
藤の隣へと腰掛けた。
「ねぇ、次藤君、みー、じゃない満って彼女いるの?」
「か、彼女!?」
あまり大きくもない次藤の目が全開になり、佐野の姉はそんな次藤の顔を見てつい噴出す。
「あ、ごめんね?笑っちゃって。知らないならいいわ。気にしないで?ちょっと気になっただけだから。」
それは寝耳に水の、気にしないでという方が無理な話で。
―――佐野に、彼女、ねぇ。
「何かさ、ボール持たないで朝早くから出かける事も増えたような気がしてね?」
いつもは玩具の様に佐野を扱っている姉も、少なからず弟の動向が気になるらしい。
そこへ母親から熱い日本茶が目の前に差し出され、礼を言うとすぐに自分を落ち着かせる様に次藤はそれを啜
った。
「高校生で彼女とかいたらさ、舞い上がっちゃって結構暴走しそうでしょう?男の方がちゃんと気を使ってあげな
きゃ……ね?次藤君?」
自分に向けられた問いかけに、次藤は姉の方へと顔を向ける。するとほんのり柔らかな香りが鼻を擽り、柄にも
なく次藤は僅かに頬を赤らめた。
「そいは……お姉さんの経験からね?」
「フフッ。そうかもね?」
そこへ母親が口を挟む。
「考え過ぎなんじゃない?だいたいかかってくる電話だって女の子からはそうそうないでしょう?いつも新田君か
らだけじゃないの。」
―――新田?
「聞いた?母親って息子がいつまでも小さいみー君のまんまなのよね?ホント困っちゃう。……あ、お母さん、彼
女じゃなくって、彼の間違いかしら?」
佐野の姉は弟の心配をしているかと思えば母親までもからかって。何やら楽しげにクスッと笑う。
次藤は自分がこの目の前にいる佐野の母親と同じ心境になっているような気がして、1つしか違わないのにと
自分でも可笑しくなり口元が自然と緩んだ。そしてユースの頃に仲良くなった佐野と新田のふたりの交流が未だ
に続いている事にも妙に関心していた。
しかし同時に、次藤はたった1年の間に自分が知り得ない事が増えすぎて、佐野との距離が遠く離れてしまっ
た様な、そんな寂感にかられるのだった。
翌日の授業は、佐野はいつも以上に全くやる気が出ず、部活を休むのに学校にくる意味があるのかと、終始怪
訝な顔でダラダラと教室にいるだけの時間を過ごした。
昼休みになり、適当に弁当を食べ終えた佐野はいつものように屋上で黄昏る。
ふいに制服のズボンの尻辺りがブルブルと震え、佐野は別段顔色も変えずにポケットに手を突っ込むと携帯を
取り出して耳に当てた。
『佐野ーー!』
あんまりな大声に佐野は片目を瞑り携帯を耳から離した。10秒くらいした頃またそれを耳元へと戻す。
「何だよ。でけぇっつーの。」
『何だよって、何だよ……。俺ずーーーっと電話待ってたのに。』
「あ、ごめん。昨日は調子悪くって薬飲んだら寝ちまったんだ。」
『えーー!?調子悪いってどこが!?どこが!?』
「ああ、もう大丈夫だよ。ちょっと疲れてただけで。帰りは次藤さんが送ってくれたし。」
『……次藤さん?』
「うん。次藤さん。」
佐野が答えた途端、急に新田がおとなしくなった。電波が弱くなったのかと佐野は慌ててアンテナを立ててみ
る。
「もしもし?」
『いいよな次藤さん。……俺も次藤さんになりてぇ。』
「何言ってんだか。」
『だってさ、お前と同じ学校で、お前と同じサッカー部で、お前と一緒のバスで、お前と……。』
どれだけ並べればいいのか。聞いていて途中で呆れる佐野だ。
『とにかくさ……俺は佐野が苦しい時に側に居られないってことなんだぜ?ちくしょっ。』
「そんな、いまさら。」
佐野の何気ないその一言は、新田をかなり落胆させるものだった。
佐野といる事の出来ない時間。佐野との距離。
電話をする事で縮まったかに思える事も、こうして話をしていても、新田にとってはとてつもなく遠いものに感じ始
める。
『どこでもドアが欲しいな。』
それは大真面目な新田の呟きだった。
