・・・・・・・・・ 鈴置さんの長い夢に捧げます







「どこだ、森崎はっ!」
 ロードワークから戻って、最初に響いたのがその大声だった。
 合宿施設のグラウンドに通じる通用門。そこに仁王立ちになっているのは日向だ。
「一人足りないと思ったら…」
 代表チームのキャプテンとしてロードワークの先頭にいた日向だが、戻ってみると人数が 足りなくなっており、一気に顔が険しくなっている。
「あれ〜、森崎、…ほんとだ、いない」
「おかしいな、途中まで俺の後ろにいたと思ったけど」
 南葛メンバーが息を切らせながら互いの顔を見合わせる。
「あ、思い出した、あいつ、朝ちょっと熱っぽいって言ってたんだ」
「そう言えば、走りながら変にヨロヨロしてたな…」
 日向は無言でその会話を聞いていたが、ちっと小さく舌打ちをして回れ右をした。通用門 の外、今来た道を逆にたどるつもりらしい。
「待って、日向くん!」
 その日向の背に、別の声がかかった。ぴくりと肩を強張らせた日向が振り向く。
 戻って来たメンバーたちにタオルを配っていた翼が、急いで駆け寄って来た。
「俺が探して来るよ」
 日向に並んで、翼はその顔を見上げた。この合宿、全国大会の時のケガが完治していない 翼は、とりあえずということで見学の毎日だったのだ。
「おまえは引っ込んでろ」
「もう、大丈夫なんだから、これくらい」
 頑固に首を振って、翼は先に駆け出す。日向はますます険しい顔になった。
「三杉、あとは頼む」
「わかったよ。でも嫌な雲が出て来てる。気をつけて」
 副キャプテンの一人、三杉にそれだけ告げて、日向は川沿いの道へと翼の後を追った。





「ごめん、俺…」
 土手道の上から見渡しても、人影はない。それをじっと見つめながら翼がつぶやいた。
「俺、知ってたんだ。森崎が、朝具合悪そうだったこと」
「……」
 日向はその翼を大股に追い越すと、そこで少しスピードを緩めた。翼のペースを抑えるよ うに、一歩だけ先を行く。
「でも、休みたくない、って森崎が言うから、俺、黙ってるって約束しちゃって」
「無理するのが好きな奴らだな、おまえらは」
 日向はいまいましげにそれだけ吐き捨てると、川沿いの道から右に折れた。交通量の多い ルートは避けてある。住宅地を逸れて、この先は丘陵地を抜ける上り坂だ。
「あっ、雨!」
 小さく声を上げて翼が空を見上げた。ぽつん、と落ちてきた水滴が、アスファルトの上に 染みをつけ始めたのだ。
「急がないとな」
 木々が茂るその先に古びた石垣が現われる。
「神社なんだ」
「おい、あそこだ」
 日向が指をさす。石垣が途切れて、石の鳥居が木立の陰に見えたそこに、人がうずくまっ ていた。
「森崎!」
 先に駆け寄って行った翼がそう呼びかけると、森崎がゆらりと顔を上げた。





「大丈夫、森崎?」
「うん…」
 上げた顔が申し訳なさそうに揺れた。うなづいたつもりらしいが、とにかく顔色が悪い。 「ここはダメだ、奥に行くぞ」
 そこに日向が追いついた。森崎が座り込んでいた石段から、鳥居をくぐって屋根のある場 所に移動させる。
「震えてるんじゃない?」
 翼が心配そうに言った。抱えている日向にももちろん伝わっていたはずだ。
「雨はここなら大丈夫だ。風が避けられるといいんだが」
 無人の小さな社は、その中に入ることもできず、軒下の少し低くなっている場所に森崎を 座らせる。
「熱がけっこうあるみたい。寒い?」
「ごめん、翼」
 森崎は自分よりも一回り小さい翼にもたれるようにして小さくつぶやいた。翼は腕を伸ば して背中から森崎を抱える。その二人の上から、ジャージが掛けられた。日向が着ていたも のだ。
「雨がやむまではここにいたほうがよさそうだ。それでも少しはましだろ」
 翼がはっと顔を上げると、日向は立ったままそっぽを向いていた。
「日向くんも、座れば」
「なんだと?」
 振り向いた日向に、翼はちょっと強く言葉を続ける。
「そっちから日向くんも抱えてあげて。そのほうがあったかいでしょ。森崎も、それに日向 くんも」
「俺は…!」
 ちょっとムキになりかけた日向だったが、そこで思い直して素直に腰を下ろした。
「なんで俺がこんなことを…」
「いいから。もっとくっついて」
 なんとも居心地の悪そうな様子で、日向はジャージの上から森崎とそして翼を抱え込ん だ。伸ばした手の指先が翼の肩に触れそうで触れない微妙な抱え方になっている。
「雨がやむか、それとも誰か迎えに来てくれるか、どっちかだね」
「どっちが先でもいいが、早くしてほしいもんだ」
 森崎は熱のせいか、この恐ろしい状態にはまったく気づかずにうつらうつらしている。

