パルク・ド・プランスは夢を語る
<岬一郎の抵抗・異聞>











 三連のホイッスルが高く響いた。張り詰めていた時間が一瞬ふっと弛緩したかに 見えた次の瞬間、スタジアム中がごおっと揺るがんばかりの大歓声に包まれる。
 タイムアップだ。
 メインスタンドの一隅に陣取っていたパリ日本人学校の生徒達も手にしていた旗 を一斉に放り上げ、互いに抱きつき跳ね上がりながらその喜びを表わす。――彼も その騒ぎの中でもみくちゃになりながら何度もうなづいていた。
「よくやった、太郎。よくやったぞ、本当に…」
 彼の視線はピッチ上で仲間達と歓喜の波に揺られている息子にくぎづけになって いた。長い、長い間不自由をさせてきた一人息子――だが、再び仲間達と巡り会 い、そして勝利した息子。彼は涙ぐみそうになっている自分に気づいてちょっと苦 笑した。あいつのために喜んでやれるのもそろそろ終わりかもしれない…。そんな 思いがふと彼の頭をよぎった。
「岬さん」
 彼の感覚がその瞬間、周囲から寸断された。
 歓声も、人々の姿も、すべてが白一色の中に溶けて消え、その中でただ一つの声 が彼に呼びかけていた。
「とうとう見つけましたよ、岬さん」
 彼の背後に黒い人影が立っていた。くゆらしている煙草の煙が緩やかにその姿に まとわりついている。
「まさかこんな形でお会いするとは思ってませんでしたがね」
「――どなたですかな」
 彼が言葉を発したと同時に、世界は再び歓声と光の中に戻った。振り返った彼の 数列上の通路に、その長髪の男がいた。サングラスに隠れた表情には、しかし,お およそこの場にそぐわない冷徹な色があった。
「長い、自己紹介になりそうです。どうですか、場所を変えては…」
 男はそう言ってフィールドに目を転じた。苦しい闘いの果てに勝利を手にした全 日本ジュニアユースのメンバー達がひと塊になってピッチ上からベンチに駆け戻ろ うとしているところだった。その輝きに満ちた少年達の姿に、サングラスの奥の目 がわずかに細められたようだった。
「彼らのためにも、ね」
「もっともです」
 彼はうなづいて席を離れた。不思議そうに振り返る前列の少女にちょっと手で合 図しておいて、彼は男の後に従った。隠れたり逃げたりする気はなかった。そう、 それも今日を限りに終わるのだ。
 ゲートから内部の暗がりに入ると、スタンドの眩しさが嘘のような静けさが広が っていた。男は無言のまま、くわえた煙草の煙を背にたなびかせて靴音を響かせて いる。彼はふと記憶の隅にこの男の姿が何度か現われていることに気づいた。
「――片桐さん、でしたかな」
 男は足を止めて振り向いた。ゆっくりと煙草を離す。
「お互いに今日の日本の勝利は純粋に喜びたかったですね。私はこの日を――そ う、ずいぶん長く待っていましたから」
 彼は黙っていた。
「私は最初、岬くんを疑っていたのです。彼が初めて私の前に現われてから、ずっ と、です。昨日のフランス戦が終わる瞬間まで、私は彼が――『力』の持ち主だと 信じていました。しかし…」
 男は――片桐は手にした煙草を2本の指だけでぎりりともみ潰した。
「あの時、あのPK戦の時に、私は見てしまったんです。スタンドのあなたの…… 行動を」
 片桐の歯がちらりと見えた。が、笑ったためではない。片桐は興奮を隠すように 大きく息をついた。
「あなたは絵筆を持っていました。このスタンドで、です。あなたが画家とは言 え、状況的に見てそれがいかに奇妙なことかは誰でも気づくことでしょう。そして もちろん、あなたは絵を描くためにそれを持参していたわけではなかった…」
 スタジアムの大歓声がどこか遠い世界からのように響いてくる。表彰式が始まっ たのだろう。片桐はちょっとそちらに注意を向ける素振りをしながら、さらに言葉 を継いだ。
「一人が退場となって日本は追い詰められていた。なのに、残った10人の力は衰 えるどころか、さらに勢いさえ増して同点まで追いつき、結局引き分けに持ち込ん だ…。その間あなたは何をしていたか――」
