口笛はなぜ 遠くまで聞こえるの
      〜 あるいはこれも一つの武蔵風土記 〜







「おや、光くんは?」
「お父さん、珍しいですね」
 こんな時間に。というだけでなく、こうして姿を見せること自体。
 居間でお茶の時間を楽しんでいた息子に声をかけながら三杉氏は別のソファーに腰を
下ろした。いつの間にかそばに控えていた幸さんが待ち構えていたかのようなタイミン
グでカップを横から渡す。もちろん、カップは温められ紅茶も淹れたてである。
 それを一口味わって、三杉氏は促すように目を上げた。三杉は自分のカップをテーブ
ルに置いて苦笑する。
「それが、よくわからないんです。制服が届いたので一緒に合わせてみたりしていたん
ですが、その後一人でふらりといなくなって」
「ふらりと…?」
 三杉氏はちょっと眉を寄せた。ティーポットをトレイに戻しながら幸さんが静かに言
葉を挟む。
「庭に出て行かれたようでございます。と申しましても小一時間ほど前のことですが、
お見かけしたのは」
 だから今はどうなのかまではわかりかねます、ということだろう。
「ふうむ」
 三杉氏は改めて考え込む。
「淳、どうなんだ。光くんはまだなじめない様子なのかい?」
「そんなことはないです。学校に下見に行った時も張り切ってましたし、東京のあちこ
ちに行ってみたいと自分で言ってましたよ」
「夜はぐっすり眠れているのかな」
「だと、思いますが」
 自分より先に寝ついてしまって、朝目を覚ました時にはとっくに起き出している松山
だからそこまでよくはわからない、というのが正直なところだったが。
「ホームシックのあまりやつれてたり…しないな? 夜の間に玄関が開いていたり」
「お父さん、何を心配しているのか知りませんが――」
 三杉はため息をついた。
「松山はアルプスの山の中で育った野生児じゃありませんよ。いくら北海道でも彼の家
は富良野の街中です」
「なんだ」
 ちょっとがっかりした顔に見えたのは気のせいか。
「だって私は光くんに会ったのは1回か2回きりなんだよ? 逗子のオババの屋敷から
戻ってからは」
「お館さま…逗子のご本家の大奥様、でございますよ」
 背後からひそっと幸さんがたしなめる声がするが三杉氏は聞こえないふりをする。
「それはお父さんがめったに家にいないからじゃないですか」
 母親の実家の一族で巻き起こった相続騒動でしばらく滞在した逗子からは先週帰って
きたところだったが、この父親はその前からも松山とは確かにほとんど顔を合わせてい
ない。回数までは三杉の知るところではなかったが。
「まあ、確かにそうだな。たまに顔を出す父親か。――なら私はまさしくゼーゼマン氏
というところかな」
 まだ言うのか、という顔を三杉はした。
「やめてくださいよ。僕はクララじゃないですからね。ちゃんと走り回ってサッカーを
やってます」
「うるさいクララだな。まあしかたがない。私もどちらかというとめったに出てこない
ゼーゼマンよりお医者さまのほうが希望だな。――光くんを救うおいしい役どころだ」
 たまにしか現われないと思ったらそんなことを大真面目に考えていたとは。と、三杉
は少々空しさを感じる。しかし三杉氏は楽しそうに続けた。
「さとこはそうすると、クララのおばあさまか。年齢はさておき」
「奥様は、ロッテンマイヤーさんがご希望だとおっしゃってました」
 三杉氏の背後に立って控え目に口を開いた幸さんに三杉が驚きつつ目を向ける。
「ですがロッテンマイヤーさんはわたくしが適役かと存じますので」
 譲らない、と。そういうことですか、幸さん。
「うーん、まあ妥当だね。さとこにはあの迫力は無理だろう。出番は少ないがあとでア
ルムの山で大事な場面もあるしな」
「だから、アルムの山ではなく…」
 もう三杉の言葉は誰にも聞いてもらえそうにない。
「私たち、セバスチャンがいいです!」
 廊下側のドアが開いていて、その隙間から白エプロン姿のお姉さんたちが数人、必死
な顔を覗かせていた。
「だめだめ! アナタたちは女性デスから、わたしがセバスチャンデス! チネッテを
やってナサイ!」
 妙な日本語で主張している声がお姉さんたちの背後の廊下で響いているが、その姿は
振り向いて反論するお姉さんたちに押し戻されて見えなかった。
「まったく、もう…」
 三杉がこの状況を作り出した元凶と言える父親に抗議しようと立ち上がったその時だ
った。
「なあなあ、すごいんだぜ!」
 居間のベランダ側のフランス窓が勢いよく開いて松山が飛び込んできた。が、その場
に大勢の姿があることに気づいてあわてて立ち止まる。
 幸さんが真っ先に口を開いた。
