Save a Sunny Wish for a Rainy Day











 明け方近く、まだ始発電車も動いていないはずの時間に、ドアの前に気配がした。
 少しの間をおいて、ためらうようにポ…ンとチャイムの音が響く。
「自分の家なのに、鳴らす?」
 ドアが開くなり、くすくすと忍び笑いで迎える。
「…ああ、自分の家なのに」
 そこには、疲れた表情の弁護士が立っていた。
「誰もいないはずの家に、嫌な気配がしたからな」
 それを聞いて、反町は心から嬉しそうに笑顔を見せた。
「コーヒー、入ってるよ」
「おまえな…」
 玄関先でこれ以上やりあっていても空しいだけだ。あきらめたというように靴を脱 ぎ、井沢は部屋に入ってきた。先にキッチンに立っていた反町の背を見やって深いため 息をつく。
「おまえに合鍵を渡しておいた覚えはないんだがな」
「そんなの! 愛さえあれば合鍵なんていらないさ」
 なぜかぴったりのタイミングで入っていたコーヒーを差し出す反町は、もう片方の手 にはちゃっかりと自分の分をキープしている。
「おかえり、井沢。3日ぶりの帰宅だよね、お疲れさん」
「…おまえ、いつからここにいた」
 留守にしていた日数を正確に言い当てられて、井沢は眉を寄せた。
「へへ。3日前から」
「なるほど」
 どうせ、それ以上追及しても無駄なのはわかっている。コーヒーを口にしたところ で、井沢は動きを止めた。
「どしたの?」
「コーヒーが旨くない」
「えーっ!」
 大げさに目を見開くと、反町は自分のマグをあわててテーブルに置いた。
「いつもと同じ豆で同じに入れたぜ。おまえ、まさか…!」
 近づいて井沢の額に手を当てる。反町の表情が曇った。いつになくぼんやりとしたし た様子の井沢を見て、その手からそっとカップを取り上げた。
「熱っぽい、かな。おまえ、まさか昨夜だけじゃなく、もっと前から徹夜状態とか言 う?」
「そんなことは、ないさ。少しは眠ったから」
「少しって…」
 疑い深そうにその顔を覗き込もうとする反町を払いのけて、井沢はのろのろとクロー ゼットの前へ移動した。スーツのジャケットをまず脱いでネクタイをゆるめ、そしてそ こで手が止まる。
「井沢?」
「いや……」
 少し自分で状態を確認するように動きを止め、そのまま注意深くソファーまで戻ると 井沢は腰を下ろした。
「どしたの?」
「ちょっと、目が回った…ような」
「あ〜」
 反町は顔をしかめて自分の顔をぴしゃりと叩いた。
「だから言ってんのに。ねえ、もしかして、ろくに眠ってない上にメシもほとんど食っ てないとか…? 最後にメシ食ったの、いつ?」
「いつだったかな。昨日、依頼者のホテルで会って……そこでコーヒーを飲んで…」
「コーヒーはカウントしない。食事だよ、ちゃんとしたメシ!」
「……」
 井沢は答えるかわりにじっと反町を見上げた。そしてその手をつかんで自分の隣にぐ いっと引っぱり込む。
「なになに?」
 反町が目を丸くする前で、井沢はふーっと力を抜いて身を預けてきた。
「ちょっと横になるから」
「え、えっ?」
 珍しいと言えば、いつも誰の前でもスキを見せないこの男がこういう弱みを見せてい ることに、反町はただ驚く。こんなに疲労感をいっぱいに自分から頼ってくるなどと。
「少しだけ、休むから…」
「少しじゃ足りないと思うけど…」
 心配をしつつも顔が緩む。自分の膝を枕に横になっている井沢を見下ろしながら。
「まあ、俺の膝枕で良くなるんならいくらでもどうぞ。特別割引で使わせてやるよ」
「…なんだ、有料か」
 薄く目を開けて井沢は微かな笑みを見せた。もう半分以上眠りに落ちかけている。
「わかった、起きてから思いきりおまえを食ってやるよ」
「話がわかってるじゃん、井沢」