 



「雨のせいだと思うけど、暗くなってきたんじゃないかな」
「まずいな」
 日向はそっと背筋を伸ばして、社の正面の石段のその先、道路に下りる鳥居のあたりを窺 う。暗くなってしまえば、迎えが来てもここにいることがわからないかもしれない。
 続いて軒下から空を仰ぐが、雨脚は強く、雲は厚いままだった。遠くで雷鳴さえ響いてい るようだ。
 練習中だったから、携帯も持っていない。
「――おい、翼?」
 静かになったことに気づいて日向が横を見ると、翼までが目を閉じそうになっている。日 向に呼ばれて、こくん、と首が落ち、それで目が開いた。
「おまえまで寝るな、まったく…」
 怒りの向ける先に戸惑って、日向の言葉は語尾があいまいになる。翼はまだねぼけ半分な のか、雨が打つ土の地面にじっと目をやっていた。
「ねえ、日向くん」
「なんだ」
「俺が、合宿に無理やり参加したの、迷惑だった?」
「ああ、迷惑だ」
 翼には目をやらず、同じように雨を睨み続ける。
「無理を平気でしちまうような奴は目が離せねえだろが」
「え? えへへ」
 ぽかんと日向を振り返って、翼が口元を緩めた。それをちらっと一瞬だけ睨んで、日向は また雨に目を戻す。
「笑ってる場合か」
「うん…」
 翼はため息のように一人でうなづいて、首をすくめた。森崎をまたぎゅっと抱え直し、そ のまま日向のほうに寄り添う。





「俺まで眠っちゃいそうだから、日向くん、何か話しててくれる? 何でもいいから」
「なんだと?」
 雨音に、翼の声は溶けそうに小さかった。確かに、眠いのは本当らしい。
「話すことなんて何もねえよ」
「――俺には?」
 翼のつぶやきに、日向は黙った。黙って何かをじっと考えている。そして、ようやく口を 開いた。
「そうだ」
「日向くん」
「おまえと――仲良しこよしになんぞ、絶対にならないからな、俺は」
 そう言うと、日向はなぜかせいせいしたように薄く笑った。
「代わりに、歌を歌ってやる。俺が一つだけ、そらで歌える歌だ。親父に、死んだ親父に教 わったんだ」
「…うん」
 今度は翼がはっとする。下からそっと日向の表情を窺うが、その顔はどこか吹っ切れたよ うな、不思議な明るさを見せていた。
「親父は阪神ファンだったんだ。六甲おろしを、よく俺に歌ってくれた」
「……」
 わずかに体を緊張させて、翼は目を見開いた。耳を、じっと澄ませる。
 日向の低い歌声は、抱えられている腕を通して直接響いてくるようだった。
『――獣王の意気 高らかに』
 ジュウオウノイキ、タカラカニ…。
 翼の中に、その声はひたひたと染み込む。
 日向の声。
 それを、絶対に忘れない、と翼は思った。





「ああ、こんな所にいたのか」
 雨がようやくこやみになった頃、神社の鳥居の下から声がした。もう薄闇に包まれていた 風景の中から、三杉と松山が現われる。
「大丈夫だったかい? ひどい雨だったが」
「ここなら濡れないだろ。うまい場所を見つけたな、おまえら」
 社に近づいたところで、松山が目を見開く。そのすぐ後ろで、三杉がくすくすと声を殺し て笑い出した。
「日向、子守りが似合ってるよ」
「うるせえ」
 日向のジャージにくるまるようにして、翼と、そして森崎が寝入ってしまっているのを、 半分呆れながら、そして半分微笑ましく二人は見下ろした。
「翼くん、起きて。コーチが車を出してくれたから」
 松山と日向が先に森崎を運んで行き、翼もぼんやりと目を開けた。
「あ、三杉くん」
「無事でよかったよ。さあ、帰ろう」
「……うん」
 翼は立ち上がって、自分の背にかかったままだった日向のジャージをそのまま前で合わせ た。
「俺、夢を見てたんだ。なんだろう、よく覚えてないけど」
 翼は宙を見つめて、そして、ふう、と大きく息を吐いた。
「覚えてないけど、でも、俺は忘れない」
「…?」
 不思議そうにする三杉ににこっと笑い返し、そして翼は雨上がりの中へと駆け出した。





【 END 】




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 あとがき
日向小次郎役の鈴置洋孝さんが2006年8月6日に亡くなりま した。その追悼として書いたものです。
実はもともとはマンガで書くつもりでずっと持っていた話 でしたが、まさかこんな形で書くことになるとは。
鈴置さんの声をイメージして日向さんの台詞を読んでいた だけると嬉しいです。
六甲おろしの歌詞は、著作権に配慮して書かないことにし ました。
なお、この歌のエピソードは「エロイカより愛をこめて」 第1巻のワンシーンを下敷きにしています。ご存じの方は どうか笑ってやってください。