「よう、悪徳弁護士。元気そうだな」
手にしていた書類をバサリとデスクにたたきつける。顔を上げたその正面に、井沢を見つめるに
やにや笑いがあった。
「反町!」
物音にも気配にも気づかなかったのは不覚だった。都心のマンションの5階にあるこの法律事
務所はいわゆるワンルームで、井沢のデスク、事務員のデスク、来客用の応接セット、それに黒
い表紙の法令集がぎっしり並ぶ天井までの作り付け棚……が、それぞれの動線に従ってゆった
りと配置されている。そのドアの前、仕切り代わりにもなっている背の低いロッカーの向こう側か
らもたれかかるようにして、反町は身を乗り出していた。
「日本に戻ってたのか!」
眼鏡を外してレザーの椅子から立ち上がった井沢は、言葉を続けかけて眉を寄せた。
「おい…? 血の匂いがするぞ…。反町!」
反町は片目をつぶって笑うと、重心は腕に預けたまま体をねじり、肩のカメラをロッカーに乗せ
た。井沢は目を見張る。望遠レンズを装着したまま無残にひしゃげているのだ。
「大したことないって。ここまで歩いて来られたんだから」
「とにかく見せろ」
井沢は反町に手を貸して壁際のソファーに座らせた。膝の下からズボンが裂け、傷口が見えて
いる。その言葉通り反町はさほどつらそうな顔は見せず、片足で器用に移動した。
「血の匂いに慣れてる弁護士って、やっぱりコワイよなー」
「誰だってわかる! こんなに派手にやってればな。また無茶をやったんだろう」
「いやー、近頃は取材拒否も荒っぽくなったみたいでねぇ、ほんと」
「どこへ行ったかは敢えて聞かんが…」
井沢は立ち上がると重々しい両袖のデスクに戻った。手を伸ばして引き出しを開ける。
「ほどほどに、ってことを知らんのか。世間の常識に少しは歩み寄らないでどうする、まったく…」
救急キットを持ってソファーの前に立った井沢は、怖い顔で反町を睨みつけた。ただし返って来
たのは笑顔である。
「そうだな。うまく歩み寄って世間様から金を好きなだけ搾り取ってるヤツもいることだしなー」
「俺に喧嘩売る気か…?」
「いやいや、命の恩人にそんな…」
わざとらしく首を振って見せる反町に井沢は不信の目を向けた。
「おい、まさかまだ追われてるんじゃないだろうな」
「かも。…いや実はその可能性は高い、かな」
井沢は無言でさっと窓に寄った。カーテンの陰から外を窺い、また戻って来る。
「おおお、さすが手広くやってる弁護士さんは違うね。イザって時の抜け穴かい?」
「黙って降りろ」
一見普通のクローゼット、実はカムフラージュされた階段室であった。井沢が示した隠し扉の先
は、真っすぐ下へアルミフレームのハシゴ段が続いている。
「俺だって命は惜しいさ。正当な労働に対する正当な報酬ももちろん守らないといかんしな」
「はあぁ、正当、ね。そのへん議論は避けとくか。俺も命が惜しい」
反町は物珍しそうに室内を見回した。窓は一切ない細長い部屋である。ベッドと、簡単なユニッ
トキッチンがある。突き当たりのドアはバスルームか。シンプルだが落ち着いた色調のインテリア
は几帳面な住人の性格を反映して、隠れ家と言った胡散臭さは微塵も感じられない。
「事務所にもプライベートスペースが必要なんでな。自宅に戻る余裕のない時はここで寝る」
「それにしちゃ、ものものしいなー。何、これ。隠しロフトってわけ? すごいじゃん」
反町の言葉は無視し、井沢はベッドを指した。
「そら、それを使え。俺はあと少し仕事を片づけたら戻る」
「いざわー」
靴のままベッドにあぐらをかいた反町は目を丸くする。
「それって、下心ない?」
「あったほうがいいなら考えておく」
ハシゴ段に手を掛けたまま振り返り、井沢は極上の笑みを浮かべたのだった。
「痛むのか…?」
「いや」
反町は首を振ったが、井沢は注意深く体勢を変えた。簡単に止血をしただけの右足はまだ微か
に血がにじんでいる。
「俺の商売道具だからな。大事にしないと」
「そういやおまえは昔から逃げ足だけは早かったっけ」
「だけはないだろ。仮にもフォワードをつかまえてさ」
熱に昂まっていく身体とは裏腹に、口だけはまだ達者なようだった。井沢はそんな反町の髪に
顔を埋めたまま、クスリと笑いをもらす。
「あー、やなやつ」
「そりまち…」
抗議しながら向き直ろうとした反町を両腕で押さえ返し、低く名を呼んだ。反町の背がわずかに
緊張したのが伝わる。
「おまえ、なんで俺の所に来た…」
「な、にが…?」
スプリングがかすかにきしみ、また身体が深くベッドに沈み込んだ。呼吸のリズム、鼓動のリズ
ムが意識から引き剥がされ、やがて世界が重力を失いはじめる。触れるもの全てが、ただ、熱
い。
井沢はもう返事を聞いていなかった。外見の穏やかさとは逆に彼は性格的にも気が長くはな
い。もとより待つ気などなく、一気に反町を求める。声が耳に届いたが、それはもはや言葉とは言
えなかった。