「光ぼっちゃま。靴はどうなさいました?」
「…あ」
 松山は自分の足元に目を落とした。
 はだしで、さらに言うなら少々泥までついている。ぱっと顔を上げて松山は必死に言
った。
「ご、ごめんっ。ちゃんと自分で掃除するから!」
「いや、それはいいけど。どこにいたんだい?」
 幸さんが「アーデルハイド!」と今にも言いたくてうずうずしているのをその無表情
な顔の中にはっきり感じつつ三杉は急いで声をかけた。
「この裏手の芝生があんまり気持ちよさそうでつい脱いだの、忘れてた。あ、それで
さ、牛がいたんだよ、牛が! しかもジャージー牛! すごくねえ? 俺、牛なんて触
ったの初めてでさ」
「――うちで牛なんて飼っていたかな。なあ、幸さん」
「さあ、存じ上げませんが…」
 ひそっと会話を交わす三杉氏と幸さんに、松山はやっとその存在を知る。
「あっ、おやじさんだ! ここんちの庭、すごいですねー。広々しているし、動物まで
いるし、なんかアルプスに来たみたいで!」
「松山…」
 知らないとは言え、今ここでそのセリフはまずい。
 ところが三杉氏は感動のあまりそれが耳に届いていなかったようで。
「おやじ――。ああ、なんて新鮮な響き。感動だ〜」
「光ぼっちゃま、牛やヤギをごらんになったことはなかったんですか?」
 代わりに幸さんが声をかける。
「ヤギ? ヤギはいなかったけど。昔遠足で動物園に行った時以来かな、牛を近くで見
たのは」
 首を傾げる松山に、三杉氏は今度は肩を落とした。
「なんと、ここはフランクフルトではなくアルムの山だったのか、光くんにとって」
 が、すぐに顔を上げる。キラキラと目を輝かせて。三杉は嫌な予感がした。
「じゃあ、わたしはアルムおんじの役ができるかな。幸さん、君はヨーゼフになりなさ
い」
「お断りいたします。わたくしはペーター少年がようございます」
「ペーターは無茶だ。せめてペーターのおばあさんとか」
「そちらは奥様がご所望でいらっしゃいます」
 またも廊下でバタバタと物音が響いて、ユキちゃんがいい、アトリだ、シロとクマだ
と騒ぐ声が聞こえる。
「――何の話だ?」
「いや、気にしなくていいよ。はい、タオル」
 松山が足を拭くのを待って三杉は松山にティータイムのケーキを勧めた。その間に幸
さんが淹れた紅茶のカップが置かれる。
「庭に牛ってどういうことなんだい?」
「だって、いたぜ。乳絞りしてた。実はちょっと飲ませてもらったんだ。あったかく
て、めちゃくちゃ濃かった!」
「そう…よかったね」
 何かがおかしい。それは確かだったが三杉は追及しないことにした。少なくとも松山
に罪はない。
「とにかく君が来てくれて我が家はとても活性化したようだよ、松山」
「なんだよ、それ。俺は何もしてねえぜ」
 パウンドケーキとフルーツタルトをせっせと腹に収めながら松山は屈託なく笑顔を見
せた。
 さらにそこに追加のケーキとサンドイッチが提供される。幸さんだった。
「いいえ、光ぼっちゃまのお元気な健啖ぶりのおかげで淳ぼっちゃまもお食事の量が増
えてらっしゃいます。あの食の細い奥様まで」
「へえ〜?」
 松山がサンドイッチにとりかかったところで幸さんは居間の掛け時計を振り返った。
「あ、奥様をお迎えにあがる時間ですので、わたくしはこれで下がらせていただきま
す」
 三杉にそう告げて幸さんは消えた。
「お母さんを迎えに? どこから…?」
「さとこが一人で外出なんて珍しいな」
 三杉氏もティータイムの続きに戻ることにしたようだ。松山と向かい合って楽しげに
ケーキを口にしている。
 やはり三杉家の食欲増進に松山が貢献しているのは本当のことらしい。
「な、あのジャージーミルク、おまえも飲んでみろって。絶対うまいから」
「そうだね、ぜひ」
 松山が庭で遭遇したジャージー牛がどこからやって来たのか、三杉はふと思い当たっ
たことがあったがそれよりも松山の食べっぷりを見守るほうを優先した。
 三杉家の奥様の部屋に置かれた「なんでもレンタル」のカタログの存在はもちろん、
誰も知らない。



【 end 】








 あとがき
ぷーこさまの 39000 hit のリクエスト作品です。
四つ子シリーズ設定の三杉&松山ということでしたので
松山が三杉家に来たばかりの時期にさかのぼってみまし
た。武蔵高校入学直前ですね。
まだ名字で呼び合っています。
話の中でもっともらしく四つ子第1話らしき会話をして
ますがあくまでも未執筆なので想像だけしてください。
それとオリキャラが顔を出していますが、これはいずれ
シリーズ内で登場いただくので。
どうもギャグに走り過ぎてしまったみたいで。お許しを。