南 葛 農 場        6
















 何と言っても喉がカラカラだった。ヒゲの先がこげ、鼻は乾き、コートは ドロドロ…。
 飼料小屋と母屋はかなり離れているはずだが、窓越しに映る炎は大きくゆ らめいて、すぐにも手が届きそうに見えた。
「ねえ、家も燃えてんの? 全部燃えちゃうの?」
 来生が炎と俺たちを交互に見ながら心配そうに何度も繰り返した。
「――わからない。逃げるのが、やっとで…」
 隣にあった桶までズルズル近寄って水をガブ飲みした。少し気分が良くな る。
「大丈夫? ひどい目にあっちゃったね」
 その時、背後でおばさんの声が聞こえたかと思うと、それに応えるうなり 声が続いて、俺はギョッと振り返った。
 自分も焼け焦げだらけのヤクルトおばさんが、滝に手を差し伸べようとし ていた。が、毛を逆立てるようにして飛びすさった滝は、うなりながらその 手をにらみつけている。
 おばさんはゆっくりと手を引っ込めると、あいまいに微笑んだ。
「…そうだよね、ボクが裏切ってたこと、君たちもわかっちゃったんだ」
 おばさんは小屋の中をぐるりと見渡し、まぐさの山の前で生きた毛皮に囲 まれてウトウトしている翼に視線を止めた。するとその両脇にいた高杉と森 崎がためらいがちに、しかし確実に翼の前に立ちはだかってブロックする。 「――ごめんね」
 おばさんは目を伏せた。
「君たちから大事な若林くんを奪ったのはボクなんだ」
 滝はまじまじとおばさんを見た。数時間前に見たあのボス然とした姿とは まるで別人だった。
 いつもの制服。化粧も落としている。かすかに残る香水の匂いがなけれ ば、同一人物とは信じられないくらいだ。
「若林くんは、ボクの後輩だったんだ。大学の、研究室で」
 おばさんは壁にもたれて目を閉じた。
「若林くんが翼くんと結婚した時、ボクは大学を離れた。もう会わないつも りだったのに、こんな形で再会するなんて…皮肉だよね」
 俺たちは互いに顔を見合わせた。
「ねえ、翼って、死んだ奥さんのこと?」
 来生がひそひそと高杉にささやいている。それがわかったわけではないだ ろうが、おばさんはぼんやりと目を開いた。首を傾げて翼の寝顔をじっと見 つめる。
「――命令で初めてこの家に来た時、この子があんまり翼くんそっくりで、 ボクは正直ギョッとしたくらいだったけど…」
 その時のヤクルトおばさんのまなざしは決して忘れられない。そして俺は 納得してしまった。
 おばさんは、若林さんも、奥さんも忘れられなかったのだ。ここで、翼と 会って、おばさんはそのことに気づいてしまった。ボスに背いてまで翼を守 ろうとしているのは、そのせいなのだ。
「若林くんは港の町の病院にいるよ。1年前、教授に呼び出されて、途中で 事故に遭ったんだ。ケガはすぐ治ったけれど、記憶が戻らなかった」
 俺たちはざわっと息を飲んだ。まさか、と叫んだ者もいる。が、それには 気づかず、ヤクルトおばさんは一人で小さく溜め息をついた。
「教授は若林くんの研究が欲しいんだ。できれば組織に引き込んで、遺伝子 工学の最新技術を企業に売りたいってね。だから病院に置いたまま回復を待 っているんだ。ボクはその監視役さ。ここに来てることは内緒だったから偽 装するしかなかった」
 そうか、それで時々しか来られなかったのか。でも、若林さんの研究?  イデンシコウガク? 学生時代はともかく、若林さんはここで研究なんかし てただろうか。何かの間違いじゃないのか?
