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それは、まさに危険信号だった。何が行く手を塞ごうとこのまま押し切っ
て外へ逃げ出すつもりでいた俺だが、その間違えようのない匂いが前方から
漂ってきた時、自然に足が止まってしまったのだ。
「なんだか上が騒がしいな。何かあったのか?」
そこはがらんとしたガレージだった。一方の壁際にはホイールだのオイル
缶だの工具類だのが乱雑に転がって、辺りじゅうに油の匂いが染み付いてい
たが、上げたままだったシャッターの向こうから白い乗用車が一台乗り入れ
て来たのだ。
車のドアが開き、その匂い――タバコの煙がドッと渦を巻くように流れ出
る。その煙を身にまとって降り立った人物は、黒いサングラスを掛け、妙に
気取った仕立てのスーツを着ていた。むろん見覚えはない。見覚えはない
が、その手にあるタバコは昨夜俺たち全員で記憶に叩き込んだ、ズバリその
匂いだったのだ。
そいつは俺たちには全く気づいていなかった。ガレージの隅に積んであっ
た段ボールの山の間にとっさに潜り込んだのだが、鬼ごっこから切れ目なし
にかくれんぼに突入するくらい慣れっこの翼は、俺を横目で見ながらうまく
真似をして息を殺している。
「カーター!」
「どうしたんだ」
そこへ駆け込んで来たさっきのリーダーに、サングラスの男は不機嫌そう
な声を掛けた。
「まさか、子供を逃がしてしまったんじゃないだろうね」
「い、いや、そのまさかなんだ」
「なんだって!」
男は声を荒げた。そして手に持っていた白い袋を床に投げ捨て、外に走り
出る。
「せっかくあの子に食べさせようとアイスクリームを買って来たのに、なん
てことだ!」
「ああ?」
リーダーの男はどう反応していいのかわからないという顔で後に続いた。
俺も呆気に取られる。アイスクリームだぁ?
タバコの男の意図が――ついでにこの誘拐騒ぎの目的そのものが疑問符ま
みれになる。昨夜押し入った連中は若林さんを(おそらく合法的でない理由
で)探していた。翼はそのための人質として連れて来られたのだと、少なく
とも連中の話からは推測していたのだが。
ズリズリ、という妙な音で振り返ると、見慣れた顔とぶつかった。
「石崎…!?」
サングラス男が捨てて行った袋をくわえてあとずさりしながら、石崎は照
れたようにニカッと笑い返した。
「なーに、せっかくだからいただいて行こうぜ。俺、こいつ長いこと食って
ねえもんなぁ」
それは俺だって。――違うっ!
「おまえ、どうしてここにいるんだ!?」
同じ段ボールの陰まで袋を引きずって来てから石崎は翼にすりついて再会
を喜んだ。
「みんな来てるぜ。この向こうの森ん中までよ。あのハクチョウが教えてく
れたんだ」
「あ、ああ…」
ちょっとだけ違和感がよぎったが、協力体制が既に出来上がっているよう
だったから、口出しはやめておく。きっと相当変わり者なのだ、あのハクチ
ョウは。
「ここってさ、町の反対側の外れなんだ。俺たち、ミドリ沼をぐるっと回っ
て追っかけて来たんだけどよぉ、森ん中入っちまえばまくのは簡単だぜ」
「そうだな、けど…」
まくのは簡単でも、また簡単に追い詰められるのだ。俺たちの帰る先が他
にない以上。昨夜は奇襲作戦で被害も最小限に抑えられた。だがこの次は麻
酔銃が実弾にならないと誰が保証できるだろう。
「ま、いいからここ出ようぜ。こっちに抜け穴があんだ」
石崎は袋を口にくわえ直すと、ごそごそと段ボールをかき分け始めた。そ
の向こう、古タイヤを積んだその陰に、壁の鉄骨が1本外れ落ちている場所
がある。
「な、おまえでもくぐれるだろ?」
「――ああ、なんとか、な…」
体をよじりながら、羽目板の破れ目を苦労して通り抜ける。先に出た石崎
は平気な顔で振り返るが、俺のコートは鉄サビとクモの巣でよれよれに汚れ
てしった。
「けど、弱っちまったなァ…」
石崎はカリカリと頭をかいた。
「俺はまだしも、おまえも翼もちょっと目立ち過ぎんだよな」
その視線の先を追うと、なるほど敷地のオープンスペースを突っ切った向
こうに、黒々と森が横たわっている。直線にしておよそ200mというとこ
ろか。そう、その距離分、白い雪の原が俺たちを阻んでいるのだ。
「俺に任せときな」
頭の上から声が降ってきた。
「滝…!?」
「要するにおまえたちが無事に森に入るまで注意をそらしとけばいいんだ
ろ」
滝はスレートのひさしの先端から覗き込むように俺たちを見下ろしてい
た。高い所が好きだなんて、イヌにあるまじき奴だ。
「俺も!」
ぴょんと跳ねて気勢を上げた石崎だったが、滝はあっさりと拒絶した。
「おまえみたいな短足には無理だよ。登って来られるもんか」
「なんだとぉ〜」
石崎は歯を剥いたがこればっかりは事実だからしょうがない。くるりと向
きを変えたシッポの先がちらりとひらめいて滝は消えてしまった。
「ちっ、滝のバカやろー!」
「翼…」
俺は翼を鼻で押した。
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