三月うさぎと四月馬鹿








「あ、おかえりなさい、三杉さん」
 合宿所のエントランスにいた沢田が振り返って目を丸くした。今回の代表チーム最年 少の彼はもともとその大きな目が特徴なのだが。
「明日、っておっしゃってませんでしたっけ」
「あれっ、三杉」
 話し声に気がついて、その向こうのホールにいた数人が驚いた顔を見せた。
「早かったんだな」
「あ、うん。予定より早く片付いたし、それに」
 縁台将棋ならぬ食堂将棋を指していた松山と来生の言葉に、僕はごく簡単に応えた。
「こっちに急ぎの用を思い出したから」
「ふうん、そうか」
 それですっかり納得して松山はまた盤に注意を戻す。遅いぞ、などと来生に文句を言 われながら楽しそうに長考に入ったらしい。こういう時でなくても、必要以上に他人に 詮索をしないのが彼のいいところだ。来生に妙に甘えがちな点は置いておくとして。
「やあ、石崎くん」
 そのさらに向こうにたまっていた何人かに近づきながら、僕はそう呼びかけた。
「誕生日おめでとう」
「お、おう」
 一瞬なぜかぎょっとしたらしい反応を見せてから、石崎は急におどけたような笑顔に なった。
「三杉に言ってもらうとなんか照れるなァ」
「そっか、おまえ、今日誕生日だっけか。忘れてた」
「てか、知らなかったし」
 南葛の面々は思い出して、それ以外の者は初耳という顔でそれぞれ石崎に祝いの言葉 をかけている。
 午後の練習は終わったばかり、着替えてくつろいでいる時間だけあって、ここにはお よそチームの半分くらいが顔を出しているようだった。
「で、岬くんはどこかな」
「あ…」
 石崎は、井沢と高杉とぱっと顔を合わせた。
「ロッカーまでは一緒にいたんだけど…」
 井沢がやや緊張気味に口を開いた。
「どれくらい前?」
「1時間…、いや、1時間半前だな」
 思ったよりも長い時間だったことに、彼ら自身が戸惑っている。岬くんはいつもそん なふうに穏やかに彼らの間に存在しているということだ。そこにいる時も、いない時も それを感じさせないくらいに穏やかに。
「台所かも」
 高杉が言った。
「おばさんが手伝ってほしいって何人か呼んでたから」
「そう」
 僕はバッグはそこに残してすぐ隣のキッチンに向かった。なぜか井沢もついてくる。 責任を感じることでもないだろうに。
「あれっ、三杉」
 ここでも驚かれてしまった。むしろ驚くべきは僕のほうなのに。
「えらく早いご帰還だな」
「日向も、なんだい、それは」
 そこに立っていたのは、白い割烹着を無理やり腕まくりして着込んでいる怪力ストラ イカーだった。
「何って、ゴボウだ」
「いや…」
 水を張った大きなボウルに向かって、彼は包丁を実に見事に操っているところだった のだ。僕と話しながらも手は止めない。
「ささがきにしてるとこだ。この人数分だからな。ゴボウだけで10本はあるんだぞ」
「すごいね」
 いや、その手さばきの慣れた様子が。こうして見る限り、ささがきの出来も繊細な仕 上がりのようだし。
「この人は、年上の女性の言うことは断れないんでな」
「こら、余計なことを言うな」
 そこに音もなく現われた若島津に墓穴を掘るだけの抗議をしている彼は、やはり不器 用なのだろうか。
「君は力仕事専門かい?」
「もちろんだ」
 若島津は運んできた段ボール箱をそこに置き、ティッシュペーパーを引っ張り出すく らいの感じでその封をされた箱を一気に開いた。
「岬は、いないんだ?」
 横から井沢が口をはさむ。僕もキッチンを見渡すが、向こうで鍋を火にかけているお ばさんの他には誰もいない。
「翼なら知ってるがな」
 またも墓穴になりかねないことを日向が口にした。
「それなら聞かなくてもわかるよ。グラウンドだろう? 今日は、若林と?」
「いや、森崎とだ。アッチは監督に引っぱってかれた」
 同業者として淡々と証言する若島津だが、不機嫌そうなのは隠せない。翼くんの練習 後のシュート練習に付き合うのが慣例となっているGK3人だが、果して迷惑なのか嬉 しいのかどうやら微妙なところらしい。
「そうだ、今夜は夕食の時、石崎のためにろうそくを用意しておいてくれないか」
「追悼か」
「違う!」
 僕の言葉で若島津と井沢が漫才を始めたらしいが、気にせず一人でキッチンを出る。
「…そらめでたいめでたい。こらいおたらなあかんな〜」
 僕の後にホールに現われたらしい3人が石崎を囲んで騒いでいた。
「石崎さん、抜け駆けはズルイですよ。先に一つ年取るなんて」
「俺はおまえより1年上なのっ、学年はな!」
 よく表情の見えない佐野に向かって石崎はむきになっている。同じ年生まれだという ことをからかわれているのだろう。実際、彼と佐野とは4ヶ月しか違わないわけだし。
「どっちでもいいから、ケーキ、買って来ましょうよー。もちろん石崎さんのおごり で」
 佐野と並んでからかいに加わっていた新田がこちらに気づいた。
「あ、三杉さんだ。三杉さんはケーキは何がいいですか〜?」
 どういう振りだろう。まあ、直感勝負で生きているような新田にそれを聞いても無駄 だろうが。
「ケーキならもうすぐ届くよ。注文しておいたから」
「ひえ〜!」
 石崎は絶句している。
「マジっすか!」