「なるほど、私は完全にカヤの外にされていたようですな。教授とあなたに いいように利用されただけというわけですか」
 もう一つの人間の声が俺たちを驚かせた。戸口にゆっくりと現われたカー ターは、俺たちには目もくれず、ヤクルトおばさんを凝視している。
 おばさんはそちらは見やりもせず、ふっと口元に冷たい微笑を浮かべた。 「ムネマサ、ボクらは利用なんてしていないよ。する気もなかった。あなた が別の組織に飼われていることくらい、気づいていないと思った?」
「さすが学者出身は違いますな。しかし、教え子一人に振り回されたと言う 点では私と大差ないかもしれませんがね」
 その目がサングラスの奥で光った気がした。それからカーターは俺たちに 向き直る。…いや、俺たちにではない――森崎と高杉にはさまれて眠ってい る翼にゆっくりと銃を向けた。
 俺の頭にカッと血が上った。飛び出そうとして足ががくがくしているのが わかる。視界がぐらりと歪んだ気さえした。
「何するの! その子に手を出さないで!」
 おばさんの叫び声が後ろから響いたが、カーターは微動だにしない。森崎 も高杉も他の仲間も、一様に目を見開いて凍りついたようになっていた。
「確かに私は金にさえなればどんな仕事も引き受ける情報屋だ。こうなった ら若林くんにも用はない。だがこの子だけは別だ。私が預からせていただき ますよ」
「そんな…! 何を言ってるんだ、あなたは!」
「ふ…ふははははは」
 カーターは前を向いたまま、低く笑い出した。
「翼を奪われたのはあなただけではないんだ、ミサキさん。あんな年下の男 と結婚したばかりに、翼は若くして逝ってしまった。だが今度こそ翼は私の ものだ。誰にも渡さない」
 俺たちを支配していた恐怖が徐々に当惑に変わりつつあった。二人の話は 完全に俺たちの理解外だった。なにしろ俺たちは亡くなった奥さんという人 を知らない。まして、若林さんが結婚した時のいきさつなど知るはずがない のだ。
「――あなたは、どうかしてるよっ!!」
 ヤクルトおばさんがすくっと立ち上がった。両手の拳が怒りに震えてい る。
「翼くんはいつだって自由だった。病気には勝てなかったけれど、今だって 自由に、元気にボクたちの中に生きてるんだ。若林くんにもボクにも、もち ろんあなたなんかに束縛できるわけがない!」
「あ…」
 誰かが声を上げた。はっと見ると、翼がゆったりと伸びをして起き上がる ところだった。俺たちみんなを見渡して、花が開くように笑顔を見せる。
「翼…!?」
 一瞬のスキに、カーターがいち早くダッシュして翼を抱え込もうとした。 が、俺たちも同時にそこへ飛び込んで、それをさえぎろうとする者、カータ ーの腕や足に噛みつく者、吠えかかる者とで大混乱になった。
「カーターさん!」
 騒ぎに気づいたカーターの部下たちが小屋になだれ込んで来たまさにその 時だった。天井から、ものすごい量の配合飼料が降って来たのだ。
「う、うわーっ!」
「ぺ、ぺぺぺぺぺぺっ」
 噛みつくのに必死になっていて一番避難が遅れた石崎が口に入った飼料を 吐き出している。だがトン単位のニワトリ用飼料の海でアップアップとおぼ れかけている男たちはそれを笑うことさえできないわけで、なんとか這い上 がろうと文字通り互いに足を引っ張り合うばかりだった。
「あいつは、許さない」
 二階の天井の梁に座ってまさに高見の見物というかっこうでいるのは、あ のオオハクチョウだった。
「沼に、タバコを撒き散らした、汚染の張本人だ」
 二階の床には飼料を落とすためにすり鉢状に口がある。その一番下にある フタがぽっかりと開いていた。これでは水門を全開したダムの放水になって しまったのも当然だ。きれいな顔してとんでもなく過激なやつだ、まった く。第一、屋根の下は苦手なんじゃなかったのか? 野生の鳥のくせに。
