ぎゅっと





 集合時間まであと1時間足らず。
 ホテルのロビーの一角に足を運んでみた若林は、ぐるっと見渡して新聞のラックを見 つけた。各国の朝刊紙が一通り揃っているのを見て、暇つぶしにちょうどいいかと歩み 寄る。
 日本語の新聞は望んでも無駄だったので、とりあえずドイツ語の一般紙に手を伸ばし かけたその時だった。
 どしん、といきなりの衝撃に驚く。
「しっ、若林くん、動かないで」
「おい…」
 真正面から、翼がぶつかって来たのだ。そして胸のあたりにぴたっとくっついた格好 で若林の顔を見上げている。
「何やってんだ、一体」
「ダメ、じっとしててね」
 翼は若林のジャージのファスナーをそーっと下ろすと、そのまま両側にジャージを開 いて若林の腰にぎゅっと抱きついた。ジャージの内側に腕を入れて、背中まで抱え込む 形になる。
「あのな、翼」
 言いたいことは山ほどある。しかし、何を言ったとしても翼は耳を貸すつもりはなさ そうだった。
「そうそう、そのままね」
 胸に顔を埋めるようにしてひたすらぴったりと密着している翼の息がくすぐったいの だが。
「あったかーい、若林くん。ふかふか」
 ふかふか?
「俺は着ぐるみか」
 さすがに苦情を口にしかけた時、ロビーの向こうから人声とぱたぱた走る気配が近づ いた。翼がぴくっと緊張したのが、若林に伝わる。
「おい…?」
 しっかりと翼に抱きつかれたまま新聞を片手に立っているこの体勢がどうにも不自由 でそして不自然なのを若林は改めて自覚する。
 誰がやって来たのか振り返りたかったが、それもできずにただぼんやりしているしか ないのがどうにも間抜けだった。
「あっ!」
 すぐ背後あたりで声が上がった。聞き覚えのある声がいくつか。
「見つけたぞ、翼!」
「それで隠れてるつもりかよ。見えてるぞ!」
 その瞬間、翼は若林のジャージの中から飛び出すと、身を翻して追っ手の間をすり抜 けて行った。そのままエントランスのほうへと駆けて行ってしまう。
「逃がすか、待てー!」
「なんだなんだ」
 さっきまでの感触がいきなり消えて、若林はわずかによろめく。やっと自由が戻って 来たのは確かだったが。
「若林さん、ダメですよ、参加者以外は協力禁止ですからね」
「えっ?」
 翼をそのまま追っていく後ろ姿は石崎とそして来生か。それに加わる前に一言クギを 刺してから駆けて行ったのは井沢だった。
「抜け駆け?」
 さらに声がかかってびくりとする。
 そーっと目の端で確認すると、そこには笑顔の岬がいた。
「俺は何もしてないからな。翼が勝手に来て…」
「ふーん」
 多くを語らないだけにその笑顔が怖い。ひたすら。
「それよりあいつら、何をやってんだ。出発前にばたばたと」
「鬼ごっこじゃない? いや、それとも缶けりって言ってたかな。缶のかわりにボール だったみたいだけど」
「おいおい」
 それでは決着がつくとは思えない。翼をはじめとするこのチームの面々では。
 と思いつつ若林がエントランスを振り返った隙に、もう一人そこに現われた人物がい た。
「岬くん、間接ハグはしないのかい?」
「君がやれば、三杉くん」
 なぜか二人で若林の前に立ち、Tシャツの腹のあたりをじーっと凝視している。
 笑顔で、そして無言で。
「や、やめろって!」
 あわてて身を引いてジャージのファスナーを上げる。三杉が肩をすくめた。
「翼くんは、ふわふわが好きだからねえ」
「ほんとに」
 岬もうなづく。口元は笑っているがため息が混じる。
「あー、若林さん、ここだったんですかー」
 向こうから声をかけてきた森崎がロビーの真ん中に自分のバッグを置いて手を振って いる。
「部屋にシューズを忘れてましたよ。ここに持ってきておいたんで――うわ!」
 森崎がいきなり揺さぶられて変な声を上げる。駆けて来た翼が森崎の体につかまって グルグルグルッと方向を変え、そのまま反対方向へまた走り抜けた。
 背後まで来ていた滝がおっとっと、とたたらを踏んでいる間にまた差が開いてしまっ たようだ。
「び、びっくりした」
「誰か止めろ、あいつを。あれじゃ誰にもつかまえられんぞ」
 目を丸くして息を吐き出した森崎は、ワンテンポ遅れて翼の消えた向こうを振り返る が、もうとっくにその姿はない。追っ手がばたばたと中庭に出て行くのだけが見えた。 「無理。翼くんはいつもああだから」
「いつも?」
 同じ歳のはずだったが。いや、若林よりも何ヶ月か生まれは早いはず。
「そういう意味じゃなく、だよ」
 岬はまたため息をついて、ちらりと三杉を見やった。こちらも苦笑を浮かべてうなづ いている。
「翼くんはね。こちらからはつかまらないってこと。翼くんから来てくれない限りは ね」
「悔しいな」
 岬がぽつんともらしてまた若林の腹あたりを見やった。
「ふわふわ認定されて、若林くんたら」
「はあ?」
 呆気に取られる若林は無視して、岬は一人つぶやいている。
「僕たちから翼くんをぎゅっとできても、翼くんからぎゅっとされるなんてことないも の」
「ああ…!」
 いきなりポンと手を打ちかけた森崎の声に、その場の3人ともが驚いて視線を投げ た。逆にそれに驚いた森崎は、そこで言葉を止めてしまう。
「なんだ、森崎?」
「いっ、いえ…」
 森崎はもごもごと言葉を濁してその場から逃げて行ってしまった。
「何か心当たりがあるみたいだね」
「そうみたい」
 そんなふうに言いながらも、森崎を見送る岬と三杉の視線は和やかだ。それに気づい て若林は愕然とする。不公平だ!
「森崎には下心がないからね」
「そうそう」
 そんな若林の叫びをきちんと聞き取って、岬と三杉が応えてくれる。
「ふわふわなのは君だけじゃないってことだよ、若林くん」
「えっ」
 二人は手を振って、そのまま立ち去っていく。右と、左へと。
「おい、それって…。待てよ!」
 集合時間はもう間もなくに迫っていた。










