南 葛 農 場        4
















 俺は急いで顔を引っ込めた。不本意だったが、さっき石崎が教えてくれた 抜け穴からもう一度ガレージの中に潜り込むことにする。
 古タイヤの山の陰に隠れて階段のほうを窺っていると、程なく足音が聞こ えた。
「こっちだ、滝!」
 滝は階段を使わず、廊下の端からガレージへ、一気に飛び降りた。
「腰が抜けたぜ、もう」
「おまえが抜かしてどうする」
 安全な物陰に入るとすぐ、滝は体を横たえた。
「ケガしたのか!?」
 滝は首を伸ばして後脚の傷を舐めている。
「なんてことないよ。かすっただけさ。ただ血が止まるまでは…」
 俺ははっと廊下を見上げた。そうか、それで階段に跡を残さないよう用心 したわけだ。
「雪の上には出られないな」
「ここで待つさ。そのうち血も止まるだろ」
 滝は案外平気な顔だった。その顔を見て、俺は迷いながらもさっきのこと を打ち明ける気になった。
「ヤクルトおばさんが…!? まさか!」
「俺、何も信じられない気分だよ。あの人だけは俺たちと――秘密を守り合 ってるつもりでいたのに」
 俺はうつむいて足元を見た。いくら思い返してみても納得がいかなかっ た。あの人の協力は俺たちにとって何よりありがたいものだったし、それは 全部あの人の若林さんに対する個人的な好意から来ているのだと――俺は思 っていたのだ。
「連中のボスの…情婦!?」
 滝は憤慨した口ぶりでつぶやく。
「俺たちを、ずっとだましてたってわけか? 若林さんを追うために…」
「………」
 俺は不思議に怒りは湧かなかった。ただ、モヤモヤした思いが俺の中でぐ るぐる渦巻いていた。
 あの人は、若林さんがいた頃から時々見かけていた。ヤクルトおばさんと して町で働いていたのは嘘ではないと思う。
「おまえは甘いんだよ!」
 滝が決め付けた。
「そいつはつまり、もうずいぶん前から若林さんを監視してたってことじゃ ないか」
「……若林さんって、監視されるようなこと、やってたか?」
 俺が聞き返すと、滝はぐっと詰まった。俺たちの知る限り、若林さんは広 い畑で作物を作り、ニワトリやヤギを飼い、妻亡き後男手一つで翼を育て、 それはもう典型的な農場主以外の何者でもなかった。こんな物騒な連中に付 け狙われ、1年も行方をくらますようなところは何も。
「俺たち、イヌだもんなぁ…」
「バカ、井沢!」
 滝はいきなり俺をはたいた。
「イヌでも人間でも俺たちは家族だぞ。イヌだからできない、イヌだからわ からないことなんてないんだ、って、そう思ってたからこそこの1年、やっ て来れたんじゃないか」
「滝…」
「そして、みんなを引っぱって、そう思わせ続けてくれたのはおまえだぞ、 井沢」
 俺、泣きたくなってしまった。大変なことを大変だと思わずに来れたの は、みんながいたからだ。そして翼がいたから――。
 俺は瞬間、電気が走ったような気がした。
「翼だ!」
「え?」
 滝もつられて目を丸くする。
「翼はオトリの人質なんかじゃないんだ。欲しがってるのは翼なんだよ、や つらは!」
「けど、昨夜のやつら…」
「あいつらは下っぱだからな、そこまで知らされていなかっただけだと思 う。現にカーターは翼のことを一番に気にかけてた」
「なら若林さんはそのついで?」
「う、う〜ん、きっと両方揃ってはじめて意味があるんじゃないかな…」
 だんだんボロが出て来る。そう一気に何もかもわかるもんか。
「でも翼が狙い、ってのは納得できるかもな。ヤクルトおばさんも、ただの 監視にしちゃ翼を可愛がりすぎてたもん」
「翼は可愛い!」
 思わず言ってしまって、滝の冷たい視線を浴びるはめになる。
「でもよ、変だと思わないか?」
 滝の声がマジになった。
「あいつら、若林さんが俺たちと一緒にいると思い込んでるんだろ? ヤク ルトおばさんはそうじゃないってことよーく知ってるはずじゃないか」
 問題はそこだった。この連中はそう考えると、目的についてはひとくくり にとらえてはいけないのかもしれない。
「部下たちは若林さんを、カーターは翼を追ってる。じゃ、ボスとヤクルト おばさんは…」
「ひょっとして、互いに互いを騙しあって、利用しようって考えてるとか」  滝は眉をしかめて不愉快そうな声を出した。
