人通りの少ない静かな路地に、その小さなカフェはあった。
埋まっているテーブルは少ない。ちょうど街路樹の葉陰の下で、彼らはコーヒ
ーを楽しんでいた。
そこに、小さなランチボックスが出される。手作りだとすぐにわかる、四角い
密封容器。
「おいしいよ」
そこに入れられていたふわふわの焼き菓子をつまんで、三杉はにっこりした。
目は上げない。向かい合わせに座っている相手に、本気の気持ちだと伝えるため
にも。
「本場の味とは程遠いと思うけどね。自己流だから」
しかし、その相手が本音を出さなかったなら別だ。三杉は顔を上げると、カッ
プを手に横を向いている岬のその表情を嬉しそうに見た。
「ふうん。本場って、どこの?」
「ブラジル」
その視線を予測していたのか、岬もようやくこちらに顔を向けた。
「それ、お菓子みたいだけど、パンだよ。ポン・デ・ケージョって名前」
「なるほど、チーズのパン、か」
うなづいて、三杉はまた次を口に運ぶ。その楽しそうな食欲に、岬は今度は緊
張を解いたようだ。手を伸ばして自分も一つ取る。
会話はしばらく途切れたが、代わりにゆっくりと時間が流れた。
「なくなっちゃったね」
「うん、おいしかったよ、本当に」
二人はコーヒーをもう1杯ずつ追加した。
「岬くんが料理が上手いって話は、かなり以前から聞いてはいたんだ」
誰からかは言わずもがな。彼ら二人の間ではその名前は出さないことが不文律
となっているらしい。出さなくても通じるからだ。
「必要に迫られて覚えただけだよ」
父親と、二人だけの生活の中で。が、それも語られる必要のないことだった。
「やってるうちに、けっこう面白いってわかったんだ。凝るだけ、その甲斐もあ
るってね」
「いいなあ」
三杉はため息と一緒にそうつぶやいた。それがかなり本気の言葉だったので、
岬はつい逆らってしまう。
「やめてよ。こんなの特技のうちにも入らないよ」
「まさか」
三杉は驚いたように目を見開いた。
「絶対、特技だよ。履歴書にだって書くべきだ」
「履歴書、か」
岬は思わず笑い出す。
「どこかのクラブからオファーがあったら、じゃ、そう書くことにしようか。契
約条件が良くなるかもね」
「当然だよ。売り込むべきは売り込まなくちゃ」
半分くらい本気で三杉は答え、そして自分も笑い出した。
なにしろ岬はとある分野では国際的に注目を集める存在だ。今さら売り込む必
要があるはずもない。もっとも、そちらはアピールしていい程度を既に越えてし
まっている感もあるが。
2杯目のコーヒーも空になり、二人はカフェを出る。
ホテルまではメトロで3駅だったが、時間はまだまだあったから、宿泊先のホ
テルまで路地をたどって歩いて帰ることになった。道は岬が知り抜いている。
「これも君の特技かな、方向感覚に強い」
「自分の住んでる所なら当り前さ。パリの中でも知らない場所は知らないよ」
それは謙遜だった。岬は初めての街でも誰より先に正しい方向を把握して道を
見つけ出す。そんな場面に、三杉も何度か出会っている。
「君こそ、特技なら山ほどあるくせに、三杉くん」
「うーん」
三杉は言われて首を傾げてみせた。探そうとしているのではなくて、選ぶのに
苦労しているのでは、と岬は密かに思う。
「たとえば、心臓病?」
「バカ言わないの。たとえば、語学とか」
「それは君だよ。住んだ場所ごとの言葉を全部マスターしているくせに。僕は習
ったのは英語だけだ」
現在住んでいるパリならフランス語。実はここが一番長く住んだ町になってい
る。あとは日本各地の土地言葉の数々。短期間しかいなかった町でも、岬はかな
りの程度を身につけていた。
一方、三杉もその言葉とは裏腹に、ネイティヴ並み、と定評のある英語を操
る。幼い頃からみっちり鍛えられた、と岬にもかつて話したことのあるクイーン
ズ・イングリッシュだ。
「君の家なら、色々と習い事させられたんじゃないの? サッカーで忙しかった
としてもね」
「まあね、実は時間はけっこうあったんだ。サッカーはともかく、学校に行って
いない期間もあったから」
健康上のハンデを、別方向に生かしたのだとまで言い切る三杉に、それがタブ
ーとなる話題でないことを改めて知る。自分も三杉も、ハンデはハンデのままに
させておかない、という生き方をしてきたということだ。
「英語以外には?」
「そうだな、運転とか」
「それって、無免許のまま実地で覚えたってことだよね、悪者」
私道、私有地なら法に触れないのかもしれないが、三杉がそれ以外でも四輪を
運転していたことは間違いない。取得できる年齢になったのは今年のことだ。
「バイクもだろ? 松山より恐ろしいライダーだって、聞いてるよ」
「いや、光にはまだまだ及ばないな。ああ、弥生にもね」
三杉はくすくすと笑った。バイクは松山と共有なので一緒に走ったことはない
が、もし3人揃ったりしたら東京のどの暴走族よりも凶悪な結果を招きそうな予
感だけはある。
「そうだ、ヘリコプターも確か操縦できたよね。まさかと思うけど『ついでに』
軽飛行機も、なんて言う?」
ちょっと嫌な記憶が甦って、岬は軽く眉をひそめた。三杉は笑顔のまま多くは
語らないが、それはつまり否定ではないということだ。
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