カ モ メ

      〜遺書を書いていたつもりが ラブレターみたいになってしまって〜





 まとわりつくような海の気配に、三杉は身をゆだねていた。眼下に広がる海面に、沈みゆく 夕陽が見えないカケラとなって反射する。波のざわめきと、光のざわめき。それを軽くかわす ようにして、多くのカモメが飛び交っていた。
 三杉はそれをゆったりと目で追う。
――あのたくさんのカモメの一羽だけがニセモノなのを、僕は知っている。きっと、それが僕 なんだ。
 いくら目を凝らしても、どの一羽がそうなのかはわからないだろう。だって、自分自身がそ れを忘れているのだから。
 とりとめのない想いに、三杉の心は本当に空に抜け出していくようだった。
 浮遊する心。風に乗って、高く。
――地上から見ているのは僕のからっぽの抜け殻。
 上空からはそんなものは見えない。気づきもしないだろう。かつて、自分がいたはずのそこ に。
 三杉の耳に届くのは風の音だけ。風の、か細い声。
 それが、遠くから彼を呼んでいた。彼の名前を呼ぶその声が、遠くなり近くなり、いつか聞 いたような、誰だったか思い出せないような。
 既視感。
 そう、それは確かにそう呼ぶべきものだった。三杉は知らず微笑む。
「ああ、君だったんだ」
 地上から視線を受けて、それが自分の抜け殻でなかったことを三杉は知る。自分を呼ぶ声の 主を、今、思い出す。
 訴えるように、嘆くように、怒りをぶつけるように。
「岬くん?」
 そして、何よりも、いとおしむように。
 振り返ると、そこには現実の視線があった。
「どうかした?」
 海から吹き上げる風に静かに髪を揺らせながら、岬がそこに立っている。夕陽の最後の光を 身にまとって、岬は何かもの問いたげに彼を見つめる。
「……風が冷たくなってきたよ」
 岬はゆっくりと近づいて、展望台の柵に手をかけた。三杉のほうは見やりもせず、海に向か ってわずかに身を乗り出す。
「誰のこと、思い出してたの?」
「…誰って」
 唐突な問いが、それ自体答えを見失ってその場に立ち尽くす。岬の目はそんなふうに見え た。
――僕だって、答えは知らないのに。
 三杉は、地上に自分を呼び戻した声をそこに聞いた。
 呼び戻したのではない、それは問いだったのだ。いつも、これまで何度も――彼に投げつけ られていた答えのない問い。
「君だったんだ」
 今度は声に出して三杉は言った。空の上からではなく、つなぎとめられたこの地上で。
 答えを待つのは自分と、そして岬。
「いつも、君だったんだ…」
「三杉くん?」
 僕たち二人とも、同じ答えを待っているんだよ。
 三杉はそう答える代わりに微笑んでみせた。
「今思い出したよ。君はいつもそこにいたんだ。昨日の君が見ていたもの、先月の君が見てい たもの、1年前の君が見ていたもの。――全部、僕は知ってるよ」
「どういうこと?」
 はぐらかされたと思ったのか、岬が不機嫌な目になる。
 それがなんだか嬉しかった。
「初めて僕たちが出会った、7年前の君が見ていたものも…」
 三杉は思わず手を伸ばし、岬に触れてみた。指先が髪をとらえ、岬がそこにいることを彼に 伝える。こんなに近くに。――でも、なんて、遠いのだろう。
 三杉の手が止まったその時、岬の目が文字通り彼をとらえた。
「バカ」
 三杉の手を不意につかむと、岬は力任せに三杉を引き寄せる。
「君は何も知っちゃいないよ。僕はここにいるのに」
「…岬くん」
 その言葉のままに、岬はきつく三杉を抱き寄せた。
 今度こそふわりと浮かぶ感覚を、三杉は味わう。
「昔の僕なんて、どうだっていいんだ。今ここにいる僕以外、君をこうしてつかまえられない んだから」
 絶対に離すまいとするかのように、岬の腕に力がこもった。
「逃がさないから。どこにも…」
「うん」
 逃がさないというその言葉とは逆に、三杉の体は軽くなる。地上から離れてふわりと浮かび 上がる。触れ合っているその暖かな感触のまま。
「明日の僕も、来年の僕も、ここにはいない。だから、今の僕だけが…」
 岬の声が、直接響く。まるで、同じ体の中にいるようだ。
「今の僕だけのものなんだ」
 暖かで、苦しくて、そして嬉しかった。ふう、と小さく息を吐くと、一緒に笑いがこぼれ出 た。
「岬くんたら」
 笑っているうちに、だんだん泣き出しそうになる。
「君がこんなにワガママだなんて、知らなかったよ」
「よく言うよ。自分のこと棚に上げて」
 岬は、腕から抜け出した三杉に少し不満そうだ。
「僕は君に負けたくないから、君以上にワガママでいるんだからね」
「…そうか」
 三杉は少し目を見張って、すぐ目の前にある岬の鼻の頭にキスを落とした。
「じゃあ、僕も負けてられないな」
「もう!」
 なぜかちょっと顔を赤くして、岬は抱擁を解いた。ぷいと横を向くその仕草は、思わず本音 を口にしてしまった時の彼の癖でもあった。
 それを知っている三杉はまた笑顔になる。
 いつの間にか陽は落ち、彼らの周囲の影もすっかり濃くなっている。
 夜の予感に色を変え始めた空を、三杉はもう一度仰いだ。カモメの影はもう見えない。家路 についたのだろう。
 封印されたものは、そのままどこかへ運ばれてしまった。
 答えだけを地上に残して。
「それでよかったのかな」
 小さくつぶやいたその言葉は岬の耳に届いたのかどうか。
 三杉は海に背を向けると展望台を後にした。少し先で待っていた岬が追いついた三杉の手を
ぶっきらぼうにとって並ぶ。
「何か、忘れ物?」
「いや」
 三杉はもう振り向かない。歩いていく足元に目を落とし、そしてちらっと岬の顔を見る。
「もう見つかったよ。だから、いいんだ」
「……」
 怪訝な顔で三杉を見返し、しかしそれ以上何も言わない相手に岬はまた少し不機嫌になる。
「ありがと。岬くん」
「なに、それ」
 一瞬絶句してから、岬は目をそらした。つないだ手にわずかに力が込められる。
「ねえ」
「なんだい?」
 問い返す三杉には頑として目を向けない。なぜか、足が少し早くなる。
「さっきのキス、仕返しはあとでさせてもらうからね」
「どうぞ。存分に」
 二人の姿が消えた後に、遠く波のさざめきが響いていた。



[ END ]





    空の絵を描いていたつもりが 海みたいになってしまって
    ひらきなおって カモメを描いた
                         『カモメ』 by 野狐禅





↑ MENU







MEMO
「渚」のリバースバージョンです。こちらは三杉 主観。同じ時のことですが、主観が違うとセリフ も違うようです。各々がこう聞こえていた、こう言 っていたと記憶しているということで。(笑)
野狐禅(やこぜん)は一見パンキッシュに思え ますが、竹原ピストルさんの詞は大正昭和の文 学青年的なカラーがあるとにらんでます。「カモ メ」というタイトルですが海のことを歌っている歌 ではありません。悪しからず。
リバースバージョン 「渚」