翼がいないと何人かが騒いでいて、やっぱりと思った。
 代表が招集されて、最初はみなややギクシャクと互いのペースを乱すものだ。でも翌
日くらいにはもう慣れた呼吸を始める。
過去の経験とそして共通の場所が俺たちをいつもの俺たちにしてくれる。
 ところが、そうやってチームがまとまり始めるのと入れ替わりみたいに、あいつは足
を止める。
 何かを見失ったように。
 あいつ自身が抱えた違和感がぼんやりと見える。
 今日の練習中に、ゴール前でピッチの動きを見渡している間に若島津はそれを感じて
いた。
 だから。






王 様 の 耳






 午後の自由時間に若島津はそのまま外に出た。
 宿舎はグラウンド施設を併設した広い敷地内にあり、建物の裏手はそのまま山に続く
緑地になっている。手入れのされた庭園部分と自然林に切り替わる境界はあいまいで、
木々の間の地面はどこも同じように落ち葉や枯れ木に覆われている。
 特に何も考えずに足の向くままぶらぶらと歩いてきた若島津は水音の気配にふと顔を
上げた。
 常緑の低木がぽつんぽつんと連なっている向こうがやや下り斜面になっていて、その
切れ目に水面が見えた。裏山から流れてくる細い流れがここで小さい池になっているよ
うだった。
 池に流れ込むそこが石を積んだ堰になっていて、その水音が静かな木立に反響してい
るのだった。
「見晴らしがよさそうだな、そこは」
 池の岸までは近寄らずに若島津は足を止めた。並んだその木の緑のあたりにため息交
じりの声をかける。
「うん。わりと」
 彼が立つちょうどその頭の高さにスニーカーをはいた足がぶらぶら揺れていた。
「自分からは見晴らしがよくて、その代わり自分は誰からも見つからない場所に隠れて
た、ってわけだな」
「隠れてなんてないよ。だって若島津くんはちゃんと見つけたでしょ」
「……」
 答える代わりに、若島津はまたため息を一つついた。
 そして自分も同じ方向に目をやって、寒々とした風景を黙って眺める。薄く雲に覆わ
れた灰色の空に太陽は見えず、間接照明のような淡い光が空全体に広がっていた。
 木々のばらばらな高さの先に宿舎の赤く葺いた古風な屋根がわずかに覗いている。そ
の左手方向には敷地の正門からの車寄せの並木がカーブして続いている様子も一部なが
ら見える。やはりここは少しだけ高いようだ。この池の水はさらに庭園に導かれて、お
そらくは正面の噴水池あたりにも水を供給しているのだろう。
 いい眺めと言えばいい眺めだ。
 ただ、グラウンド群はまったく見えない。
「…飲む?」
 今度は手が伸びて緑のペットボトルがゆらりと揺れた。
「俺はジンジャーエールは嫌いだ」
「うん、知ってるよ」
 くすくすと笑い声がしてボトルは引っ込む。
「いつも若島津くん、そう言って絶対飲まないもんね」
 そう、まるで儀式のように何度も繰り返された会話だった。
「飲まない代わりに、俺の愚痴に付き合ってくれるんだろ?」
「…おまえのは愚痴じゃない。弱音だ」
 弱音。
 翼がどうしても自分に許さないものだった。
「違うよ」
「違わないな」
 半ばムキになって翼は顔を出す。そうしてようやく木から下りてくるのだ。





