それは鮮明な記憶だった。俺たちは、その後も折につけ同じ光景を思い出 すことになった。
 若林さんの声、若林さんの表情。俺たちを見る若林さんはいつもと違う、 緊張したような顔で、2回、そう2回、同じ事を繰り返したのだ。
「後を、頼む。翼を頼んだぞ」
 俺たちはみんな、動けなかった。いつもと違う若林さん、こわばった表情 の若林さんを、黙って見ているだけだった。
 若林さんは足早に家を出て行った。一度も振り返らずに。
 ――そして若林さんは、それきり帰って来なかったのだ。










  南 葛 農 場



















「井沢!」
 俺は顔を上げた。ドアのところに高杉が立って、こちらを覗き込んでい る。
「翼、寝てるのか?」
「ああ、大丈夫」
 俺はそっと体をずらして、もたれかかってぐっすり寝入っている翼から離 れた。ぬくもりから引き離されて、翼はちょっと手足を動かしたが、また丸 まってすうすう寝息をたてはじめた。俺はそれを確認してからドアまで歩い て行く。
「何だ?」
「ちょっと、来てくれ」
 高杉は先に立って歩き始めた。台所に向かう。
 いつも開けたままのドアから中に入ると、森崎が振り向いた。
「どうした?」
「これを見てくれよ、井沢」
 森崎が真剣な顔で言った。壁際の四穴ストーブの横に置かれた大きな木箱 を目で指す。食料の保管箱。側に寄って見下ろすと中は空で、小さなジャガ イモが2、3個転がっているだけだった。森崎と高杉に目を戻すと、二人は 首を振った。
「今朝のが、最後だったんだ。畑のものはあらかた掘り尽くしてる。さっき 森崎が調べに行ってくれたんだが、裏のリンゴも残ってるのはあと3つくら いだ」
 それだって自分から落ちてくるのを待つしかないんだ、俺たちは木登りが できないからな。…高杉の目がそう付け加える。
「タマゴは?」
「駄目なんだ。この間、取りに入った時、連中とモメてさ、あいつら警戒し てるんだ。オンドリの奴、ヒステリックに攻撃して来るもんだから、ケージ の中にさえ入れない…」
 森崎もその被害に遭ったらしく、しょんぼりとうなづく。
「ヤクルトおばさんが来てくれるまで待つしかないよ」
「けど、いつ来るか、わからないぜ」
「だな」
 俺の言葉に、力なく2人が同意する。俺は別にあの人に含みを持っている わけじゃない。若林さんにどんな感情を持っているにしろ、だ。契約もして いない家になにかと気を配って、若林さんがいなくなった後も俺たちにはで きない色々なこと、特に翼の身の回りのことに手を貸してくれるのだから、 むしろ感謝しているくらいだ。
「どうする、井沢?」
 森崎が情けない顔で俺を見つめる。体が大きいこともあって、食事関係は 主にこの2人が担当してきた。俺たちの分はそう気を使うことはないが、翼 は別だ。もともと物静かな2人であるから口に出して言うことはなかった が、この役目には相当苦労してきたはずなのだ。
「わかった。来いよ」
 俺はうなづくと2人を促した。俺の記憶に間違いなければ保存食がかなり しまい込んであるはずだった。
 一度台所を出て、裏口に出る廊下を進む。
 ああ、ここだ。俺はちょっと匂いを確かめてから、扉を鼻で押してみた。 「なーにしてんの?」
 裏口の戸が開いて、賑やかな声が入って来た。
「ああ、来生、ちょうどよかった。ここ、できないかな」
「なに、ここの扉ぁ?」
 自称穴掘り名人の来生は、足先の器用なことにかけては絶対の自信を持っ ている。近寄ったかと思うといきなり前足でカリカリカリ、と引っかき始め た。
「何があるんだ? この中…」
 滝が好奇心半分で割り込んで来る。その途端、扉がギーッと開いた。
「わー、これ、カンヅメ!?」
 来生が大きな目をさらに大きく見開く。
「カンヅメ、かあ…」
 高杉が大きなため息をついた。言いたいことはわかってる。俺は黙って食 料庫の上から下までぎっしり詰まった棚を眺めた。乾燥食品やジャム、ピク ルス類も少しあるようだが、やっぱりほとんどがカンヅメだ。