昼休みが過ぎ、満腹な佐野は午前よりもさらに眠気を増したまま授業を遣り過ごす。
6時限目が終わり、普段の佐野なら部室に直行するはずなのだが、昨日次藤に部活を休めと言われた手前顔
を出すわけにも行かず、てれてれと鞄に最低限の荷物を詰め込みとりあえず教室を出ようとしていた。
ふいに後ろから級友に肩を叩かれ、佐野はその級友の指差す教室の戸の方へと顔を向ける。するとそこには、
部活に出ているはずの次藤の姿があった。
「いいんですか?次藤さんまでサボリなんて。」
「サボリじゃなかぞ?ちゃんと休むと言ってあるとばい。そいにお前独りにすっと何処で練習始めるかわからなか
けんな?」
「信用ないな。」
佐野はクスッと笑い、次藤は口端を緩めた。
「ところで、このまま俺について来るつもりですか?多分家に帰って水戸黄門でも見るか、ゲーセンにでも行く
か。どっちかですよ?」
昔とは真逆。今は自分についてくる次藤が何だか妙に笑え、振り向きざまに頬を緩ませ佐野は次藤の顔を見上
げる。
長い前髪の隙間から佐野の悪戯っぽい眼差しが見え、強面の次藤の顔もいくらかいつもより穏やかになる。
「ま、たまにはゲーセンもよかばい。」
「次藤さん、ゲーセンでもサッカーやるくせに。サッカーあるとこってあの店しかないし?」
「お前ン麻雀横目で見たらが楽しかからな。」
「……ムッツリだ。」
着いた店はかなり前に次藤が通っていた所謂悪が集まるゲーセン。通っていたというよりも喧嘩の約束を取り付
ける場所だったようで、そこまで次藤が喧嘩に夢中になっていた事は、佐野には今でも理解に苦しむものだっ
た。
「相変わらず汚いなぁ。」
佐野の呟きは閑散とした店内に響いたようで、見覚えのある店長が苦笑しながら佐野を睨む。
「おお、あったあった。ワシのゲーム。」
入り口からずっと奥にあるそのゲームはあまりに古すぎてほとんど使う者などいない。言わば次藤専用テーブル
というわけだ。しょっちゅう来ている訳でもないのにずっと置いてあるのは、次藤を恐れてというわけではなく、単
に入れ替えをする金がないという噂。
早速次藤がゲーム機の前に座りゲームを始めると、佐野もすぐにその隣で麻雀をし始める。するとそれに呼応す
るように、店内にいた何人かが次藤へ挨拶にやってきた。
「誰ですか?」
「知らん。」
そんな会話が声をかけて来る人間が変る度交わされる。それも此処に来る度変らない出来事。
「何か次藤さん、ちっとも変らない。」
佐野の一言に、次藤が自分のゲーム画面から目を逸らし佐野の方を向く。
「そうか?成長しとらんのかワシは。」
「いや、もうそれ以上大きくならないでいいでしょう?」
馬鹿にしている風でもなく、次藤に顔を向けず笑いながら言う佐野が自分の画面を指差し、脱いでますよ、そう
次藤に教える。
「やっぱい本物ならやばいんだろうな?」
「やばいっしょー。でも……、昔のアイドルですよ?今おばちゃん。」
そんなふざけたやりとりの中、誰かが佐野に差し入れの缶ジュースを2つくれた。
「ホントに知らないんですか?」
「多分な?」
「次藤さんのおかげで俺まで有名じゃないだろうなぁ。」
「そいは感謝して欲しかな?」
あまり嬉しくない事ではあるが、佐野はとりあえず、感謝してますと次藤に手を合わせた。
脱がすのにも飽きて、結局ふたりでプラプラと街中を歩いていた。
この辺りを歩くのはお互い久しぶりなはずなのだが、街の様相は全く変わった気配も見せない。
「つくづく此処は田舎ですね。ずっと変りそうもない。」
佐野の呟きに次藤も頷く。ただ、佐野よりも長くここに住んでいる事実を考えると、次藤は自分が相当な田舎者
なのかと苦笑していた。
ふと次藤が花屋の前で立ち止まった。
「次藤さんと花?絶妙だな。」
茶化すように佐野が言い、次藤は一瞬ムスッとした顔を見せるがすぐに表情を崩す。
「ちょっと待ってろ。」