「やだねー、これだから人間は。俺たちはそんな真似ができなくて結構。食 って寝て、猟をして、時々女と遊べば言うことなしだ」
「俺も賛成!」
 後ろで笑い声がした。ふさふさ巻き毛がタイヤの陰からぴょこんと飛び出 す。
「来生!?」
「よく来られたなー。今、連中、必死になってこのあたりじゅう探し回って るんだぜ」
「俺が石崎の次にチビだからって、伝令役にされたんだ」
 来生はふくれっ面をしてみせた。
「あのハクチョウがさ、滝がケガしたみたいだから応援に行ったほうがいい って。ちょっと遠回りだけどいい場所教えてくれたんだ。ここの敷地脇に側 溝があって、その中通れば、真上から見ない限り絶対見つからないって」
 なんとまあ。
「よくそこまで見てたな、あいつ。井沢でさえ気がつかなかったのに」
「し、仕方ないだろ、俺たちはあいつらほど目が良くないんだ」
「しっ!」
 来生が姿勢を低くした。人声がこっちに来る。
「――廊下に血の跡がずっと続いていました。犬のことですから確証はあり ませんが、若林のところに戻ろうとしている可能性が高いでしょう」
「で、それを追ってるわけ?」
 ヤクルトおばさん――いや、ボスの女と言うべきなのか。説明しているの はカーターだ。
「い、いやそれが…どこへ消えたのか…、今部下たちが手分けして探してい ますが、建物の周りも、もう犬の足跡だらけでどれがどれだか…」
「じゃ、その通り報告するしかないわね。私はそろそろ戻らないと…」
 そのクスクス笑いに込められた辛辣な皮肉に、カーターが目に見えてうろ たえた。
「待ってください、若林は絶対にこの建物から出ていません。遅かれ早かれ 必ず見つけますから!」
「出ていない? そうね、もしかして『最初からいないから、出ていない』 とか?」
「ミサキさん!?」
 呆然とするカーターに背を向けて、ヤクルトおばさんはレザーコートの襟 を立てた。階段の上を見上げながら独り言のようにつぶやく。
「追い詰めたつもりで、実は追い詰められていた、ってことにならないで ね、ムネマサ」
 そこでくるりと振り向いて、相手をじっと見据えた。紅い唇の端がふっと 緩むと、もう背を向けて歩き出している。
「――すげぇ女」
 車のエンジン音を聞きながら、滝がもらした第一声がそれだった。















 しかし俺たちをパニックが襲ったのはその直後だった。
「来生、来生、来生がいない〜!」
 状況が状況だからおおっぴらに探すことはできなかったが、俺と滝で調べ た限り、来生の痕跡はガレージの外、そうちょうどさっきのリムジン(と言 うそうだ、滝によると)が停まっていたあたりで消えていた。
「まさか、あの女につかまったとか…?」
「どうやって!? あいつは俺たちと一緒にいたんだぞ、そんな手品みたいな こと…」
 俺たちは顔を見合わせた。できる。来生なら手品ができる。
「あんのヤロー、こんな時に、何考えてんだ!」
 側溝の中を全速で走りぬけながら滝が吠えた。
「詳しく説明する暇はなかったけど、ヤクルトおばさんの正体くらい、さっ きの会話で飲み込めてたはずだぞ!」
「どこまで聞いてたか怪しいぞ。あいつ、車と見ると我を忘れるから」
 来生の車好きは度を越していた。若林さんに時折猟に連れて行ってもらう のが何より楽しみだった来生は、当然と言うか、その道中のドライブにも病 みつきになってしまったのだ。(パブロフの犬、なんてことは俺たちは知ら ない) ドアが開くその一瞬を狙って、車内に勝手に飛び込むのが来生の得 意の「手品」だった。
「大丈夫だよ、ヤクルトおばさんの車なんだろ?」
 森崎がおずおずと言った。他の仲間もうなづいている。
「だぁから! それが危ないって言ってんじゃないか!」
 森の中、ミドリ沼の水面が木の間からチラチラ見えるあたりで俺たちは合 流していた。脱出のいきさつ、そしてヤクルトおばさんの意外な正体につい てひととおり説明したのだが、どうも伝わり切らないのが滝にはじれったく てたまらないらしい。何度も大声を出す。
「ヤクルトおばさんが――つまり来生がどこへ行ったのかが問題だな」
 高杉が翼に体当たりされながらぼそっと言った。ちなみに石崎と翼はさっ きから高杉を壁がわりにして取っ組み合いをしている。
「そいつは、任せてくれ」
 俺たちの輪の外、少し離れた木の陰にいた松山がゆっくりと言った。