 そう、集合時間はもう間もなくに迫っていた。
「おい、翼…?」
「ん」
 宿舎の中庭、木陰の静かなベンチまで、微かに叫び声が届いていた。
『おーい、また蹴られちまったのかー?』
『ボール見つけないと、鬼は捕まえられないぞ』
『翼ってば思いっきり蹴ったからなあ』
 ボール式缶けりはまた続いているらしかった。ただし、鬼はこんなところで競技放棄 中である。
「いいのか、行かなくて。集合にも遅れるぞ」
「ん」
 腕を伸ばして背中に回し、翼はぎゅっと抱きしめ続ける。顔ごと、体ごと胸に埋める ようにして。
「だって、ふかふかだもん」
「またそれかよ」
 苦笑をもらして、上から翼の額をぐりぐりとかき混ぜる。すぐに翼の不満そうな顔が 上げられた。
「よっぽど暴れてきたんだな、おまえ。汗かいてるぞ」
「――これで空港行ったらさ、俺、みんなとはまた別れちゃうし」
「ああ、そうだな。しょうがねえだろ」
「だから今のうち思いっきりふかふかしようって」
 さっき、思ったんだ…と小さな声が消えていく。上から、唇が塞がれたのだった。
「ふかふかって、これか?」
「違うよ。これじゃない」
 長いため息のような沈黙の後で、翼はまた胸に顔を伏せる。
「違うけど。――これでもいいよ」
 ぎゅっと。ただぎゅっとしながら、翼はくすくすと笑い始めた。







【END】




おや、「大誘惑」の逆バージョンに なってしまったかな。今度は翼総攻 め。(違う違う!)
最後に会いに行ったのが誰なのかは 伏せておきます。バレバレだけど。
タイトルはワカバの曲です。内容は 全然違います。