何か思いついたのか次藤がひとり店内へと入っていき、佐野は不思議そうな顔でそれを見送ると、暫くの間、花
屋の前で居辛そうに縁石を何度も爪先で軽く蹴った。
次藤が花を片手に店内から出てくる。佐野は意外だという顔を次藤に向けた。
「何で、菊?」
「ちょっとな……なかなか練習も休めなかけんな。」
行くか行かないか互いに確認もせず、先程とは逆に、今度は佐野が次藤の後について歩き出した。
バスで一区間くらいの距離を歩いて行くと、小高い場所に古びた小さな寺が見えた。
寺の境内へと足を踏み入れ、掃除をしていた住職に軽く挨拶をし線香の類と桶を借りて、密集している墓石群の
中を次藤は迷う事なく歩いていき、佐野は黙ってその後をついて行く。
そしてある墓石の前で次藤が立ち止まる。
もう来たか、次藤がポツリと呟いたその墓の前には真新しい花が挿してあり、その墓石には佐野の知らない苗
字が刻まれていた。
「誰のですか?」
「友達タイ。お前がまぁだここに来る前ンな。今日は月命日なんタイ。……や、実は覚えとったわけじゃなか。た
またまぁだばってンな。」
佐野の問いに答えながら次藤が桶から墓石へと水をかけてやる。佐野が引越して来たのは小5の頃だ。随分
幼いうちに亡くなったのかと、佐野は少し胸が痛んだ。
「こいつっちゃサッカーばしとったと。」
次藤の初めて見せる寂しげな顔色を窺いながら、佐野はそれ以上は聞く事も出来ず、次藤から線香を受け取る
とすぐに屈んでそれを供え、黙ってただ墓前で手を合わせた。
既に墓地からは遠ざかり、自宅の方へと歩いていた。
自分の知らない頃の次藤。考えてみれば、佐野と次藤の付き合いも長いように感じるだけで実際はほんの数年
なのだ。
友達の死。親の死さえも考えられない佐野の頭に、新田の顔が浮かんだ。
考えらンねぇ、そう思いながら緩く首を振る佐野に次藤が首を傾げた。
「そういえば、お前、ワシのおらん間に彼女でん出来たか?」
いきなりの次藤の言葉に、佐野は目を丸くする。
「何言ってンんですか!ってか、いたら次藤さんと歩いてませんって。」
「随分だな。ま、そうだな……。お前ン姉さんがいるんじゃなかか?とか言うもんだとけんついな。」
「またあの女!」
佐野は怪訝そうな顔をする。
「あと、何か彼女じゃなくて彼とか……。」
「はぁ?」
呆れて言葉も出なくなった佐野に、次藤が笑う。
「まぁ、心配してくるっ人間がいるってことは幸せやろう。」
「……誰かにもよく言われますよそれ。でも、心配してるっていうよりイジメっこですからね、あの女は。」
「だいかって……新田?」
思わず佐野は次藤を見上げた。
「何だ驚いて。何か変なか事ば言ったか?」
「え?あ……、何で新田が。」
「そいも姉さんが。」
「あンの女!」
憤慨している佐野に、まぁまぁと、次藤は佐野の頭をポンと叩いた。
その夜は、佐野から新田へと電話をかけていた。
案の定佐野の話の中身は、今日知った次藤の友達の話になる。
「なぁ、もしもさ、俺が今死んだらお前どうする?」
佐野の突拍子もない発言に、新田は慌てふためく。
『な!何だよいきなり!あるわけねぇだろが!ってか死ぬなー!』
「例えばだよ例えば。」
そんな例えはいらないし、そう思いながら新田はハァと溜息をついた。
『泣くよ?無茶苦茶泣く。』
新田の返しに佐野がいつものようにバカにしようと口を開きかけた時、新田が言葉をさらに繋いだ。
『泣いて……サッカーするよ。』
「……何だ。今と変らないじゃんか。」
『変えらんないだろ?佐野がいなくなっても俺は俺のままで……。お前といたままの俺で ……ずっと変りたくな
い。』
「……それ、口説いてる?」
『いまさら、だろ?……ってか、お前さぁ、目の前にいない時にどーしてそーゆー話するかなぁ?』
「あ、ごめん。」
新田にしてみれば、会えないからこそ楽しい話がしたいわけで。
けれど電話をしていても、ほとんど新田が話をして佐野が相槌を打つというパターンが主で、その合間に佐野が