 片桐はもう一度確かめるように相手の顔を凝視した。が、彼の表情は変わらない ままである。
「いいですか、私は専門の訓練を受けています。そしてもう何年も小さな手掛かり を求めて各地を回っていたのです。初めて岬くんのプレイを見た時、私ははっきり と『力』の影響を感じました。そして程なく私は確信することになったのです。あ の大空翼のパートナーとして、これ以上の偶然は望めないというほどのタイミング で彼がその存在を明らかにした時に」
 3年前のよみうりランドでの全国大会――静岡代表として出場していた南葛FC の奇跡につぐ奇跡とでも言うべき活躍は、もちろん稀代のプレーヤー、大空翼の力 なくしては語れなかったが、同時にそのサポート役としていかんなく実力を発揮し た岬太郎の存在も忘れてはならないものだった。しかも彼らは大会予選の数週間前 に相前後して南葛に転入して『偶然に』顔を会わせたばかりだったというのだ。
「だが私の追及を避けるかのように、あの大会の直後あなた方親子は南葛を去り、 そのまま行方が知れないままになってしまった。3年が過ぎ、あなた方がこのパリ にいることを知った驚きはそのまま疑惑への答えとなってくれました。そして、私 はサッカー協会に無理を通して岬くんを代表メンバーに加えた。…そう、今度こそ 真相をつかむために」
「――真相、ですかな」
 その時、ようやく彼がぽつりと口を開いた。
「いつでも私の真実はただ一つ、です。私は太郎を悲しませたくない。私のこの逃 避行にいわれもなく付き合わされているあの子へのせめてもの償いとしてね」
「ではお認めになるのですね、岬さん」
 片桐はゆっくりとした動作でサングラスを取った。
「ESP保持者として当局に出頭なさることを」
「……!」
 そこにあったのは無残にその存在を否定された右目、であった。
 EVIL EYE。彼は思わず口の中でそうつぶやいていた。邪眼――災いを成 すと古来より伝説に語られてきた魔性の目である。いや、むしろあまりに真実を見 抜いてしまうがゆえに疎まれた聖なる力だと言うべきかもしれない。だがその目も 既に痕跡を残すのみとなっていた。片桐の残された左目が、すっと細くなる。
「そうです。私も言わばあなたの仲間だったというわけですよ。ただし、もう遥か 前にその資格は失いましたがね。今は一介のESPハンターです」
 片桐はサングラスを胸ポケットに差すと、代わりに白い手袋を取り出してはめ る。
「さあ、私と来ていただきましょうか」
「私は…」
 彼は通路の壁を背に立ったまま静かに口を開いた。片桐の刺すような視線を横か ら受けながら。
「子を持つべきではなかったのかもしれない。私は不安だった。存在を許されない 身であることより、この身でありながら守るべき対象を得てしまったことが…。私 は私の運命にではなく、太郎に対して負い目を持ち続けたのです」
 彼はいったん言葉を切って、その表情のよく見えない顔で片桐を見つめた。
「この力を持つこと自体は罪ではない、と私は信じています。だが、親として在る ことが罪だと言われれば、私は否定しません」
 片桐は口を結んだ。その口の端に微かに冷たい笑みが浮かぶ。
「この世界では多数であることこそが正しいということなのですよ。私はそのこと をこの身をもって知りましたからね」
「…なるほど」
 彼は僅かにためらいを見せた。彼より頭ひとつ上背のある相手の顔を、ちょっと 斜めに見上げる。
「私は確かに逃げ続けていました。だがそれは追っ手から、であって、自分自身か らではない。私がなぜ風景だけを描き続けたのかおわかりですかな」
 彼はポケットから愛用の絵筆を取り出して静かに眺めた。