「…どうする?」
 思わぬ戦利品にとりあえずはしゃいでいる来生たちの後ろで、森崎が現実 的な質問を口にした。
 俺は考える。結論は一つしかなかった。
「よし、翼にやらせる」
 一斉に声が上がった。無理だ、という抗議である。だが俺は首を振った。 「カン切りの場所は覚えてる。使い方はわからないけど、どっちにしろ俺た ちにはできないんだから、翼にやらせるしかないよ」
「井沢…」
 しばらく押し黙った後で高杉が顔を上げた。苦笑に近い笑顔でうなづく。 「やってみよう。翼もいずれは覚えなくちゃいけないんだ。小さくても、人 間、なんだもんな」
 そうして俺たちの興味津々の目に囲まれて、翼の「人間の特訓」が始まっ た。不安半分、期待半分の俺たちがぐるりと立つ真ん中にぺたんと座り、翼 はカン切りを握りしめている。そこへ滝がツナ缶を転がしてきた。
 翼は目を輝かせて叫び声を上げる。人間の子も犬の子も同じ、丸くて転が る物が大好きなのだ。だがこれは遊びではない。さて、どう教えたものか。 「翼ァ」
 石崎が進み出た。ニカッと笑うようにして自分の歯を見せると、缶詰に噛 みつく真似をする。翼が石崎とよく真似っこ遊びをしているその応用でいこ うというのだ。
 が、翼は自分も歯で食いつこうとした。俺は急いでカン切りを握ったまま の翼の手をくわえた。そして缶のフタをコンコンと叩いてみせる。翼は噛み つくのをやめて自分の手のカン切りをじっと見た。
「そーだ、いいぞ。それでやるんだ、翼」
「おい、そっち、押さえてやれよ」
 よく見ようと輪がせばまる。
「やった!」
 コクン、と最初の穴が開いた。翼の顔がぱっと輝く。おもしろい!という 顔だ。不器用にまたコックン、と動かす。俺たちは顔を見合わせた。翼、す ごい。
 フタを半周したあたりで翼は投げ出してしまった。飽きたのだろう。だが 中を見るにはそれで十分だった。滝が歯でこじ開けるようにしてフタを半円 形に開けた。プーンと匂いが飛び出す。油と、そして魚の匂いだ。わあっと 一斉に歓声が弾けた。みんな翼に飛びつく。
「翼、おまえってやつは…! すげえじゃん!」
 石崎がペロペロと顔をなめる。翼は笑いながら後ろに倒れ、他のみんなの 毛の中に埋もれた。
 翼はその丸い入れ物の中に食べ物が入っていることを覚えた。そしてその 出し方も。
 こうして俺たちはまた新しい危機を一つ乗り越えたのだ。













「…で、結局何だったんだ、そいつら」
「んー、たぶんハイカーだろうな。土地のもんじゃないさ」
 翼がもぞもぞっと動いたので話が中断する。滝はちょっと覗き込むように して翼の寝顔を見た。
「珍しいよな、翼があんなに……怯えるなんて」
 滝はちょうどいい言葉がなくて自分で顔をしかめた。
「連中、別に何をするつもりもなかったと思うぜ。俺たちを見つけて、それ からそこに石崎たちと一緒に駆けて来た翼に気がついたんだ。可愛い、とか 何とか言って、翼を呼び止めようとしただけだったんだけど…」
 人間、か…。
 俺は翼を見下ろして、その頬に残った涙をそっと舌先で舐め取った。こん な小さな体の中にやっぱり恐怖や悲しみが住んでいるのか。
「まさか、翼、人間が怖いんじゃないだろうな。いくら見たことのないヤツ って言ったってさ」
「その可能性はあるかもな」
 俺が答えると、滝は目を見開いた。
「自分が人間だって、思ってないかもしれない」
「井沢!」
 大きな声を出してしまってから、滝ははっと気がついて翼を見る。翼は寝 返りを打って俺の胸元に顔を埋めてしまった。息が詰まらないように少し体 をずらしてやる。
「おまえな、そーゆーコワイことをあっさり言うなよ。そりゃ、俺だって 時々考えるけどな…。第一、翼は人間の言葉、覚えてんのか?」
「大いに怪しい」