「俺の、仲間が尾行している」
「松山…ほんとに、あの、ありがとう」
 俺は向き直った。一歩踏み出すと、松山も一歩下がったのでそれ以上近寄 るのはやめ、とりあえず礼を言う。
「こんなにいろいろ助けてくれて…。正直、びっくりしたけど」
 松山はその深い黒い瞳でじっと俺を見た。表情が読めないのは鳥だからし かたないが。
「別に。おまえたちには、借りが、あるからな」
「え?」
 聞き返そうとした時、松山の後ろから一回り小さいハクチョウが姿を見せ た。俺たちのほうをビクビクと窺いながらかなり離れた場所で止まる。
「松山くん…」
 小さな小さな声で呼び掛ける。松山のパートナーかな。美人だ。松山は一 度そばまで行って短く何か言葉を交わすとすぐに戻って来た。
「車は、港のほうに、向かっているそうだ」
「港…!」
 河口の港はかなり大きな町だ。ここからはおよそ10マイルというところ か。車なら1時間もかからないが。
「残念だが、俺たちには、それ以上、行けない」
「あ、ああ。わかるよ。それで十分だから、おまえの仲間に礼を言っといて くれな」
 松山は沼に戻って行った。
「翼」
 ちょうど足元に転がってきた翼に、俺は声を掛けた。
「おまえ、寒くないか?」
 翼は黙って見上げると、返事代わりに俺をぎゅっと抱きしめ、また石崎に 飛び掛って行った。
「うちに帰るのか、井沢?」
 そんな俺の思いを見透かしてか、高杉が言った。
「ああ、俺たちは一晩くらい野宿したって構やしないけど、翼はやっぱり家 でないと…」
 みな黙って顔を見合わせた。
「帰るか」
 森と一番名残を惜しんだのは、他ならぬ翼であった。















 信じられないほど静かな午後だった。俺たちはうちに戻るとすぐに腹ごし らえをし、思う存分手足を伸ばしてくつろいだのだ。
「翼、もうそのへんでやめなさい。お行儀悪い」
 中でも一番のヒットだったのは石崎の戦利品、アイスクリームだった。一 通りみんなの間を回ってすっかり空になった容器を、翼は抱え込んで離さな いのだ。高杉がたしなめても、まだ物欲しそうにカップに手を突っ込んでい る。
「あーあ、ベタベタじゃないか」
 滝がその手をなめてやっている。石崎が割り込んで自分もなめようとジタ バタするが、滝が意地になってブロックしているので届かない。とうとう翼 がくすぐったがって逃げ出した。周囲からどっと笑い声が起こる。
「みんな危機感がないなぁ…」
 そう言う森崎もにこにこと感心している場合ではないと思うが、それでも 俺が偵察のために2階に誘うと神妙について来た。
「あーあ、ずいぶん散らかしてくれたなぁ」
 2階の突き当たりの部屋、若林さんの部屋に入ると、森崎は心底困ったと 言う顔でぼやいた。壁一杯にしつらえた書棚からは本やファイル類が無残に 引っ張り出されて散乱しているし、引き出しや棚の扉はどれも開けっ放し。 床の上は足の踏み場もない状態だった。
「変だな、この部屋だけ特に荒らしてったってのは何かあるのかな…」
 若林さんの仕事机の周りをくんくん嗅いでいた森崎がふと顔を上げた。
「井沢、これ…」
 森崎が拾い上げたのを見ると、それは机の上にいつも置かれていた写真立 てだった。若林さんと、亡くなった奥さんが並んで写っている。俺たちはみ な、翼が生まれてから――つまり奥さんが亡くなってからここに来たので、 奥さんと直接会った者はいないが、こうして見ると本当に翼は母親生き写し だ。このはねっ毛も、無邪気な笑顔も。
「どうした?」
「ガラスが割れちまってたみたい」
 森崎は写真立てをそっと床の上に下ろした。
「あれ?」
 入っていた写真がずれて、その下に重なっていたもう一枚の写真が覗いて いた。俺たちはびっくりして顔を見合わせる。
 こっちの若林さんはうんと若かった。白衣と言うのだろうか、薬局の人が 着ているような服を着ている。
「大学生、くらいの頃かな」
「うん」
 若林さんと一緒に、同じ服装をした中年の男の人が写っていた。俺には見 覚えがない。振り返ると森崎も首を横に振った。
 若林さんは笑顔だった。が、それが現在の若林さんでないことが、何か苦 い違和感として俺の中に残ったのだった。







<< BACK | MENU | NEXT >>