規則的な水滴の音。いや、あれは血の滴りか。
井沢はそんな夢を見ていた。
「サッカーのサの字もないんだな、おまえって」
「…自分はどうなんだ」
答える自分の声をどこか遠くに聞いている感じだった。井沢は腕を天井に向けて伸ばし、指をゆ
っくり開いて閉じてみた。腕を下ろすと反町の顔が彼を覗き込んでいた。
「だって仕事だもんなー」
「俺だって同じだ」
確かにこの十年間は色々な意味で走り通しだった。そして彼の舞台は必然的に陽の当たらな
い場所へと移って行き、緑のフィールドの記憶は遠くなった。
反町が言ったのとは別の意味で、彼の生活は血の匂いを漂わせていると言えたかもしれない。
法律と社会の現実と、そのギリギリのところでとことん背徳的に行動するある種の浮遊感を井沢
は逆説的に楽しんでいる。それは事実には違いなかった。違いなかったが…。
「井沢、働き過ぎは寿命を縮めるぜ」
「おまえに言われちゃおしまいだな」
疲労感、と呼ぶにはあまりに甘美な余熱が、緩やかに全身を巡っている。その感覚には確かに
どこかで覚えがあった。そうだ。これは、罠かもしれない。
「どーゆー意味かなぁ、井沢」
「退屈は猫をも殺す、って言うヤツだよ。おまえは最初(はな)っから寿命を放棄してるんだ」
「井沢って…人をほめるの上手いのな。それ、職業病だろ」
その歩く「罠」は今ベッドに頬杖をついて、ああ言えばこう言うで一向に手を緩めてこない。タフ
ってのはこういうヤツの神経のことを言うんだな、と井沢はこっそり考えた。
「さ、飲もーぜ。あるんだろ」
言うなり反町は跳ね起きた。このフットワークと、常識の軽さがいわば彼の職業病だろう。
「ケガ人が何を言ってる。出血多量で死んじまうぞ」
「ンなこと言って…。さっき俺を殺しかけたの誰だっけ?」
ここで顔を赤くしてしまうあたり井沢もまだ若い。永田町界隈で文字通り陰から陰へとその名を
響かせている彼も、反町にだけは最後の一歩で勝てないのだ。ホレた弱みと言ってしまえばそ
れまでだが、いつどこで何を追いかけているのか皆目つかめないこの気まぐれなジャーナリスト
は、二人の関係にも決して「本気」を見せることはなく、突然思い出したように彼の前に姿を現わ
してはまた去って行く。井沢はいつも疑問や悩みをさしはさむ暇さえない。
「まー、いいからいいから。おまえ、いい酒持ってそうだもんな」
どういう嗅覚をしているのか、キッチンの棚からバランタインを出してくる。
「そういや、こないだあのT・インタナショナルの管財人からワインセラーをまるまるぶんどったんだ
って? 今度俺にも味見させてくれよー」
もう少し言葉は正確に使ってほしい、と井沢は思った。あの一件で差し押さえ処分となった財産
の一部を顧問報酬として得ただけなのだ。まあ、もっとくだけて言えば口止め料と言うこともでき
るが。
「ほい、井沢はシングルだったよな」
差し出されたグラスを受け取って、一気に干した。反町はベッドの脇に立ったまま、自分のグラ
スをくるくる回している。
「なんだ?」
「…ああ」
珍しく真面目な顔で反町は井沢を見下ろした。空になったグラスを両手に包んで、井沢はニヤッ
と笑い返す。
「追われて来た、っての、嘘なんだろ?」
「井沢…」
「逃げ込んだんじゃなく、最初から俺に用があったんだ」
「うん」
反町は素直にうなづいた。うなづいて笑顔になる。
「あのカメラさ、井沢にやる。俺よかおまえのほうが有意義に使ってくれそうだし」
「カメラだって…?」
一瞬あっけにとられる井沢に並んで反町はベッドに腰を下ろした。
「代議士さんが2人写ってる。一緒にいるのは来日中の画商だ。ほら、半年前のセザンヌの架空
取引で…」
「…反町」
井沢は手を上げてさえぎった。
「俺はおまえの不始末処理係じゃないぞ。面倒は人に押し付けておいて、自分だけ楽する気か」
「まさかー」
反町はひるまなかった。
「こんなのマスコミに売り込んだって大した金になるわけじゃないし、下手すりゃどっかからの圧
力でもみ消されちまう。その点おまえなら、って思ったんだよ」
「わかった…」
井沢はギブアップした。
「で、いくら欲しいんだ」
「そーだなー」
反町はわざとらしく腕を組んでみせる。
「とりあえずは今夜ぶっ壊れたカメラとバイクの分、かな」
「バイク…?」
「護衛のやつらに見つかってさ、逃げようとして事故ったわけ」
井沢は黙って反町の足を見た。納得する。
「それと」
悪戯っぽい目が井沢を見つめた。
「もう一回、今度はマジに…」
さっきのはマジじゃなかったと言うのか。生真面目な悪徳弁護士は反町の手のグラスをそのま
ま引き寄せて飲み干すと、床に転がした。
放物線を描いて壁まで転がっていったグラスは、フットライトに軽く当たってカチリと硬質な音を
響かせる。
「罠」は長い一夜となった。
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