南 葛 農 場        3














 それは、まさに危険信号だった。何が行く手を塞ごうとこのまま押し切っ て外へ逃げ出すつもりでいた俺だが、その間違えようのない匂いが前方から 漂ってきた時、自然に足が止まってしまったのだ。
「なんだか上が騒がしいな。何かあったのか?」
 そこはがらんとしたガレージだった。一方の壁際にはホイールだのオイル 缶だの工具類だのが乱雑に転がって、辺りじゅうに油の匂いが染み付いてい たが、上げたままだったシャッターの向こうから白い乗用車が一台乗り入れ て来たのだ。
 車のドアが開き、その匂い――タバコの煙がドッと渦を巻くように流れ出 る。その煙を身にまとって降り立った人物は、黒いサングラスを掛け、妙に 気取った仕立てのスーツを着ていた。むろん見覚えはない。見覚えはない が、その手にあるタバコは昨夜俺たち全員で記憶に叩き込んだ、ズバリその 匂いだったのだ。
 そいつは俺たちには全く気づいていなかった。ガレージの隅に積んであっ た段ボールの山の間にとっさに潜り込んだのだが、鬼ごっこから切れ目なし にかくれんぼに突入するくらい慣れっこの翼は、俺を横目で見ながらうまく 真似をして息を殺している。
「カーター!」
「どうしたんだ」
 そこへ駆け込んで来たさっきのリーダーに、サングラスの男は不機嫌そう な声を掛けた。
「まさか、子供を逃がしてしまったんじゃないだろうね」
「い、いや、そのまさかなんだ」
「なんだって!」
 男は声を荒げた。そして手に持っていた白い袋を床に投げ捨て、外に走り 出る。
「せっかくあの子に食べさせようとアイスクリームを買って来たのに、なん てことだ!」
「ああ?」
 リーダーの男はどう反応していいのかわからないという顔で後に続いた。 俺も呆気に取られる。アイスクリームだぁ?
 タバコの男の意図が――ついでにこの誘拐騒ぎの目的そのものが疑問符ま みれになる。昨夜押し入った連中は若林さんを(おそらく合法的でない理由 で)探していた。翼はそのための人質として連れて来られたのだと、少なく とも連中の話からは推測していたのだが。
 ズリズリ、という妙な音で振り返ると、見慣れた顔とぶつかった。
「石崎…!?」
 サングラス男が捨てて行った袋をくわえてあとずさりしながら、石崎は照 れたようにニカッと笑い返した。
「なーに、せっかくだからいただいて行こうぜ。俺、こいつ長いこと食って ねえもんなぁ」
 それは俺だって。――違うっ!
「おまえ、どうしてここにいるんだ!?」
 同じ段ボールの陰まで袋を引きずって来てから石崎は翼にすりついて再会 を喜んだ。
「みんな来てるぜ。この向こうの森ん中までよ。あのハクチョウが教えてく れたんだ」
「あ、ああ…」
 ちょっとだけ違和感がよぎったが、協力体制が既に出来上がっているよう だったから、口出しはやめておく。きっと相当変わり者なのだ、あのハクチ ョウは。
「ここってさ、町の反対側の外れなんだ。俺たち、ミドリ沼をぐるっと回っ て追っかけて来たんだけどよぉ、森ん中入っちまえばまくのは簡単だぜ」
「そうだな、けど…」
 まくのは簡単でも、また簡単に追い詰められるのだ。俺たちの帰る先が他 にない以上。昨夜は奇襲作戦で被害も最小限に抑えられた。だがこの次は麻 酔銃が実弾にならないと誰が保証できるだろう。
「ま、いいからここ出ようぜ。こっちに抜け穴があんだ」
 石崎は袋を口にくわえ直すと、ごそごそと段ボールをかき分け始めた。そ の向こう、古タイヤを積んだその陰に、壁の鉄骨が1本外れ落ちている場所 がある。
「な、おまえでもくぐれるだろ?」
「――ああ、なんとか、な…」
 体をよじりながら、羽目板の破れ目を苦労して通り抜ける。先に出た石崎 は平気な顔で振り返るが、俺のコートは鉄サビとクモの巣でよれよれに汚れ てしった。
「けど、弱っちまったなァ…」
 石崎はカリカリと頭をかいた。
「俺はまだしも、おまえも翼もちょっと目立ち過ぎんだよな」
 その視線の先を追うと、なるほど敷地のオープンスペースを突っ切った向 こうに、黒々と森が横たわっている。直線にしておよそ200mというとこ ろか。そう、その距離分、白い雪の原が俺たちを阻んでいるのだ。
「俺に任せときな」
 頭の上から声が降ってきた。
「滝…!?」
「要するにおまえたちが無事に森に入るまで注意をそらしとけばいいんだ ろ」
 滝はスレートのひさしの先端から覗き込むように俺たちを見下ろしてい た。高い所が好きだなんて、イヌにあるまじき奴だ。
「俺も!」
 ぴょんと跳ねて気勢を上げた石崎だったが、滝はあっさりと拒絶した。
「おまえみたいな短足には無理だよ。登って来られるもんか」
「なんだとぉ〜」
 石崎は歯を剥いたがこればっかりは事実だからしょうがない。くるりと向 きを変えたシッポの先がちらりとひらめいて滝は消えてしまった。
「ちっ、滝のバカやろー!」
「翼…」
 俺は翼を鼻で押した。
「石崎と行くんだ。ほら、向こうにみんな待ってるから」
「え、おまえは?」
 石崎が不審顔で振り向いた。
「俺とじゃ目立ちすぎるって言ったろ。俺は別に行くよ」
「わーった。じゃ」
 石崎は翼と揃って駆け出した。いいコンビだ、いつもながら。活動レベル に大差ない。体の小さい2人にとって雪の中を走るのは決して楽なはずはな いのだが、むしろはしゃいでいるかのように元気よく遠ざかって行く。
