南 葛 農 場        2























 日が暮れてから北寄りの風が強くなった。暖炉の前では床にぺたんと座り 込んだ翼がいやいやをしている。
「だめだぞ、翼。好き嫌いすると食べ物の神様のバチが当たるんだからな」  具体性のない脅しをかけているのは、世界でも珍しい「料理のできるイ ヌ」である滝だった。今朝はたまたま機嫌が良かったニワトリたちからいた だいてきたタマゴを生スクランブルエッグにして食べさせた後、暖炉の火に 放り込んで直焼きにしたジャガイモを翼に食べさせようと奮闘中だ。
「塩味、足りないんじゃないのか?」
 横から高杉が口をはさむ。一般に人間の味覚は俺たちのそれより不健康に できていて、味付けがかなり濃い。関西のイヌはさらに薄味好みだそうだ が、俺は実地探査したことがないので黙っていた。
「…あれっ?」
 出窓の下で丸まって居眠りしていた中里が、目を閉じたままピンと耳を立 てた。
「人間の、話し声だ」
 皆それぞれの位置で耳だけをその方向に向け、神経を集中させた。この母 屋から約100メートル、飼料小屋のゲートのあたり…というところか。俺 たちの聴覚は言うまでもなく人間の能力をはるかに凌ぐ。この風でなければ もっと早く、そして嗅覚でさらに確実にキャッチできていただろうが、もし かするとそれも連中の計算か。
 聞き慣れない足音だった。ついでにそいつらもこの家に慣れていない歩き 方だった。思ったより人数は多そうだ。
 来生と小田がハッと顔を見合わせた。
「銃の、匂いだ!!」
 猟犬の2人は、若林さんについて何度も猟に行っている。命を一瞬にして 奪うその圧倒的な力が、危険な匂いとして二人の感覚に刷り込まれているの だ。
「やっぱり友好的な人間じゃないみたいだな」
 俺の合図で全員がさっと配置に散った。玄関、勝手口、主な窓を固め、二 階への階段にも念のため一人が回る。翼には俺の代わりに森崎が付いた。い ざと言う時その補佐ができるよう、近くには大柄な者中心に待機している。  だがその時、連中が家の中に誰がいるのかを正確に把握していなかったの と同様に、俺たちもまた、連中が何を狙ってやって来たのかを知らずにいた のだった。














 誤解のないように言っておくと、俺たちはとりたてて好戦的なタイプでは ない。農場に住んで多少は作業の手伝いをすることはあったが、たとえば番 犬や警備犬としての訓練を受けているとか、そういう素養は一切ない。ご主 人とその子供と一緒に家族の一員としてのんきに暮らしているだけだったの だ。まあ、強いて言うなら、数の多さでプレッシャーを与える、くらいが関 の山だろう。
 連中は俺たちと顔を合わせて面食らったようだった。俺たちも、連中の出 方がわからないうちに先制攻撃する気などなかったから、とりあえずワンク ッション間抜けな空白ができてしまった。
「き、気味悪い家だな」
 失礼な。
「とにかく探せ。絶対にいるはずだ。ガキや犬どもがこうして住んでるんだ からな」
 男たちが今に踏み込んだ時は俺たちも緊張したが、森崎にしがみついてコ ロコロ遊んでいる翼を見ても、連中は興味を示さなかった。俺たちはそれと なく男たちについて歩きながら、互いに目配せをした。
 そう、こいつらが探していたのは、若林さんだったのだ。
「二階にも、屋根裏にもいねえ!」
「納屋と牛小屋は見てきたか?」
 連中の動きが次第にいらついて足早になっていく。あれは牛じゃなくてヤ ギ小屋なんだぞ、バーカ…と石崎が悪態をつくが、もちろん通じるわけはな い。
「くそっ、まさか感づいて逃げたんじゃねえだろうな」
「子供を置いてか? そんなはずはない!」
 リーダーらしい大きな男が吐き捨てるように言って、俺のことをじっと睨 む。その視線がゆっくりと横に移動して行って、暖炉の前で止まった。
「…そうか、子供、か」
 男の表情がにんまりと歪んだ。俺はとっさに叫ぶ。
「翼を…渡すな!!」
 森崎が覆いかぶさるように翼を抱え込んだと同時に、高杉と岩見がさっと その前に立ち塞がってブロックした。他の者たちも一斉に駆け寄って吠え立 てる。
「井沢、逃がせ、早く!」
 ライフルを構えかけた一人に飛びかかって、来生はその足に思いっきり噛 みついた。
 翼を背にしがみつかせて窓から飛び出す。その背後で恐ろしい大音響が弾 けた。仲間がどうなったのか振り返って確認する余裕すらなく、俺は闇を突 っ切って走った。
「そっちだ!」
 が、ゲートの脇から黒い姿が飛び出した。見張りが、残っていたのだ。
 俺は足を踏ん張って、翼が勢いで転げ落ちないようにとっさに反転した。 翼を背後に隠し、攻撃態勢を取ろうとしたその瞬間だった。目に見えない、 熱い衝撃が背中に弾け、そして――俺の記憶はその闇の中でそれきりぷっつ りと途切れてしまったのである。