「へへ」
 嬉しさのあまり佐野に抱きつく新田に、大げさに手を振り回す早田。
「なんでまたそこまでしてやんのや、石崎の誕生日くらいで」
「くらいって、こら、早田…!」
 こっちでも漫才が二組くらい始まりそうだったので僕はそこに置いてあった自分のバ ッグを取り上げた。
「いや、ただ今日という日に感謝したかったからね」
「はい…?」
 そこによく似た顔で棒立ちになっていた滝と立花たちの間を抜け、僕はホールを出 る。
「岬を探してたんじゃなかったのー?」
 エントランスでスパイクを片手にぶら下げた反町と次藤に出くわした。
「外で見たのかい?」
「いや、居残りはワシらと後は…」
「翼くんと森崎だけ?」
「うん」
 そうか。となると考えられるのは…。
「あのー、上は今誰もいませんでしたよ。夕食もうすぐだから呼んで来いって言われた んですけど、さっき降りていった人たちで全部でした。どの部屋もカラです」
 伝令までさせられていたのか、沢田が階段の上に現われた。
「そう。ならいいよ。僕は少し部屋で休むから。夕食はいらないよ」
「はあ…」
 沢田にそう伝言を頼んで僕は2階の廊下を奥に進んだ。念のために岬くんの部屋のド アをノックして開いてみるが、沢田の言ったとおり、シングルのベッドがぽつんとある きりの部屋は何の気配もない。どうやら、朝練習に出たきり戻っていない様子だ。
 僕は鍵を出して自分の部屋を開けた。サッカー協会の雑用のせいで2日も留守にする ことになった部屋だ。
 入ってすぐのクローゼットにバッグを置き、上着を掛ける。それからベッドに近づい て腰を下ろした。
「君にはあきれるよ、岬くん」
 ベッドカバーがかかったままのベッドには先客がいたのだ。
「昼寝なら、自分のベッドですれば? それに、どうやってここに入ったんだい?」
「…いいよ」
 ベッドの中から小さな声がする。ただし、返事になっていない。
「いいよ、ってねえ」
 枕の上まで毛布を引っぱり上げていて岬くんの姿はまったく見えない。僕は手をつい て頭のほうから覗き込んだ。
「眠ってるの?」
「…ううん」
 これでは会話が成立しているとは言えない。
「どうして誰にも眠ってるところを見せたくないんだか。人間なんだから、眠るのは当 然だろ? 寝顔だって可愛いのに」
「…ん」
 これはどうやら本気で眠っているらしい。少しでも意識があれば僕に食ってかかって いるはずだ。
「ねえ、僕も休みたいんだけど。今日中に君に言っておきたいことがあったから、昨日 は不眠不休だったんだよ」
「入れば?」
 僕はちょっと考える。自分のベッドなのだから遠慮する筋合いはない。それにここに いるのは岬くんではなくてただの眠りネズミだ。帽子屋のお茶会に三月ウサギと一緒に いたあのネズミ。
「じゃあ、そうさせてもらうよ」
 狭いベッドにとにかく入る。岬くんの体温で、毛布の中は気持ちのいい暖かさだ。
「しかし、狭い」
 岬くんを押しのけるわけにもいかず、向き合って抱きしめてみる。これでは色っぽさ も何もあったものではない。子猫の昼寝か。
 僕がちょっと動いただけで、岬くんはさらに丸まろうとした。僕に持って行かれた分 の熱を取り戻そうとしているらしい。しばらく楽な姿勢を模索してから僕はため息をつ いた。
「じゃあ、おやすみ」
 ネズミでも子猫でもいいから。
「眠っちゃだめだよ」
 …首の辺りに何かが触る。岬くんの感触だった。いつもの。
「眠る前に、聞かせてよ」
「え?」
 目を開くと、岬くんの目がそこにあった。毛布の外の空気が一瞬ひやりとする。
「僕に言いたかったことって、なに?」
「ああ、それね…」
 横になったせいか、この温もりのせいか、それとも岬くんに抱きしめられているせい か、今度は僕がどんどん眠りに近づいていく。
「今日は、4月1日だろ?」
「そうだね」
 岬くんは疑わしそうに僕を見ている。
「年に一度、今日しか君に言えないことがあるんだよ」
「何?」
 岬くんが少しずつ不機嫌になっていく。目が覚めてきたんだ。
「まさか?」
 目が覚めさえすれば岬くんはもうバカなんかじゃない。僕の言おうとしていることが わかったらしい。
「うん。岬くん、愛してるよ。世界でいちばん愛してる」
「……」
 岬くんは黙り込んだ。ほら、早くしないと今度は僕が眠ってしまうよ。
「それが君のとっておきの嘘なわけ」
「そう」
 岬くんは聞こえないように息を吸い込んだ。
「…僕も、愛してるよ。三杉くん、誰よりも愛してる」
「うくっ」
 僕は引きつった。これは効く。我慢できない。岬くんも同じだったらしい。
「最悪だ」
「…思った以上だね。もう1回言おうか?」
「やめてよ! そんなことしたらボクだって言うからね!」
 ふふふ。岬くんが素直だ。だって、年に一度だから。
「どっちが先に降参するかな?」
 その後、僕たちがこのとっておきの嘘を何回繰り返してダメージを与え合ったかは内 緒だ。
 夕食に届いたのがバースデーケーキではなく、僕が協会で苦心して組んだ海外遠征の 日程スケジュールだったということも。
 そして僕はもちろん岬くんまでがその日の夕食抜きになったのかどうかもね。






【END】





<< BACK | HOME