「あれ? どうしたの、若林くん」
「お前を誘惑に来た」
言うなり壁に押しつけて顎に手をかける。
「えー、駄目だよ。今夜は日向くんと約束してるんだ」
もう少し驚いてくれたほうが嬉しいんだが…と頭の隅で考えつつ、若林は目の前の翼のと
ても年上とは思えない無防備な愛らしさに目を細めた。
「あんなのより俺のほうがずっといいぜ」
「え、だって若林くんは…」
低くささやきながら重なってきた若林の唇に、翼の言葉は途中で封じられる。
「――あ…」
さらに何か言いたげな翼を無視して、若林は背に回した手に力を込めた。そうして唇を合わ
せたまま側のソファーに倒れ込む。
「――あ、ふ」
「つ、翼、なんつう声を出すんだ。まだ俺は何もしとらんぞ」
言い終わらないうちに、若林の後頭部にぐいっと大きな圧迫感があった。
「なんかされちゃ困るんだよ、若林」
頭上から降ってきたドスのきいた声は、その脚力同様、誰のものか疑いようはなかった。
「――日向 !? 」
「そのどでかい腹を早くどけねえか! 翼がつぶれっちまう」
さっきからぐりぐりと若林の頭を押さえつけている日向の足にまた力が加わる。
「あ、ああ――死ぬかと思ったよぉ。重くって…」
日向の足にごろんと転がされた若林の体の下から翼が起き上がった。肩を押さえながら深
呼吸をする。
「駄目だよ、若林くん。びっくりするだろ」
「びっくりしとらんじゃないか、ちっとも !! 」
怒鳴ったところで通じる相手でもない。
「若林さん、困りますね。翼にご用なら俺を通してからにしていただかないと…」
「い、井沢 !? 」
背後からかけられた根暗い声に、若林はらしくもなくうろたえてしまった。
「お前は芸能プロのマネージャーかっ!」
「まさか。そんなビジネスライクな仲じゃないですよ。まあ、言わば母親がわりってとこですか
ね」
「は…ははおやぁ?」
この井沢は3年前まで同じ修哲のチームメイトであり、現在日本チームに選抜されている元
修哲メンバー達と揃って若林フリークを自認する男だったはずだ。
「そうです」
しかし井沢は澄まして答える。
「ただし下心付き、ですが」
「あれっ、いざわぁ…?」
起き上がってきた翼を守るように背後から抱きかかえる。それをまた翼が嬉しそうに見上げ
るものだから若林は余計に立場がない。
「こればっかりは君が悪いね」
急に湧いて出ておいて、またきっぱりと言い切ってくれるものだ。そのソフトでありながら高
圧的な口調がこの三杉の三杉たるゆえんであるが。
「少なくとも翼くんに関しては君一人の都合では動かせない、ということを覚えておいてもらい
たいな、若林」
「どういう意味だ、そりゃ!」
「わかんないの、若林くん」
また出た。しかも三杉と並んで苦手中の苦手である。
「君のいない間に日本チームはとっても仲良しになったってことじゃない」
自分もいなかった、ということには触れない岬であった。
「僕らにも学習能力というものはあるのでね」
「美しいチームワークだよね、ほんと」
よく似た顔、よく似た屈折度の二人がにこやかに交わす会話はもうそれだけで逃げ出したく
なる代物である。
「だからいつかのように憎まれ役をやるにしても翼くんだけはタブーってわけ」
岬にぶすりと五寸くぎを刺されて若林は瞬間失語症になる。それを待ちかねていたのが気
の短い日向だった。
「時間がもったいねえ。さあ、行くぞ、翼」
「うん!」
井沢の腕からふわりと離れて翼がその後を追った。
「日向、時間は守ってくれよ。この間は20分もオーバーしただろ」
「さあな」
井沢の言葉に日向は鼻先で笑ってみせた。
「俺は忘れっぽいんだ。特に取り込み中はな」
「日向さーん、明日は俺の番なんすからねー! 翼先輩をあまり疲れさせないでくださいよ
ー!」
ホールを出て行こうとする日向の背に声が飛ぶ。見れば吹き抜けの階段から新田が熱心
に身を乗り出しているではないか。若林ははっと我に返った。
「お、おい、待て日向!」
「往生際が悪い…」
オカルトめいた暗い声が背後から若林を凍らせた。人間なら人間の気配というものを持つ
べきだと、この若島津に主張しても無駄かもしれないが。
「駄目なものは駄目なんだ。わからんのか」
「若島津! お前こそいいのか、日向を翼と行かせて、えっ?」
「何が言いたい」
食い下がる若林に、若島津はぴくりと片眉を上げた。
「だから日向はお前の…」
「俺はキーパーだからな」
苦々しげに吐き捨てた若島津を思わず見返す。
「あ? 何だって?」
「でなければ俺だって翼と…」
「お、おい、若島津 !? 」
若林にはそれ以上目もくれず、若島津はぶつぶつつぶやきながらドアの向こうに消えた。
と、横から快活な笑い声が響く。
「ほーんと、懲りねえなあ、お前も」
松山がつくづく呆れたというふうに首を振った。こいつに言われたら救われない。
「組めるのは攻撃陣に限られてんだ。俺は早田はバックスだけど一応得点もあるから特例で
リストに入れてもらってるけどな」
「げっ、お前まで―― !? 」
「何だよ、俺が翼とやっちゃおかしいか?」
松山はむっとした顔で若林をにらみつけた。こいつにだけは甘い三杉が横からとりなす。
「まあまあ、松山。若林はうらやましいだけなのさ。それより今夜フリーなら僕とどうだい?」
「お、そうか。そりゃいいな。行こうぜ!」
根が感動的なまでに単純な奴は幸せである。若林は二人がまたドアの向こうに消えて行く
のを見ながら、そんな幸せを心底欲しいと思ったのであるが。
「そんなに物欲しそうな顔をするんじゃないの。うらやましいならいっそキーパー同士若島津と
組めば、若林くん」
「岬、冗談はたいがいにしろよ」
確かにさっき部屋を出たはずの若島津がいつの間にかすぐ横に立っていた。思いっきり不
機嫌な顔である。
「あはは、ごめんごめん。でも若林くんと二人、どんな必殺連係シュートができるか僕も心ひそ
かに楽しみにしてるんだよね」
「シュ、シュートだぁ?」
「二人ともキック力はたっぷりあるからさぞかしすごいツインシュートができるだろうなぁ」
うふふ、と笑って岬はウィンクしてみせた。井沢はしかつめらしくうなづき、若島津は憮然と
した顔のまま突っ立っている。若林はそんな3人の顔を交互に眺め渡した。
「お、おまえら、さっきからの話は――全部そいつのことだったってのか? くそっ、人をかつ
ぎやがって…!」
「かつぐなんて人聞きの悪い。あまりお行儀の悪い真似はしないほうがいいよってことさ。翼く
んは僕たちの大切な共有財産なんだからね」
さ、行こ行こ、と言いながら3人は若林を見捨てて出て行ってしまった。
「チキショー !! 」
空しい叫びが合宿所のホールに響く。いつかの「憎まれ役」事件のささやかな意趣返しであ
ることに全く気づいていない若林であった。
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