 最初に目覚めたのは耳だった。重苦しい闇の中で、その声が遠い余韻とな って俺の意識を揺り動かし、泡がひとつひとつ弾けるように、感覚を少しず つ解き放っていった。
「……つばさ」
 目を開くとそこに翼の泣き顔があった。俺の頭を抱き込むようにして、幾 度も幾度も俺を呼んでいるのだった。
「井沢、井沢……!」
 俺はふーっと大きく息を吐き出した。翼の声は心地よかった。呼んでいる 俺の名が人間語でなかったせいだろうか。そう、翼は俺たちの名前をイヌ語 でしか認識していないのだ。翼がそれを習得する前に、若林さんは去って行 ってしまったから。滝がいつか心配していたが、個体認識の問題だからこれ はしかたがない。
「翼……」
 俺は体を起こそうとした。翼がびっくりしたように俺を見た。
「どうなったんだ、俺たち…?」
 不思議なことに痛みはどこにも残っていなかった。ただ頭の芯がぼおっと して、口の中がカラカラに乾いていた。
「井沢…!」
 翼はいきなり俺に抱きついた。おかげで俺はよろけてまた床に倒れてしま う。
――床?
 その時俺はようやくそこが見慣れぬ場所だということに気づいた。湿っぽ い、小さな部屋だ。打ちっ放しのコンクリート壁はどことなくカビ臭く、普 段人が出入りする所でないことを知らせている。
 窓はなく、斜めになった妙に高い天井に小さな天窓が一つあった。夜が明 けたばかりの寝ぼけたような曇り空がガラス越しに見える。
 俺は立ち上がった。翼は俺の首にしがみついたまま離れようとしなかった が――俺が意識を失っている間、よほど不安だったのだろう――そのまま半 分引きずるように、古びた鉄の扉に近寄る。
 特に耳を澄ませるまでもなかった。
 人間の動き回る気配だ。同じ建物の、そう、壁をいくつか隔てた向こう側 に数人分の気配がある。イライラした話し声と――血の匂い。
「きょ、狂犬病なんて、ねえだろうな…」
「しかたねえさ、医者に見せるわけにゃいかん」
「いーてててて!」
 俺の心配は外れた。その匂いはイヌが流した血ではなく、イヌによって流 された血だったらしい。
 くそー、あの犬ども、今度はたたっ殺してやる、とわめいている声が、来 生が襲った男だろう。
「カーターと連絡は取れたのか?」
「はい、今こっちに向かってるはずです」
「ふん、自分はいつでも高見の見物。痛い目を見るのはいつも俺たちばか り、だぜ」
 連中の愚痴に耳を傾けていると、突然、上の方からコツン、という音が響 いた。翼があーっ、と声を出す。見上げると、天窓に白いものが覆いかぶさ っていた。
「――松山!?」
 覗き込んでいるのはあのオオハクチョウのリーダーだ。しかし、何故?
『ケガはない、か? 出られない、のか?』
 驚いたことに、松山はたどたどしく俺たちに声を掛けてきた。一瞬戸惑っ たが、急いで答える。
「ああ、撃たれたのは麻酔銃だったらしい。もう平気だ。翼も大丈夫」
 まだしがみついたままの翼を目で指すと、松山はうなづいた。
『おまえの、仲間に頼まれた。場所が、わかったら、知らせに戻る、ことに なってる』
「そうか、すまない。でも連中は銃を持ってる。むやみに近づくのは危険 だ、と伝えてくれ」
『わかった。また、来る』
 松山はその不思議な黒い目でじっと俺を見てから、大きく羽ばたいて飛び 立って行った。
「やれやれ、ハクチョウと話をするとは思わなかった…」
 俺のほうが驚いてしまったことに照れがあったかもしれない。独り言を言 って翼を見下ろすと、翼はふふふ、と笑った。そして小さな腕でまた俺を抱 き締めたのだった。















