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何と言っても喉がカラカラだった。ヒゲの先がこげ、鼻は乾き、コートは
ドロドロ…。
飼料小屋と母屋はかなり離れているはずだが、窓越しに映る炎は大きくゆ
らめいて、すぐにも手が届きそうに見えた。
「ねえ、家も燃えてんの? 全部燃えちゃうの?」
来生が炎と俺たちを交互に見ながら心配そうに何度も繰り返した。
「――わからない。逃げるのが、やっとで…」
隣にあった桶までズルズル近寄って水をガブ飲みした。少し気分が良くな
る。
「大丈夫? ひどい目にあっちゃったね」
その時、背後でおばさんの声が聞こえたかと思うと、それに応えるうなり
声が続いて、俺はギョッと振り返った。
自分も焼け焦げだらけのヤクルトおばさんが、滝に手を差し伸べようとし
ていた。が、毛を逆立てるようにして飛びすさった滝は、うなりながらその
手をにらみつけている。
おばさんはゆっくりと手を引っ込めると、あいまいに微笑んだ。
「…そうだよね、ボクが裏切ってたこと、君たちもわかっちゃったんだ」
おばさんは小屋の中をぐるりと見渡し、まぐさの山の前で生きた毛皮に囲
まれてウトウトしている翼に視線を止めた。するとその両脇にいた高杉と森
崎がためらいがちに、しかし確実に翼の前に立ちはだかってブロックする。
「――ごめんね」
おばさんは目を伏せた。
「君たちから大事な若林くんを奪ったのはボクなんだ」
滝はまじまじとおばさんを見た。数時間前に見たあのボス然とした姿とは
まるで別人だった。
いつもの制服。化粧も落としている。かすかに残る香水の匂いがなけれ
ば、同一人物とは信じられないくらいだ。
「若林くんは、ボクの後輩だったんだ。大学の、研究室で」
おばさんは壁にもたれて目を閉じた。
「若林くんが翼くんと結婚した時、ボクは大学を離れた。もう会わないつも
りだったのに、こんな形で再会するなんて…皮肉だよね」
俺たちは互いに顔を見合わせた。
「ねえ、翼って、死んだ奥さんのこと?」
来生がひそひそと高杉にささやいている。それがわかったわけではないだ
ろうが、おばさんはぼんやりと目を開いた。首を傾げて翼の寝顔をじっと見
つめる。
「――命令で初めてこの家に来た時、この子があんまり翼くんそっくりで、
ボクは正直ギョッとしたくらいだったけど…」
その時のヤクルトおばさんのまなざしは決して忘れられない。そして俺は
納得してしまった。
おばさんは、若林さんも、奥さんも忘れられなかったのだ。ここで、翼と
会って、おばさんはそのことに気づいてしまった。ボスに背いてまで翼を守
ろうとしているのは、そのせいなのだ。
「若林くんは港の町の病院にいるよ。1年前、教授に呼び出されて、途中で
事故に遭ったんだ。ケガはすぐ治ったけれど、記憶が戻らなかった」
俺たちはざわっと息を飲んだ。まさか、と叫んだ者もいる。が、それには
気づかず、ヤクルトおばさんは一人で小さく溜め息をついた。
「教授は若林くんの研究が欲しいんだ。できれば組織に引き込んで、遺伝子
工学の最新技術を企業に売りたいってね。だから病院に置いたまま回復を待
っているんだ。ボクはその監視役さ。ここに来てることは内緒だったから偽
装するしかなかった」
そうか、それで時々しか来られなかったのか。でも、若林さんの研究?
イデンシコウガク? 学生時代はともかく、若林さんはここで研究なんかし
てただろうか。何かの間違いじゃないのか?