 眼鏡をそーっと外してやりながら、反町は井沢の髪が額に落ちるのを楽しげに見つめ た。それに反応して井沢の唇があいまいに動く。
「何…?」
「おまえの声が、直接響いて気持ちがいい。…もっと何かしゃべっててくれ」
「何かって、何でもいいわけ? 九九でも? 百人一首でも?」
「…ああ、その調子。もっと、頼む」
「熟睡したいからか? それとも俺に甘えてるだけ? どっちだよ」
 小さくクスクス笑ってから、反町は話し始める。
「じゃあ、俺の旅の話をしてやるよ。いつの旅かはともかくな」
「……」
 まだ寝入ってはいない。まぶたがゆるゆると動いている。返事をしようとしてそれが かなわずにいるようだ。見下ろしてそう確認してから反町は続けた。
「その国には船で渡ったんだ。フェリーで国境越えさ。まあ、いろいろと入国でもめそ うだったから。でもフェリーは定員を超えるくらいの人数がいて、港に着いてからもが やがややってるうちに手続きも適当に済んで、俺は町に無事に入れた。買い出しの客に まぎれてバスを乗り継ぎながら移動して、街道をあっちこっちしながら北に向かってっ て、首都の郊外に着いたら4日経ってたよ。まあ、寄り道も悪くなかったけどな。地元 の情報も何かと手に入ったし――」
 反町は井沢の髪に触れた。いつもはきちんと結んである髪は、さっき横になる前にほ どいてあった。掌でゆっくりと撫でながらその手触りに無意識に口元を緩める。
「着いて最初に行ったのが市場だ。俺、あの雰囲気が好きでさ。ほんとにそこに住んで る人がそこの生活のためにものを集めて売って買って。見てるだけで驚いたり感動した りできる場所だって気がすんだ。ま、それに自分の欲しいもんも買えるわけだし、腹も 満たせるし」
 井沢はもう眠りに落ちたのか、話の合間に微かに見せていた反応はなくなっている。 反町の話は自分に聞かせる独り言になったが、それでも声の響きは直接触れている井沢 には伝わっているはずだった。眠りの邪魔をしないように静かに髪に触れながら、反町 は旅の日々を語り続ける。
「食い物買って、おばちゃんやお兄ちゃんたちと世間話もして、宿にいいとこないかも 教えてもらってさ、便利だし楽しいよな」
 話も続いているが、反町の手も動き続けている。最初は確かに髪をなでていただけだ ったのだが。
「で、着いたその日のうちに知り合いがいっぱいできちまったわけさ。いい知り合い も、困った知り合いも…」
 ふう、と息を吐いて反町は苦笑した。彼の旅では珍しくない出来事の一つだったが、 それでもその度に新しい感動があり、収穫もある。だからこそはるばる出かける意味も 生まれるわけだ。
「せっかく教えてもらって泊まった宿だったのに、結局一晩中眠れなかったんだよな。 て言うか、部屋にも戻れなかったよ」
「――つまり、おまえも俺に説教できる身じゃないってことだな」
 反町の手が止まる。そう言ってから開いた目が下からまっすぐにこちらを見つめてい た。
「不摂生はお互い様だな、反町」
「まあね」
 反町は反論する前に噴き出した。視線の先に思い当たって井沢は自分の髪に手を触 れ、自分が寝入っている間に反町が何をしていたのかを知る。いつもしばっている髪が おさげに仕上げられていたのだ。反町は自分の腕前に満足したようだった。
「似合う、井沢…」
「こいつめ」
 下から腕を伸ばして頭ごと引き寄せ、唇を合わせる。
「もうおはようのキス? それとも、おやすみのキスかな?」
「どっちがいいんだ?」
 井沢は反町を放すと、膝の上で軽く伸びをした。仮眠とは言え、気分は少しはすっき りしたらしい。
「どっちがいいかなあ」
 身を起こした井沢と、今度はソファーの上で見つめ合う。
「本気で口説いてくれるなら乗ってもいいよ、引き止める口実でもさ」