「若島津くんはイジワルだ」
「ああ、イジワルだから肩を貸すのも有料だぞ」
 翼は若島津の背後からその肩に背を預けていたが、その言葉に一瞬黙ってからわざと
ぎゅうぎゅうと頭を押し付けてきた。
「どうせ有料なら、思い切り使っておこうっと」
 登っていた木の根元で座る若島津に寄り添った翼だったが、意地なのか顔は合わせず
に背中合わせに座り込んでいる。
「イジワルだけど、暖かい」
「……」
 この状態でも、若島津は特に何も話すわけではなく、ただ景色に目をやっている。翼
が勝手にぽつんぽつんと口にする言葉に短い答えを返すだけだった。
「それに、暖かいだけじゃなくて」
 翼の口調は確かに最初のうちよりも温もりが戻ってきていた。
「俺に好きなだけしゃべらせてくれるし」
「おまえ、練習の時からそういう顔をしてたからな」
「ゴール前から見てた?」
 翼は小さく笑った。
「さすがはキーパーだね」
「俺なんかじゃなく、若林にでも話せ。それとも岬か日向さんか」
「ダメ。若林くんは俺を甘やかすから。岬くんも、日向くんも」
 甘やかす、という言葉がこの場合通常の意味でないことは翼の口調からわかる。
「だったら南葛の連中でいいだろう」
「それもダメ。俺は責任者だから」
 見えない翼の表情が背中越しに伝わるような気がした。
 弱音は吐けない。
 やっぱりそうなんじゃないか、翼。
 今度は若島津のほうが少し不機嫌になる。
「だったら…」
「若島津くんなら、いいんだ。若島津くんは俺にとって誰でもない人だから」
「ひどい言い草だな」
 若島津はそれが翼の本音だと知っていた。
「うん。俺にとって誰でもない人は、若島津くんと、俺」
 だから、こうやってくっついているだけで事足りるのだと。
 翼は背中合わせにまた小さく体を丸めたようだった。
 今だけ、今だけというように。
「皆んなと会えて嬉しいんだ。こうやってまた新しくチームができて戦う相手に向かっ
て行けて」
「ああ」
 うなづくしかない。それは嘘ではないからだ。でも本音でもない。
「嬉しいのに、つらい。ちくちくと、ずっとどこかが痛いんだ」
 それはずっと翼が内側に隠している傷だ。
 サッカーが大好きで、サッカーがやれる場にいることが幸せで、そしてそのことこそ
が翼を傷つけている。
「まわりのことに必死な間は忘れてて、余裕ができると自分のことを思い出すんだな」
「それってバカかも」
「かもじゃなく、バカだ」
 若島津の返事に、翼は一人で「もう…」とぶつぶつ憤っている。
「王様の耳はロバの耳」
「えっ?」
 唐突な言葉に、翼は驚いて顔をこちらに向けた。
「ミダス王の秘密を知ってしまった床屋じゃなく、ミダス王自身が自分の秘密を叫びに
来るんだからな。…俺は野原の穴か、しょせんは」
 秘密を誰かに話してしまいたい。床屋はそうして穴を掘った。
 けれど王は、秘密を持つこと自体を秘密にしなくてはならない。王であるがゆえに。
それは痛いことだろう。
「……」
 しばらく翼は黙り続けた。背中を若島津に預けたまま遠くの風景に目をやったり空を
見上げたり、そして時折ため息をついたり。
 でも、それは穏やかな沈黙だった。
 しばらくして若島津が先に口を開いた。
「弱音は口にすれば弱音じゃなくなる。王様の耳はロバの耳!って穴に向かって叫べば
いいんだ。おまえが恐れている、その穴に」
「誰にも言えない秘密なのに?」
「誰にも言えない秘密だから」
 二人でやっとまっすぐに顔を見合わせる。
「だからわざと俺に見つかって、こうやって弱音を吐くんだろう?」
「……」
 最初は不服そうに口を尖らせ、そしてそれがゆっくりと諦めたような笑顔になる。
「そうか。今さらってこと?」
 若島津は平然とした様子を変えなかった。
「俺はそこまでいい人間じゃないってだけさ」
「それはそうかも」
 翼はさっきの仕返しに出た。
 そして若島津の肩を抱き寄せ、伸び上がるようにその耳に口を近づける。
「…王様の耳は……」
 若島津はじっと聞き入る。翼は言い終えると首を傾けてその顔を覗き込み、また耳に
囁く。
「王様の耳は…」
「ああ」
 今度は腕が伸びてその翼の頭ごとつかまえ、胸に抱え込む。背中合わせの体温よりも
もっと感じ合えるものがある。
「痛いよ」
「そうか?」
 抗議しながら翼は自分も腕を回してぎゅーっと抱き締める。
「あったかい。このまま眠っちゃいそうだよ…」
「そうしたいとこだが…ちょっとマズイ」
 若島津は空を仰いだ。
「ほら、降って来た。もうすぐやつらが来る」
「あ、ほんとだ」
 翼は顔を上げ、ちょうどそこにぽつんと落ちて来た雨に眉を寄せる。
 木立の陰は一気に深くなり、空も色を落とし始めていた。雨雲が覆っているのか夕闇
が覆っているのか。
 いくら敷地の奥まった場所でも、包囲網は狭まってきているはずだった。雨になれば
さらに加速するだろう。
 よくよく耳を澄ませると、呼ぶ声も微かに聞こえる。まだ距離はあるものの、確実に
近づいているようだ。
「今からじゃ逃げられないな。おまえだけ先に行け。俺は適当に合流する、捜索隊のふ
りをして」
「でも」
 一緒に立ち上がってから、翼はまだ繋いだままの手に目を落とす。
「大丈夫、この穴からは草は生えない。おまえの秘密は俺が預かっとく」
「うん」
 翼は髪に落ちる雨粒を散らせてうなづいた。くるりと背を向けて駆け出す。
「…ありがと」
 という言葉を背後に残して。
 木立の向こうに駆けて行くスニーカーの白い色だけが最後まで見えていた。
 若島津は自分の足元からジンジャーエールの空ボトルを拾い上げて苦笑しながらそれ
を見送った。
「誰でもないっていう役得、か」
 受け取った秘密の分だけ重くなった自分の体を、若島津は意識してみる。
 両腕を上げて伸びをし、それから一歩を踏み出した。



【 end 】








 あとがき
醇さまの22300 hitのリクエスト作品です。
若島津×翼というご希望でしたが、ごらんの通りか なり微妙な関係に。お許しくださいね。
醇さまとも古いお付き合いになります。ゲストさま として作品をいただいたことも。
これからもどうぞよろしくー。