「なるほど、私は完全にカヤの外にされていたようですな。教授とあなたに
いいように利用されただけというわけですか」
もう一つの人間の声が俺たちを驚かせた。戸口にゆっくりと現われたカー
ターは、俺たちには目もくれず、ヤクルトおばさんを凝視している。
おばさんはそちらは見やりもせず、ふっと口元に冷たい微笑を浮かべた。
「ムネマサ、ボクらは利用なんてしていないよ。する気もなかった。あなた
が別の組織に飼われていることくらい、気づいていないと思った?」
「さすが学者出身は違いますな。しかし、教え子一人に振り回されたと言う
点では私と大差ないかもしれませんがね」
その目がサングラスの奥で光った気がした。それからカーターは俺たちに
向き直る。…いや、俺たちにではない――森崎と高杉にはさまれて眠ってい
る翼にゆっくりと銃を向けた。
俺の頭にカッと血が上った。飛び出そうとして足ががくがくしているのが
わかる。視界がぐらりと歪んだ気さえした。
「何するの! その子に手を出さないで!」
おばさんの叫び声が後ろから響いたが、カーターは微動だにしない。森崎
も高杉も他の仲間も、一様に目を見開いて凍りついたようになっていた。
「確かに私は金にさえなればどんな仕事も引き受ける情報屋だ。こうなった
ら若林くんにも用はない。だがこの子だけは別だ。私が預からせていただき
ますよ」
「そんな…! 何を言ってるんだ、あなたは!」
「ふ…ふははははは」
カーターは前を向いたまま、低く笑い出した。
「翼を奪われたのはあなただけではないんだ、ミサキさん。あんな年下の男
と結婚したばかりに、翼は若くして逝ってしまった。だが今度こそ翼は私の
ものだ。誰にも渡さない」
俺たちを支配していた恐怖が徐々に当惑に変わりつつあった。二人の話は
完全に俺たちの理解外だった。なにしろ俺たちは亡くなった奥さんという人
を知らない。まして、若林さんが結婚した時のいきさつなど知るはずがない
のだ。
「――あなたは、どうかしてるよっ!!」
ヤクルトおばさんがすくっと立ち上がった。両手の拳が怒りに震えてい
る。
「翼くんはいつだって自由だった。病気には勝てなかったけれど、今だって
自由に、元気にボクたちの中に生きてるんだ。若林くんにもボクにも、もち
ろんあなたなんかに束縛できるわけがない!」
「あ…」
誰かが声を上げた。はっと見ると、翼がゆったりと伸びをして起き上がる
ところだった。俺たちみんなを見渡して、花が開くように笑顔を見せる。
「翼…!?」
一瞬のスキに、カーターがいち早くダッシュして翼を抱え込もうとした。
が、俺たちも同時にそこへ飛び込んで、それをさえぎろうとする者、カータ
ーの腕や足に噛みつく者、吠えかかる者とで大混乱になった。
「カーターさん!」
騒ぎに気づいたカーターの部下たちが小屋になだれ込んで来たまさにその
時だった。天井から、ものすごい量の配合飼料が降って来たのだ。
「う、うわーっ!」
「ぺ、ぺぺぺぺぺぺっ」
噛みつくのに必死になっていて一番避難が遅れた石崎が口に入った飼料を
吐き出している。だがトン単位のニワトリ用飼料の海でアップアップとおぼ
れかけている男たちはそれを笑うことさえできないわけで、なんとか這い上
がろうと文字通り互いに足を引っ張り合うばかりだった。
「あいつは、許さない」
二階の天井の梁に座ってまさに高見の見物というかっこうでいるのは、あ
のオオハクチョウだった。
「沼に、タバコを撒き散らした、汚染の張本人だ」
二階の床には飼料を落とすためにすり鉢状に口がある。その一番下にある
フタがぽっかりと開いていた。これでは水門を全開したダムの放水になって
しまったのも当然だ。きれいな顔してとんでもなく過激なやつだ、まった
く。第一、屋根の下は苦手なんじゃなかったのか? 野生の鳥のくせに。
「若林が、買い取って、開発から守ってくれた俺たちの沼だ。荒らす者は、
許さない」
松山は窓枠にひょいと飛び移って、こちらを振り返った。そのまま飛び立
とうとするので急いで呼び止める。
「待てよ。こないだ言ってた俺たちへの借りってミドリ沼のことなのか?」
「ああ」
黒い目がまっすぐ俺を見つめた。
「水質汚染、酸性雨、オゾン層破壊――どれも俺たちにとって死活問題、だ
からな。俺は、ナショナルトラスト運動もやってる。若林は、それに賛同し
てくれたんだ」
どうも言ってることがよくわからないが、こいつ、かなり学のあるハクチ
ョウらしい。まあイヌと会話ができるだけでも語学の達人と言えるが。
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