 そう、俺はずっと心配していたのだ。翼はもう長いこと人間と会話をして いない。一度覚えた言葉だって忘れるくらいに。
「かと言ってこればっかりは俺たちが教えるわけにいかねーもんな」
 滝がため息をつく。そんなことしてみろ。翼は本物のイヌ少年だ。
 と、その時だった。一瞬、何が起ころうとしているのか、状況がつかめず に頭が空白になる。
「…う……っ」
 翼の手が俺の胸をごそごそ触っていた。体が硬直する。自慢じゃないが俺 は――イヌなら誰だってそうだが――腹が弱点なんだ。手はどんどん腹の方 へ移動して行って、毛をかき分けるように何かを探っている。背中がぞわぞ わぞわっとして、逃げようにも体が動かない。
 滝がいきなりプーッと噴き出した。
「い、井沢、真っ赤…! く、くくく、…おまえ、泣くなよなぁ。涙で顔が ぐしゃぐしゃだぜー」
「滝っ!」
 怒鳴ろうとしたが、声もひっくり返る。滝はとうとう耐え切れなくなって 大声で笑い転げ始めた。
「…井沢ってば、翼に、乳を探られてやんの! うっくくくっ…、あぶねー あぶねー。井沢、道を踏み誤るなよ」
 馬鹿笑いに驚いて隣の部屋から来生たちが顔を覗かせた。滝と、俺を見比 べてあっけにとられている。俺は涙が止まらなくなっていた。パニックで完 全に腰が抜けている。
「……た、き〜ぃ」
 我ながら情けなかった。翼はただ寝ぼけていただけなのに。
「可哀そうにな」
 高杉がしみじみと言った。俺のことではないらしかった。
 結局、翼の人間語習得については保留ということになった。若林さんの部 屋にあったラジオのつけ方がわかったのは、もう少し後のことだったのだ。













「どうだった、石崎?」
 一番に飛び込んで来て、うー、寒い、と素っ頓狂な声を上げている石崎に 皆の視線が集まった。
「駄目だ、よくわからねえんだ。匂いがろくに残ってなくてよ」
 体をひと振るいして雪をそこらに撒き散らしながら石崎は顔をしかめた。 続いて一緒に出ていた連中も寒そうに戻って来る。どれも冴えない顔だ。
 その冬はいつになく厳しい冬だった。若林さんがいなくなってから2回目 の冬。このあたりには珍しい大雪が続いて、川も池もすっかり氷に閉ざさ れ、――そして食料は当然不足しがちだった。
 クリスマスの前にヤクルトおばさんが来て、翼に新しい手編みのオーバー コートと、そして食べ物をいっぱい置いていってくれたが、その恩恵も長く は続かず、俺たちはすきっ腹で春を待つしかなかった。
「ほんとに見たのか、石崎」
「ほんとだって! 第一このへんに車なんて来るってことあったかぁ?」
 今朝石崎が見たというのは、農場の裏手の道からこちらを窺うようにして いた乗用車だ。
『てんでやなカンジだった』
 根拠があるとは言えない石崎の感想だったが、それを聞いた時、俺はちょ っと別のことを思い出したのだ。
 3日前、俺と高杉は農場の敷地からちょっと遠出してミドリ沼を調べに行 った。畑のほうの小川が流れ込む大きな沼で魚も多い。そう、俺たちは 「漁」の可能性を見てみたかったのだ。
『変だな』
 俺たちが驚いたのは、毎年北から渡って来ているハクチョウの群れが姿を 消していたことだ。今年も連中がやってきているのは間違いなかった。連中 の声は風向き次第では家まで届いていたし、リーダーの松山とかいうヤツな ぞは到着早々、表敬訪問に農場の上をバサバサ旋回していたくらいだ。
 ただ、連中は俺たちと違って人間の動きには過敏すぎるほど反応する。異 変――それがハクチョウにとってのそれなのか、あるいは…。
「あのこと、言ったのか、森崎?」
 俺の後ろで長野のささやき声が聞こえた。
「え…。あ、いや……」
 振り向くと、森崎の困ったような目とぶつかる。
「何の話だ?」
「あのな、電話なんだ」
 森崎より先に、長野が言った。
「昨日の夕方、俺たちが外にいる時、居間の電話がいきなり鳴り出したん だ。な、そうなんだろ、森崎」