何か話そうとするとやけに次藤の話ばかりのような印象になる。
間違いなく新田自身、自分が喋り過ぎだという事は分かっている。本当は、佐野の話を聞くのは寧ろ嬉しいはず
なのだが、どうにも次藤との楽しげな話が出てくると受け入れる事が出来なくなる。つい脈絡もなく話を変えてし
まったりする事もしばしばである。
そんな自分に呆れながらも新田は、これからは話の中の次藤という名前の部分だけを脳内変換しようと誓い、
一方佐野は、また話がややこしくなるのではと今日自分が部活を休んだ事までは言うのはやめた。
暫くの間、ふたりの頭の中では様々な処理がなされていた。多分互いに都合がいいような操作に間違いはなか
った。
「悪かったよ新田。でもさ……。」
『ん?でも?』
「今日は俺がどこでもドアが欲しい感じ。」
『え?マジ?』
さっきまでの表情とは打って変わって新田の顔は一気に明るくなり過ぎていき、絶対に電話の向こうには伝わら
ないはずのそれは、新田のマジ?の一言で確実に佐野に伝わっていた。
『じゃ、俺はドラえもんが欲しいな!』
また妙な事を口走る新田。佐野は呆れながらも言葉を探す。
「のび太?そんなヤツと付き合いたくないなぁ。」
『ンだよのび太って。じゃ、お前は静香ちゃんな?』
「サイアクー!いつも風呂入らなきゃじゃんか!」
そうしてくだらない話をさらに延々1時間はしていた。
ほんの少しでも、言葉を交わせば離れていた距離は確実に縮まるはずだ。
不安になるのは、多分離れている時間だけのせいじゃない。それが何なのか、あまり考えたくはない事だけ
ど。
結局今ここにいる、この電話の佐野を信じるしかないのだ。
こんな事を考えてるって知れば、佐野はきっと笑うだろうけど。
『繋がっていられるだけで幸せだな?』
その夜の新田の呟きも、大真面目なモノだった。
翌日の練習は、明らかに一昨日とは違ってやけに部長から佐野への風当たりは強かった。
昨日休んだ分を走れと言われたのだ。
「何で俺だけ。」
弱音を吐き、苦笑しながらグランドを走る佐野の後方から次藤が走ってくる。
「すまん!昨日、ワシ、お前も休むって部長に言うの忘れとったタイ。」
「えーー!?だからあんなムスっとしてたのか!頼みますよー次藤さん……。」
てっきり次藤が言ってくれたと思っていた佐野は、後から部長にどんな言い訳をすればいいかとそれしか頭にな
く、憂鬱な気持ちのまま走り続ける。本当は自分で申告するのが当たり前のはずなのだが次藤にはつい甘えが
出る佐野だ。
「休んだと分、ちゃんとキッチリてさ?」
次藤は他人事のように言い放ち、それでも何故か自分は走らなくてもいいはずなのに佐野の後ろを一定の距離
を保ったまま走る。
「次藤さんのそのアバウトさ、時々羨ましいです……。」
「ま、何事もほどよく穴が空いとったほうがよかってことよ。余裕がないとな?」
「空き過ぎじゃ?」
佐野が思わず噴出したのと同時に、グランドの端にいた部長からの激が飛ぶ。
「うー。次藤さん、一緒に来てくださいよ?俺お小言苦手ですからね。」
振り向きざま苦笑交じりに佐野が言い、振り向いた事でペースが落ちた佐野と後ろの次藤との距離が一瞬縮ま
る。それでも次藤はペースを微妙に落としぶつかる事はないくらいの距離を保つ。
佐野は気づく様子もなくすぐに向き直して走り、次藤は佐野の小さな背中を追って、佐野のあと何周かのランニ
ングを”伴走”という勝手な名目をつけて自分も付き合う事にした。
どこまで一緒に走れるのか……。いや、そんな終わりを考えるのは止そう。
今はこの前を行く生意気な後輩とともに全国制覇へのロードを着実に踏みしめて走るのみ。
多分それは、前を走る佐野も同じに違いなかった。
(完)
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