夏の正餐 − 黒い森のおとぎばなし 2 −







 歴史のある大学町フェルトベルクはシュヴァルツヴァルトの西部に位置する人口約十 万の小都市である。古い町並み、古い城壁、古いカテドラル、そのどれもが現在という 時間を豊かに受け入れて人々の生活を抱いている、そういう町だった。
 その南の郊外、農耕地と森の境目を迂回するように流れるブルッフ川の岸に聖ゲオル ク病院はあった。
「あ、フリーダ、ちょっと見てよ!」
 小児病棟の窓にもたれていた少年が新聞を振って呼び止める。ナースステーションか ら出てきたフリーダは急ぎ足で階段に向かおうとしていた。
「ごめんね、トマス。呼び出しなの。後でね」
「バイエルンがさ、勝ち点でとうとうシュトゥットガルトに並んだんだよ。今度の最終 戦で勝ったほうが優勝なんだ!」
「ごめんねー、すぐ戻るからねー」
 事務受付に行く近道のつもりで中庭に出る。外来棟と小児病棟にはさまれたそこは石 畳の庭園風になっていて、中央には小さな噴水もある。その噴水のそばに若い男が立っ ていた。
 ゆるくウェーブのかかった明るい金髪に均整の取れた体格――彼女が自分の弟の大き さを見慣れていなければおそらくそれに「長身」という形容もついただろう。
 小走りに建物から出てきたフリーダは相手の視線にまっすぐ対しながら歩をゆるめ る。その顔には見覚えがあった。
「――こ、んにちは」
 フリーダも視線を外さないまま呆然と足を止めた。
「ここだと、ミューラーに聞いて…」
 驚きのあまり一瞬凍っていたらしい思考がここでいきなり動き出した。いきなりなの で余計に混乱する。握手はこちらから求めていいのかどうかなどというのんきなことを 真っ先に考えてしまったのはそのせいだ。
「で、でもあなた…?」
 シュナイダーは挨拶にも答えず、もちろん握手もしようとせず、黙ってもぞもぞと上 着のポケットを探った。
「試合は? お休みのはずないわね…?」
「これを…」
 フリーダの前に小さなベルベットのケースが差し出された。
「結婚しようと思って…」
「誰が?」
 聞いたほうも間が抜けていたが、言ったほうはもっとボケていたからいい勝負であ る。フリーダは手に乗ったケースを開き、出てきた指輪に目を丸くした。
「カールハインツ・シュナイダー!」
 冗談は…と続けようとして相手の無言の迫力に気圧される。事情がまったく読めない まま指輪は彼女の指にはめられてしまった。
「だからね、シュナイダー。私は初対面――」
 視界が陽を透かす金髪でいっぱいにさえぎられた。目の前に迫ってきたシュナイダー の青い瞳に向かって最後の抵抗を試みてみる。しかしフリーダは知らなかった。このボ ケ青年は本能で動く時のみとてつもなく強引なパワーを見せるのだ。もちろんフィール ドに立つ時の彼が本能のみに支配されているのは言うまでもない。
「ちょっとっ、フリーダ!! どういうことっ!?」
 どういうことか知りたいのは本人だった。シュナイダーは言いたいことだけ言って、 したいことだけしてさっさと帰って行ってしまったのだ。
「勤務中にあんなとこでキスなんてっ!!」
「誰なの、あれ。患者さん?」
 中庭から戻るや否や同僚たちがどっと囲んだ。見てたのなら早く助け出してくれれば よかったのに。フリーダはまだぼーっとした頭のまま左手を差し出した。
「ほら、私、婚約しちゃったわ」
「フリーダっ!!」
「あなたいつのまにそんな話になってたのよー!」
 実はさっきが初対面…とも言えず、フリーダははははと力なく笑った。
「ずるいやっ!!」
 看護師たちの輪の外から大きな声が響いた。新聞を胸に抱えたままトマス少年が真っ 赤な顔でフリーダを睨んでいる。
「カールハインツ・シュナイダーと知り合いだなんて、フリーダ言ってなかったじゃな いかっ!」
「ええっ!?」
「嘘っ、今のが? 本物なの?」
 あいにくと、本物です。だから余計に始末が悪いのだ。
 フリーダはもう一度自分の左手を目の前に挙げてみた。アメシストは2月の誕生石 だ。すべてがめちゃくちゃである。
 ぷっと吹き出したフリーダに同僚たちが驚いた。
「どうしたの、フリーダ」
「あの人、誕生日どころか私の名前も知らないんじゃないかしら」
 いくらなんでも、と言い切れないのが怖かった。