「本気だとも」
 井沢はニッと笑う。
「おまえが本気なのと同じくらいな」
「恋人として? それとも弁護士として?」
 体を引き寄せられながら、反町はじっと相手の目を覗き込んだ。シャツのボタンに手 がかかるのを上から押さえる。
「やっぱ寝直したほうがいいよ、井沢。一人でね。俺、今日は逃げる」
「そうはいかんな」
 まだ甘えモードから抜けていないのか、いつもと違う井沢の抱擁が反町を逆にあわて させた。ふわりと、あくまで優しく抱きしめられて、今度は反町が熱に浮かされそうに なった。
「ねえ、放してってば。俺はそろそろ…」
「たまにはおとなしく拘束されてろ。もっとも警察に渡すよりも別口に直接引き渡すほ うが俺には身入りはいいんだが」
「ひどーい、井沢」
 軽い口調でシビアな会話を続けながら、井沢は反町の肩をぐっと引き寄せた。
「おまえがあの旅で持ち帰った物を欲しがってる奴がいてな。それと、取り返そうとし てる奴も別口にいるもんだから、俺は両方の顔を立てないといけないんだ」
「そんなの、俺が知るもんか。どうせそれでがっぽり儲けるのはおまえだけじゃん。こ っちは逃げるが勝ち、ってことで」
 反町は身をよじって井沢の腕から抜け出そうとする。
「自分がやらかしたことは自分で責任を取れ。ほら、素直に」
「うわあ」
 さっきまでのソフトな抱擁が一転して強引な動きに変わった。逃げるどころか、さら にしっかりと捕まってしまった反町は小さく悲鳴を上げた。
「その徹夜仕事が俺のせいだったってんなら悪かったよ。けど、ちゃんと眠らせてやっ たじゃん。ゴハンも作って冷蔵庫に入れてあんだから。後はチンしてさ……」
 必死の言い訳はしかしそこでさえぎられる。井沢の声はさっきとはトーンが違ってい た。
「――そうだな、ほんとに気持ちよかった。お前の声が俺の中にしみこんでくみたい で。その響きでよーくわかったよ、面白い旅だったんだろうってことが」
「えっ?」
 一瞬腕がゆるんで、逆に反町は抵抗を止めた。
「おまえは仕事を楽しんでるんだ、報酬よりも楽しみのために仕事をしてる。うらやま しいよ」
「井沢……?」
 手を、思わず伸ばしてしまう。額にかかる前髪をそっとかき上げて、井沢の視線を直 接受ける。
「うらやむくらいなら、手に入れてみろよ。俺は、ここにいるぜ?」
「そうだな。手に入れようとするとするりと逃げて。またいつ現われるかわからないの にな」
「うん」
 にっこりと笑うと、反町は自分から両腕を回して強く抱き返した。
「それでいいじゃん。俺はそれでも、おまえの所にまた現われるんだから」
「わざと捕まりに、か」
 井沢が自分を追っていることを察しつつも、ここで待っていた反町。鬼ごっこは、そ うやって終わることなく続くのか。
「それは、おまえ次第」
 ぱっと体を離して、反町は立ち上がった。
「おまえが捕まえてくれるの、楽しみにしてんだから、俺」
「あきれた奴だ。それがおまえの愛の告白か」
 反町の姿がそこから消えてようやく我に返ったように井沢はつぶやく。
 朝の気配がドアが開いて閉じたその一瞬に外から流れ込んだのだったが。それとも、 それは、返事だっただろうか。
「そうかもね」
 姿を消す直前に見せた最後の笑顔は、井沢にそう語っていた気がする。
 自分もゆっくりとソファーから立ち上がって、井沢は窓を見た。
「さて、久しぶりに事務所に顔を出すか。その前に何か食って」
 食いそこねた誰かの代わりに。
 井沢は自分でも気づかずにため息をついた。




【 END 】










11000 hit のキリリクで ritsu さん にいただいたリクエスト「悪徳カッ プル」です。なんだかラブラブかど うか怪しいですけど。
お待たせして本当に申し訳ありませ んでした〜。