「うん…」
 俺だけでなく、部屋の全員がびっくりした顔でこちらに注目していた。電 話――それははっきり言って忘れられていた道具の一つだった。
「で、どうしたんだ。出たのかぁ?」
 石崎が声を張り上げた。森崎はあわててかぶりを振る。
 言っておくが俺たちだって電話を取ることくらいできる。くわえた受話器 を床に置きさえすればそれに返答だって――ただしイヌ語だが――できるの だ。問題は相手を選ぶ必要があることで、まあ普通は相手を驚かすだけだか ら、俺は実行したことはない。
「なぜすぐ言わなかったんだ。妙なことがあったら全員で審議する決まりだ ろう」
 俺たちのこういう生活が世間に後ろ暗いと言うわけじゃない。ただ「人間 の保護者」のいない家に子供が一人、という状況が良識ある人間に認めても らえないことはわかりきっているのだ。見つかれば翼は「保護」され、どこ かの施設に預けられる。ここで待つようにという若林さんの言葉以上に、俺 たちは翼と、ここで、こうして、暮らしていたい。
 だから俺たちはこの1年、人間の目を極力避けて過ごしてきた。隠れ住む という意味ではなく、若林さんの不在を外に悟らせない「ごく普通の暮ら し」に見えるよう、努力してきたのだ。万一誰かが通りかかっても、今たま たまご主人はこの場にいないだけ、というふうを装って。事情を知っている 人間はただ一人、ヤクルトおばさんだけだ。あの人はたぶん俺たちとは別の 理由でこの秘密を守ってくれている。
「12回鳴って、それで切れた」
 うつむいたまま、森崎は言った。
「俺、びっくりして、動けなかった。誰か呼びに行こうとか考える暇もなか ったんだ。俺――」
 森崎はちら、と目を上げ、またさっと視線を落とした。
「……若林さんかと思ったんだ!」
「そんな…!?」
 来生が悲鳴のようなかすれ声を出した。俺たちみんな、不意を突かれて立 ちすくむ。そう、まさにそれは口にしてはならない言葉だったのだ。
 俺はすうっと息を吸い込みながら、こっそり仲間の顔を見回した。帰って きてほしい、一日も早く。でも今はその思いをあえて忘れ、俺たちは今この 瞬間を必死に持ちこたえている。それはギリギリの――危うくて悲しいバラ ンスだ。
「ごめん…」
 それだからこそ、森崎は言えなかったのだろう。誰にともなくつぶやいた 森崎を、俺はぽん、とたたいた。
「そいつは、若林さんじゃない。だから俺は調べてたんだ」
「え?」
 森崎がびっくりした目で見つめ返した。周囲からもえーっと声が上がる。 俺は目で外を指した。
「昨日、一人でもう一度ミドリ沼に行ってみたんだ。ハクチョウたちが戻っ てるか、見に。そしたら道路側の岸にタバコの吸殻が一つ落ちてた」
「タバコ…」
 滝が低くつぶやいた。他の者たちも顔を見合わせている。
「変なことが重なりすぎる。誰かが、俺たちのまわりでこそこそと動いてい るとしか思えない。その電話も、きっとそうだ」
「井沢……?」
「考え過ぎかもしれないが、どうせなら最悪の事態を疑っておいたほうがい いと俺は思う。用心はいくらしたって無駄にならないものな」
「けどよぉ…」
 石崎がしかめっつらをした。
「こそこそって、そいつら、何が目的なんだ? 用があんなら堂々と入って くりゃいいのに」
「堂々とできない用に決まってるじゃないか」
 石崎の頭を小突いたのは滝だ。小突いておいて俺を見る。
「井沢、その吸い殻、持って帰ったのか? ちょっと匂いを覚えておきたい んだけど」
 俺は玄関の脇に置いてあると教えた。滝だけでなく、残りの者もぞろぞろ と確認に出て行く。敵の匂いを覚える――それは闘いの第一歩だ。
 俺は無意識に翼の部屋のほうを振り返っていた。最悪の事態、と言った自 分の言葉が、その方向から嫌な予感を伴って漂って来ていた。







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