 何重もの歓声が早く、早くとホイッスルを促す。じっとしている者など誰もいない。 バナーマフラーやフラッグが人と共にうねり、渦巻き、オリンピックスタジアムは今や 文字通り揺れていた。独特の外観を持つオレンジ色の屋根部分など、その熱気に今にも 吹き飛びそうにさえ見える。
「もういい、消せよ」
 中継スタッフも舞い上がっているのか、それとも騒ぎの中でカメラワークもままなら ないのか、画面はさっきから支離滅裂なアングルになっている。それを横目で見ながら 若林が不機嫌そうに言った。
「この後のインタビューだぜ、奴さんの爆弾発言」
「何度見たって同じだ」
 カルツが振り返ったが若林はそっけない。シーズン前半の出遅れが響いてハンブルク はとうとう3位に終わってしまった。ライバルチームの優勝の瞬間を喜んで見たがる者 もいないだろう。が、若林の憂鬱は別にあった。
「おまえがもっと真剣に止めてりゃこんな事にならなかったんだぞ」
「相手が真剣かどうかもわからんのにこっちが真剣になれると思うか、ワカバヤシ」
 よくわからない理屈だがシュナイダーの扱い方に一番手馴れているのがこのカルツな のも事実だ。
「しかしなあ、俺はなんつーかこの先が心配で…」
 若林は恨めしそうにVTR画面を見やった。ホイッスルと同時になだれ込んできたベ ンチスタッフにもみくちゃにされるシュナイダーの表情がアップになったところだっ た。
「あいつの心配はな、すればキリがないし、しただけ損ってこった」
 カルツはくわえたヨウジを鳴らした。おーおー嬉しそうにまあ…などと悦に入ってい る。今日シュトゥットガルト相手に3得点、2位以下を大きく引き離しての得点王に決 定したシュナイダーはこの歓喜の中でもいつもの無感動さを崩していないのだが。
「あいつに女が口説けるなんて表彰もんだぜよ。しかも、ちゃんと年上の相手を見つけ るなんざ、結構考えてるじゃないか」
 そうだろうか。
「若すぎるとは言わんさ。他の奴ならな。俺はシュナイダーだから言ってんだ」
「おまえさんも苦労性だな、ワカバヤシ」
 カルツはようやく立ち上がってVTRを消した。ロッカールームはもう彼ら二人だけ になっている。
「行こうや。祝杯くらいあげてやらないとな」
 全国生中継で結婚宣言をされてしまった以上、もうじたばたしても手遅れだった。も しそうでなくてもシュナイダーを説得できる人間がいるはずもない。
「明日の新聞が楽しみだ、こりゃ」
 二人は連れ立ってロッカールームを後にした。
 ワカバヤシには内緒だがやっぱり俺のせいかな…とカルツは一人考えていた。
『結婚は現実だぜ、シュナイダー』
 あの日、一応建前として言ってみたのだ、カルツも。
『現に、見ろ、おまえさん、結婚の手続きだって知らないだろ。現実ってーのはこっち が夢を見ている間にも次々押しかけてくるもんなんだ』
 シュナイダーに夢と現実の区別があるか疑問だが、当人は真面目にカルツの説教に聞 き入っていた。
『惚れた女と一緒にいられるってだけじゃないぜよ、そのうち子供でもできてみろや、 責任ってもんが…』
『子供…!』
 いきなり話の腰を折ったシュナイダーの顔を見て、カルツは失敗したことを知った。 シュナイダーはその一言で現実も夢もすっとばして燃えてしまったのである。
『子供、子供か…』
 嬉しそうに繰り返しながらシュナイダーが帰って行ったあと、カルツは後悔に頭を抱 えた。翌日の試合はハンブルクにとって最悪なコンディションとなり、若林はシュナイ ダーのシュートの雨にさらされた理由を試合後に聞かされた。
「子供は結婚の副賞じゃないぜ、シュナイダー」
 アルスター湖を渡ってくる風は5月とはいえしみじみと冷たかった。
 シーズン終了。バイエルン・ミュンヘン、ブンデスリーガ優勝。そしてカールハイン ツ・シュナイダー、この日婚約を発表。つくづく忙しい夜であった。










 あらかじめ話を聞かされていた事務主任でさえ、実物を目の前にすると息を飲まずに いられなかった。
「…じゃ、じゃあ鍵を渡しておこう。荷物は後から届くのかね?」
「これで全部です」
 やっと気を取り直して手続きに移った主任だったが、シュヴァルツヴァルトの大男の 返事は実にそっけないものだった。口数が少ない、という以前に本人にしてみれば単に 都会の人間とのコミュニケートが苦手なだけなのだが。
「シュナイダー」
 その彼が唯一会話を成立させられる男がオリンピック公園の池の岸にぼーっと座って いた。手にパンくずを握って、池の白鳥を眺めていたのだ。
「来たのか…」
 名を呼ばれてシュナイダーはゆっくりと振り返った。
「ああ」
 デューター・ミューラーは小さな袋を突き出した。
「姉ちゃんからもらってきた」
 二人は並んで座り、一緒に白鳥を眺めた。陽は少し傾いていたが夏の日はまだまだ長 かった。
「また一緒に飯が食えるな」
「ああ」
「毎日だな」
「ああ」
 袋の中のナッツ入りビスケットをカリカリとかじりながら二人はいつまでも座ってい た。
「シュナイダー…。ミューラー…」
 その場所だけ時間の流れが通常の数分の一になっているのを見ながら、マーガスは探 しに来た二人に声をかけることもできずただ立ちつくしていた。
 優勝はめでたい。シュナイダーのシーズンMVP、得点王のダブルタイトルもめでた い。結婚ももちろんめでたい。そしてミューラーは間違いなくバイエルンの強力な新戦 力となるだろう。
 しかし同時にマーガスには確かな予感があった。そのめでたさは彼の悩みを解消する 上では何の役にも立たず、むしろ倍加させるだけだと。
「俺、移籍しちまおーかな…」
 そうだね、マーガス。幸せは決して一人ではやってこない。
 彼は今そのことをしみじみとかみしめていた。







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黒い森のおとぎばなしはまず漫画で 描いてその続編は(この)小説、と いう変則的なかたちになりました。 ほとんどオリキャラ頼みの世界にな ってしまい、すみません。
それとフェルトベルクは架空の町で す。モデルはありますが。
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