「…ふう」
足元にこくりと首を俯けて、翼は息を吐いた。
「大丈夫か」
一歩で追いついて日向が並ぶ。
「おまえ、飲みすぎだぞ」
「日向くんだって、キリなく飲んでたじゃない。底なし」
顔を上げて翼はうっすらと笑った。酔っているのは確かだが、顔色はさほど変わ
っていない。ただ、その視線が意味ありげにふわふわと絡まる。
ダンスステップのように
〜大人の時間編〜
「底なしはおまえだ。この格好で大酒くらうヤツがいるか」
「誰も見ちゃいないもん。日向くんがつぶれるまで付き合おうと思ったけど、さす
がだよね」
対する日向のほうもかなりの量を飲み続けたわりに表情は変わらない。ただ、女
子高生姿の連れの豪快な飲みっぷりに少々保護者的な気配りをし続けた分の疲労が
漂っていた。
最初に入った小料理屋は電話を入れておいたので他に客もなく、店主自慢の地酒
をゆっくりと楽しんだのだったが、続いて入った巨大居酒屋ではさすがに遠慮なく
というわけにはいかなかった。これだけ酔っぱらいだらけだと逆に目立たないとい
う面もあったが、この女子高生は見た目通りの年齢ではない。
ラテンの国々で鍛えられてきた酒量をいかんなく発揮して、目の前に並ぶ酒を片
っ端からあおっていったのだ。
もちろん、その相手をした日向も同じだけの量をこなしたことは間違いなく、つ
まりは2匹のうわばみは大酒勝負でも決着がつかなかったことになる。
「…暑っつ〜い」
翼はリボンをゆるめて襟元を広げ、ぱふぱふと風を入れる。その手を、隣から日
向が押さえた。
「こら、オヤジだぞ、それじゃ」
「だから、誰も見てないってば……」
かぶさるように迫ってきた顔を振り仰いで、翼は言葉を切った。
かすめるように触れて離れた唇がすぐ迫る。体は近づけずに、顔だけで重なり合
う。喉元に残ったままの2人の手が動いて、指が絡まった。
「ブランデー……」
低い日向の声がその喉元に響く。目を開いた翼はすぐ上から睨む視線を無言で受
けた。
「おまえいつのまに飲んだ」
「ビールと日本酒と、チューハイとワイン、あとカクテルも飲んだけど?」
「ブランデーは見てないぞ」
「日向くんの目を盗んで2、3杯だけ」
「…なんだと?」
「だって勝つためだからさ」
「こいつめ」
翼は一歩間を詰めて挑発的に笑った。
「これで全部じゃなかったりして?」
「ほーぉ」
日向は目を細める。
「その手には乗らねえぞ」
言葉とは裏腹に日向は空いたほうの手で翼を背からつかまえた。さっきより少し
強引に唇を合わせる。
何度も角度を変えながら、熱い息がそのたびに重なった。
「どう?」
「――旨かった」
至近距離で見つめ合ってから、日向は鼻で笑った。翼は口を尖らせる。
「ちえっ、だまされないか」
「大酒勝負の次は利き酒勝負か?」
翼は答える代わりにうつむいて、そのままずるずると日向の胸に頭を突きつけ
た。
「いつもと、顔が違うから、やだ」
「自分のことは棚に上げる気か」
「俺、自分の顔は見えないもん」
酔いが回り始めたのか、それともキスの余韻なのか、翼の声が沈む。
「見た目で嘘ついてる時って、言ってる言葉も嘘みたいじゃない?」
「しょうがねえ奴だな。ほら!」
両肩をつかんでぐるりと体ごと反転させ、目の前のビルのウィンドウと向かい合
わせる。
夜の街のネオンや照明、車のライトが重なり合って、そこに映る光景をきらきら
と彩っていた。
その中にしんと立つ2つの人影。
全てのものが流れて行き点滅する中で、そこだけ動かない姿。
ミニの制服姿の女子高生が目を丸くして、長身のスーツ姿の男に背後からつかま
えられてこちらを見ていた。
「どうだ?」
声だけは頭上から落ちてきた。
「あっちがニセモノだとしても、俺がつかんでるこいつはおまえじゃねえっての
か?」
「……」
不鮮明なウィンドウの反射が、ヘッドライトに割り込まれて一瞬かき消える。
翼ははっと我に返ったらしく、いきなり体を翻すと今度は日向を前に押し出し
た。
「おい?」
ウィンドウには今度はメガネ姿のサラリーマンが映る。すぐにその脇からひょい
と女子高生が顔を出した。
「ほんとだね! 本物の俺たちを知ってるのは俺たちだけなんだ。すごい!」
いや、だからそのための変装だったはずだが。
「ほかの皆には嘘だけど、俺にとってだけ、本物の日向くんなんだね」
「しっ」
ウィンドウからさっと背を向けて、日向は翼を抱え込んだ。
「だから、それは秘密だ。あくまでもな」
「うん、俺たちだけの」
同じくらいの力で日向の体にぎゅっと抱きついて、翼はくすくすと笑い声を上げ
た。
日向はちらりと周囲に目をやって小さく咳払いをする。
自分たちがいくらこの大勢の中の無名の一組だったとしても、だからと言って他
人から見えていないわけではない。
さっきから居酒屋の前で抱きついたり堂々と路上キスをしているのを通行人にじ
ろじろ見られていたのはちゃんとわかっていたのだ。
「まあ、気にしねえけどな」
無名でいられる開放感はそんなことで損なわれはしない。少なくともこの2人に
とっては。
「え、何?」
不思議そうに振り返った翼に、日向はまたささやく。
「変装ももう十分楽しんだからな、最後の仕上げといくか」
「最後って…」
翼の顔がぱっと輝いた。
「わー、俺、さっきからずっとそのメガネをとっちゃいたくてウズウズしてたん
だ」
「俺もその制服をあんなことやこんなことしたくてガマンの限界だ」
きゃらきゃらと、無邪気な危険人物がここに2人。
日本語の会話でないのがギリギリの救いであった。
「ラ・ブ・ホ! ラ・ブ・ホ!」
それはスペイン語では何と言っているのか…?
「待てよ。あいつらきっと車で移動するだろうから…」
「あいつら?」
「いや、いいんだ。行こうぜ」
なぜこの街がホームグラウンドなのかは謎のまま、日向は迷うことなく方向を決
めた。
「あ、待って、もう一回だけ」
見るからに問題のありありの姿での最後のキス。
平穏でそして危険に満ちた喧騒の街は見て見ぬふりを通してくれたかどうか、そ
れは微妙。
【 END 】
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