 と、建物のどこかで騒ぎが始まった。滝がいよいよ暴れ出したらしい。ガ シャン、と何か大きな物がぶつかる音と人間の叫び声。どうやら正面側のよ うだ。
 俺は翼たちの後ろ姿をもう一度見やって少し迷ったが、滝がやっぱり気に なった。ガレージの壁際を走って角で止まり、そっと覗いてみることにす る。
 鼻を突き出した途端、また大きな音が響いた。やってるやってる。工場の 丸屋根の梁に沿って並んでいる窓を、その梁の出っ張りの部分に立った滝が 下に蹴落としたのだ。古びていてほとんど枠から外れかけている窓は、滝が ちょいと押しただけでまっさかさまだった。しかもその滝の動きが全く見え ない男たちにとっては文字通りのゲリラ攻撃になっている。
 あー嫌だ嫌だ。あんな所よく走れるものだ。俺は加勢する気もなくなって とりあえず傍観することにした。滝だっていつまでもあれを続けるつもりは ないだろう。適当なところで切り上げて、翼たちが森に入ったあたりで一緒 に逃げるとしよう。
 が、そうはうまく運ばなかった。道の向こうから大きな黒い乗用車が一 台、敷地に乗り入れて来たのだ。俺は車に詳しくないが、いかにもそれは偉 ぶった高級車で、しかもスモークガラスで内部が見えないようになっている あたり、胡散臭いことこの上ない。
 建物の中から、カーターが走り出て来てその車に近寄った。スピードを緩 めてガレージ前に進む車に並んで歩きながら、カーターは何やら勢い込んで 話をしている。
「若林ですよ」
 いきなり耳に飛び込んで来たその言葉に、俺はギョッとなった。
「あの男がやっているに違いありません。やはり息子を助けに現われたんで す」
 思わずきょろきょろと探してしまった俺を責めないでほしい。連中の誤解 の根源が他ならぬ俺たち自身だと気づいた瞬間、俺は心底がっかりしたのだ から。
「昨夜農場に行った私の部下に犬をけしかけたのも彼でしょう。今も犬を使 って自分は隠れているようですが…」
 ああ、若林さん。本当にそうしてくれてたらどんなにいいだろう。認めた くはないが、俺たちだけでは限界があるんだ。とりあえず目先のトラブルか ら翼を守れても、この連中の考えていることが何なのかまでは読み切れな い。
「いました! こっちです!」
 今度は上の方からである。カーターがはっと振り仰いだ。
「若林か!?」
「いえ……犬です!」
 カーターの肩ががくっと脱力するのが見えた。俺の位置からは死角だが、 おそらく2階の窓のあたりから叫んでいる部下の声がそれに構わず続く。
「1匹だけです、他には誰もいません!」
「くっ…!」
 カーターは手にしていたタバコを叩き付けるように足元に捨てると、キッ と顔を上げた。
「若林くん! 聞こえているんだろう、隠れていないで早く出て来るんだ。 茶番はこれくらいにしなさい!」
 茶番はどっちだろうか。いもしない相手に血相を変えている奴らは放って おくとして、俺は滝に合流する手立てを考えなくてはならない。
 こっちからは滝が見えた。梁の半ばで立ち止まり、首だけ振り向けて2階 の窓を見ていた。視線はそのまま、姿勢が徐々に低くなる。
 銃声が響いたのと、滝が身を翻したのが同時だった。
 俺は心臓が凍ったが、走って行く滝の足取りに乱れはなかった。うまくか わしたようだ。
 滝は丸屋根の先端まで達すると、梁からその下の差し掛け屋根にトン、と 飛び移った。さらにその屋根の下には非常階段の鉄の手すりが突き出してい る。俺はピンと来た。滝は建物の中に入り、廊下を逆行してここに戻ってく るつもりなのだ。
 だが、滝はまたもそこで動けなくなった。今度は下から銃声がしたのだ。 背後からは2階の窓から追って来た男が迫っている。こちらも銃を持ってい るだけに、文字通り身動きが取れない。
「あっ!」
 それは思いも寄らない登場だった。
 至近距離から滝を狙おうとした男の銃が宙を舞う。
 頭上から襲った大きな白い鳥――松山は、バサバサ羽ばたきをしながら男 の視界を封じ、その黒い足で何度か平手打ちを命中させたようだった。
 高い所での格闘は、当然ながら翼のあるものの方が優勢となる。翼のない ほうは――悲鳴を上げて屋根のへりにしがみつき、勝負はあっさりついた。  滝はその騒ぎの間にまんまと非常階段へ飛び移ったようだ。松山はそれを 確認して上空に舞い上がる。俺はただただ唖然としてそれを見ているばかり だった。
 が、一発の銃声が俺を現実に引き戻した。地上から、ライフルが松山に銃 口を向けていたのだ。
 しかし松山は馬鹿にしたようにわざとその真上を過ぎて、森の方向へと飛 び去って行く。
「およしなさい、無駄よ」
 舌打ちして再度照準を合わせようとしたカーターの部下が、その声に弾か れたようにライフルを下ろした。
 俺が気づかない間に、黒い乗用車の側に人影があった。化粧と、香水の匂 いが、一瞬にしてあたりを支配している。
「ミサキさん…?」
 カーターが振り向いて、そのサングラス越しに凝視した。
「オオハクチョウは、国際保護鳥ですものね」
 つばの広い帽子をかぶった後ろ姿がゆっくり動いて横顔が見えた。俺は息 を飲む。
 それは、ヤクルトおばさんだったのだ。









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