「おい、寝るな!」
乱暴に体を揺すぶられて反町はぼーっと目を開いた。その襟首を後ろから釣り上
げるようにして体を引き離したのは松山だ。
「もたれるなってば。重いだろーが。それにほら、もうすぐ始まるぞ」
「ううう…、ねむ〜い」
二人して並んで座っているのはベッドの上。深夜をまわって未明となったこの時
間だが、テレビ画面は時差の彼方で華やかな光景を繰り広げていた。
そのステージの上にカラフルなスポットライトが動き始めたのを指さして、松山
は目を輝かせる。
「…まったく、待たせに待たせておいて演出なんかに時間取るなよな。さっさと本
題に入ればいいんだ。なあ?」
相槌を求められても反町はあいまいに首を振るしかなかった。
眠い。ひたすら眠い。オーケストラを従えたフレンチな派手派手アーティストの
歌なんかより、この温もりになついて夢を見ているほうがよほど幸せなのに…と、
心の中でつぶやく。
「おまえなあ、なんでそんな元気なんだよぉ。試合直後だってのにさ。それも延
長とPK戦までやった挙句だぞ」
「おまえこそ、後半途中からしか出てないわりにそんなに疲れるなんて、なまって
んじゃねーのか?」
「誰のせいだよ、まったく…」
反町はちろりと隣の男を盗み見た。
天皇杯2回戦。レッズは一人少なくなったコンサドーレ相手に結局90分で決着
をつけられず、PK戦にまで持ち込まれた。まさに辛勝と言うほかない。チャンス
らしいチャンスがなかなか生まれず、中盤を支配しながら得点に結び付けられない
フラストレーションが重く渦巻いているような試合だったのだ。
じれた監督が後半、イエローをもらってしまったFWを引っ込めて送り込んだの
がこの反町だったのだが、レフトの位置でことごとく邪魔をしてくれた粘りの荒鷲
は、そんなことはけろりと忘れたかのように無邪気にテレビに見入っている。
「大体さ、対戦した相手のところにいきなり訪ねて来るか、普通。いくら俺とおま
えの仲だって言ってもさ…」
一人住まいの反町のマンションには自慢じゃないがBS、CS、インターネット
の各回線が揃っており、海外各地からの中継の時には松山でなくても重宝がられて
いるのだが、今回はなにしろ大御所ワールドカップ本大会の抽選会セレモニーであ
る。そんなマニアックなことをしなくても民放が地上波でちゃんと生中継してくれ
るのだから自分のチームの宿泊先ホテルで十分なはずなのだ。
「ん、なんか言ったか?」
そんな反町の愚痴も耳に届いていないのか、松山が振り向いた。手にはしっかり
ボールペンが握られている。対戦カードをメモっていこうというつもりらしい。
「なあ、反町。俺、なんか腹へってきたんだけど。おまえは?」
「おいおい〜」
他人を自分のペースで引っ掻き回すのが何より好きな反町は、しかし意外に他人
のペースに(ある程度自分を殺しても)合わせることも得意な男である。いわゆる
器用貧乏タイプ、世の中をうまく立ち回る極意と割り切ればそれくらいの切り換え
はお手の物というわけである。
「けど、こいつにだけは通用しないんだよなぁ」
などと考えつつ、反町は顔が緩むのを自覚する。どんな小細工も通じない、小細
工であることすら気がつかない、そんな松山にホレ込んだのが運のツキ、今や腐れ
縁とさえ言われる域にまで達してしまっている。
「ま、餌づけだと思えば、だよね」
「おー、なんか作ってくれんのか。言ってみるもんだなー」
松山はテレビから目をそらしてにんまりと笑顔を見せた。くらり。
「か、かわいいっ…」
ウラがあるんだかないんだか、計算してのものとはとても考えられない松山に、
それはそれとしてボンノーにまみれつつキッチンに立つ反町だった。こいつのほう
が餌づけされてないか?
「こんな時間にメシ食わせて、おまえんとこの栄養士さんにバレたら俺、マズイか
も…」
「平気だって。ウチ、まだそういうのゆるいんだ。それに俺、育ち盛りだし」
「嘘つけ」
反町は冷蔵庫を開けて材料を物色した。缶ビールと野菜ジュースだけ、なんてこ
ともありがちな同僚と比べればここの冷蔵庫はそれなりに中味があるほうだ。しか
し嗜好の偏りは否めない。
「松山ぁ、おまえ、なんでも食うよな」
「何でも食う!」
むこうから元気な声が返ってくる。反町は両手に持った肉のパックと豆腐を見比
べながら立ち上がった。
「野菜がちょいと足りないけど、鍋でいくか」
流しの下から少々怪しげな瓶詰を何本か取り出して反町は鍋を火にかけた。下ご
しらえ、というほど手はかけない。
「…あっ、今!」
また松山が声を上げた。
「どしたの」
「岬が映ったぞ。ちょっぴりだけど」
歌だの演説だのが一通り終わったらしく、いよいよセレモニーは各出場国からの
代表者を会場に入れ始めたようだ。
「ほんと? クジ引き始まった?」
「いや、日本はまだこれからみたいだな。シード国の組分けからだ。えーと、三杉
はどこだ?」
松山は伸び上がってなんとか会場全体を覗き見ようとしていた。もちろん、そんな
ことをしても無駄なのだが。
「サッカー協会のスタッフとして行ってんだから、ステージには出て来ないんじゃ
ないのかぁ?」
ゴマ油で肉の薄切りを炒めながら反町は振り向いた。ワンルームなので声は直接
届くものの、キッチンからテレビは死角になっているため見えるのは松山の横顔だ
けだ。これがまた身を乗り出して真剣に見入っているだけに、こちらの声がまとも
に耳に入っているかは疑問である。
ざっと炒めた上に水を加えて煮立たせ、そこへ残りの材料を入れていく。キムチ
と味噌を加えればあとは煮えるのを待つだけだ。
「おー、出た出た! ウチはF組だ。またイタリアとだあ! あと2つ、どこが来
るかな…」
「イタリアねえ」
反町は土鍋をミトンで抱えて運んできた。テーブルはテレビから遠いのでしかた
なく床に直接置いて食べることにする。とりあえず鍋敷き代わりの雑誌を足で引き
寄せてその上に土鍋を置いた。
「お、もうできた? うおー、うまそ」
「キムチチゲ、のつもりだけど、青みが足りないからまあモドキということで。
さ、食お」
箸を受け取った途端に松山は勢いよく口に運び始める。そこまで空腹なはずもな
いのだが、これは単に食べ物への一途な執着心ゆえだろうか。一気に口に入れて豆
腐で舌をヤケドしそうになったりしつつもめげずに食べ続けている。
「うまい? ね、うまい?」
「おー、辛くてうまいうまい」
松山は口いっぱいに頬張りながら目は油断なく次に向いていた。
「で、そっちは?」
「あ、これは残り物だけど。よかったら試す? ネムヌウンっていうベトナムの肉
団子だよ。このライス・ペーパーにサニーレタスと一緒に包んでさ、こっちのタレ
をつけて食べるんだ。ミントのハッパなんかあるといいんだけど、かわりにセロリ
のハッパでまあ勘弁してもらって」
「なんでも来ーい」
作り置きの味噌ダレ、ヌク・トォングを味見もしないでたっぷりつけ、松山はぱ
くりと口に放り込んだ。
|