 補足説明をするなら、俺たちイヌの会話は人間のように発声を伴ったもの だけではない。いや、むしろ沈黙の言語――つまりボディーランゲージのほ うが遥かに多いのだ。目、耳、足、シッポはもとより、相手に対する体の位 置や角度に至るまで、それぞれ細かい伝達のニュアンスを持っているのだ が、それをちゃんと把握している人間は少なく、イヌとの付き合いがあまり ない人間だとせいぜい『シッポを振ったら喜んでいる、キバを剥いたら怒っ ている』程度の知識しかないようだ。
 翼はまだ人間としてもイヌとしても幼いから俺たちのコミュニケーション は常に完全とは言えないが、それでもその時、何の声も出さずに「会話」し ていたのは単にいつもの習慣というやつで、特にそういう効果を狙ったので はなかったが…。
「――静かだな。まだ薬が効いてるじゃねえか」
「でも、俺はもうごめんだぜ、あんな犬」
「いいから覗いてみろって」
 だから扉の外からひそひそ声が聞こえた時、連中のその知識の甘さを利用 することに決めたのも、単なる成り行きというものだった。
「おっ、見ろよ」
 扉を細く開けて覗いた男が、ニヤニヤと言った。
「あの犬、まだモーローとしてるぜ。腰が立たねえらしい」
「ガキも泣きやんだな」
 俺は横になったままわざと手足の力を抜いていた。もちろんダラリと舌を 出してみせるくらいの演出はできる。滝に言わせると俺は「てーんで凄味の ない甘っちょろい顔」らしいので、演技プラス外見で連中の警戒心をかなり 緩められたようだ。
「よし、犬のほうはつないどけ。ガキはカーターに預けることになるだろう がな」
 指示を出している男が戸口から一歩踏み出したそのタイミングを俺は待っ ていた。残り3人がその命令に従おうと俺たちに向かって来たその一瞬、出 口にぽっかりと逃走コースが見えたのだ。
「翼、鬼ごっこだ! 走れ!」
 俺は跳ね起きると同時に叫んだ。翼の顔がぱっと輝いたかと思うと、ボー ルのように弾んで走り出す。「ヒャッホー!!」と人間語なら言うところか。  そう、こういう時の翼のダッシュときたら、並じゃない。一番近くの一人 が、驚いたはずみで思わずよろけたのは当然だ。その後に続いた俺がちょい と体当たりしてやっただけで、別の一人を巻き添えにしてブザマに転んでし まった。
「なっ、何だ…!?」
「くそおっ!」
 横から飛びかかって来た男に突き飛ばされた翼は、しかしその勢いのまま クルッと一回転して、きゃーっはははは、と笑いながらスライディングして 行く。ほんの赤ん坊の時から10匹のイヌと団体戦を繰り返してきた翼だ。 勝ち目があろうはずはない。
 翼がくぐって行ったリーダーの男の足の下を、俺もならって走り抜ける。 ただし俺のほうが遥かに体が大きいから男はみごとにひっくり返った。ごめ んよ。わざとだけど。
 油断していたのか連中がこの部屋に銃の類いを持参していなかったのは幸 いだった。背後から飛んでくるのが銃弾か罵声かでは大きな違いがある。
「翼っ、待てーっ!」
 これは俺の「罵声」。こう呼びかけるたび翼は喜んでスピードがどんどん 上がるのだ。これが俺たちの鬼ごっこルール。ただし方向の適切さはそれに 反比例する。もとより翼は誘拐犯から逃げているという意識もないからな。  騒ぎに気づいた残りのヤツらもすぐに追っ手に加わってきた。一度など完 全に真正面に立ち塞がれかけたが、相手が階段を登り切った所で出会ったの を幸い、体当たりして階下へお引き取り願った。
 廃屋となった古い作業所か何か――らしいと俺はにらんだ――の中で、こ うして日頃のトレーニングの成果を存分に試した挙句…。
「翼…!」
 俺がこの鬼ごっこにゲームオーバーを宣言したのは、ついに出口に達し た、その一歩手前の地点だった。







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