「私は自分の力に気づいた時、それを自分のために使うことに言いようのない嫌悪 を覚えました。かと言って他人のために使えばそれは大きな危険を伴うことになり ます。だから私は決心した。――本当にこれが必要となる日まで、私は力を否定も せず、無闇に使うこともせず、ただ温存するにとどめよう、と」
 片桐はぎくりと彼の手を凝視した。彼の手の筆が、試し描きのように宙にくるり と円を描き、そのまま止まる。片桐の顔色が変わった。その筆を彼の手から取り上 げようとつかみかかる。
「やめろ! それを離すんだ!」
 次の瞬間、片桐は彼の前に浮かび上がった青白い炎の輪に跳びすさっていた。そ れはふわり、と宙に浮いたまま、片桐に向かってじり、じり、と迫っていく。
「風景は――自然は口が固いですからね」
 彼はあたかも見えないキャンバスがそこにあるかのように、宙に向かって淡々と 筆を動かし続けた。たった1本の絵筆が、見えないタッチを重ね、見えない構図を 描き上げてゆく。
「何を――何をしているんだ!」
 片桐は次々に周囲に浮かび上がる青白い影に取り巻かれて、一歩も動けない。
「私は人物画はまず描きませんが、今日は特別です。なにしろ息子の最良の日です からな」
 彼はあくまでそのとぼけた表情を変えなかった。代わりに片桐の顔からは見る見 る血の気が失せていく。
「あなたは自らその眼の力を封じ込めたのだとおっしゃった。この世界と同化する ためにね。しかし、妥協と逃避と、どちらがどちらを裁けるのか、私は断言できな いと思いますな」
「み、岬さん――!?」
 スタジアムの歓声がまた一段と高まったようだった。マイクを通した声がとぎれ とぎれに聞こえてくる。それは優勝チームキャプテン、大空翼の晴れやかな、そし て力強い挨拶の言葉であった。彼はその声を耳に止めると、微かに笑みを浮かべ た。
「私はもう一人邪眼の持ち主を知っていますよ。彼は、やはり自らの能力を呪い、 周囲と同化できない自分に悲観して、逆に正常に機能していた他の身体部分まで磨 耗させてしまった。『網膜剥離』――それが彼に与えられた正当化の呪文です」
「なにっ、ま、まさか…!」
 片桐の声は僅かずつ弱まっている。
「その通りですよ。ロベルト本郷――彼は翼くんに、まさにあなたと同じ『眼』で 同じ視線を送っていたというわけです。皮肉な話ですな」
「ま、待ってくれ! 私は…!」
 声が次第に掠れるように遠のいていく。
「太郎はいずれ私の元を離れていくでしょう。けれども翼くんの夢が夢としてまだ あの子達の側にある限り、私は太郎のためにこの世にありたいのですよ。――ま だ、当局に拘束されるわけにはいきませんな」
 いつの間にか薄暗い通路に再び静けさが戻っていた。そしてそこに残っていたた だ一つの影――彼は静かに絵筆を置いた。











「太郎、わしはようやく決心がついたよ。――日本に帰り、そしていよいよ富士山 に挑戦する」
 岬一郎は、息子の驚く顔をにこにこと眺めながら、さらに言葉を継いだ。
「やらずに悔やむより、やって悔やむ、だな」
「父さん!」 
 首ったまに飛びついて喜びを表わす息子の頭に手をやりながら、彼は再び始まる 故国での生活に新たな思いをはせていた。
 悔やむことなどありはしまい。過去も未来もそして現在すら頼めないこの身で も、息子の未来だけは信じてやれる。それが彼の唯一の財産であり、希望なのだっ た。


《 END 》










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▼あとがき▼
「岬一郎の抵抗」という本があることを知 って、つい面白がってこちらの世界に置き 換えて書いたものです。本来のお話とはま ったく関係がないので、お許しを。そちら の本は読んだことがないんです。
なんだかシリアス風に書いておりますが、 よくよく考えると設定はギャグですよね。
舞台はC翼原作のとある場所にはめ込んで います。あの大会の裏でこんなことが起き てたりして、と考えると笑えますでしょ。