「若林が、買い取って、開発から守ってくれた俺たちの沼だ。荒らす者は、 許さない」
 松山は窓枠にひょいと飛び移って、こちらを振り返った。そのまま飛び立 とうとするので急いで呼び止める。
「待てよ。こないだ言ってた俺たちへの借りってミドリ沼のことなのか?」 「ああ」
 黒い目がまっすぐ俺を見つめた。
「水質汚染、酸性雨、オゾン層破壊――どれも俺たちにとって死活問題、だ からな。俺は、ナショナルトラスト運動もやってる。若林は、それに賛同し てくれたんだ」
 どうも言ってることがよくわからないが、こいつ、かなり学のあるハクチ ョウらしい。まあイヌと会話ができるだけでも語学の達人と言えるが。
「家は、無事だぜ。風向きが逆になったのと、熱で屋根の雪が滑り落ちたの とで、助かった」
「……松山くん」
 外から細く呼び声がした。あの嫁さんだ。
「じゃ、な」
 松山は窓からジャンプすると、バサリと大きく羽ばたいて宙に飛び上がっ た。
「ところで、あれ、おまえらンとこの子供じゃないのか?」
 えっ? あわてて窓に駆け寄る。
「あ…、わーっ、翼っ!」
 確かに一緒に二階までくわえ上げたはずの翼が、一人トコトコと庭を歩い ている。そっちはニワトリ小屋だ!
 俺たちは窓から飛び降りるわけにはいかないから、ぐるりと回って、まだ もがいているカーターたちをしりめに小屋から出る。
「翼ぁ、そいつらに近寄っちゃダメだ! ひどい目に遭うぞ!」
 こちらから叫んだが、翼はちらっと振り返っただけで、ニワトリ小屋のフ ェンスにはりついた。両手一杯に抱えていた配合飼料をフェンス越しにぱら ぱらと落としてやっている。エサの山を見て、じゃニワトリに食べさせよう ――と素直に反応したらしい。
「あれ…?」
 しかし俺たちの予想は外れ、あの攻撃的なオンドリまでがおとなしく翼の 足元でエサをつついているではないか。
「どーなってんだ?」
 石崎が駆け寄ろうとすると、オンドリはとたんにトサカを振り立て、威嚇 体勢を取った。
「ひでーじゃんかよぉ! 何で俺だけ…」
「そうじゃない、逆だよ、石崎。こいつら、翼だけを特別扱いしてるんだ」 「ええぇ?」
「――そうか、そうだったんだ」
 俺たちの後ろに立って見守っていたヤクルトおばさんがくすくすと笑い出 した。
「若林くんてば、翼くんのニワトリを実験台にして、研究を続けてたんだ」  え、つまり奥さんのニワトリ…?
「いくら言っても譲らないと思ったら、翼くんの形見を守るつもりだったん だね」
 えーっ、この凶暴なニワトリたちが奥さんの形見? じゃ、その面影があ る翼だからこんなに気を許してるって言うのか? なんかすごく不公平な気 がするぞ。
「レポートにはわざと書いていなかったけれど、じゃ、ニッタ1号ってこの メンドリたちなんだ。もう20羽以上いるなあ…。DNA移植の制限酵素に 画期的な発見をした上に、ここまで実用化できてたなんて…」
 ヤクルトおばさんの独り言はどんどん専門家の話になって俺たちには全く 理解できなかったが、研究所とはケタ違いに素朴なはずのこの農場で、若林 さんがマイペースに自分の研究を完成させていたのだということは飲み込め て、なんとなく誇らしくなる。
 その貴重な――どこかの組織に狙われるほどの――研究の成果がこの憎ら しいニワトリたちだという点だけはどうも受け入れ難かったが。
「井沢…」
 滝は俺と目が合うとにやっと笑った。
「死んだ奥さんって、案外変わり者だったのかもな。こんなニワトリ可愛が ってたなんてさ」
「そりゃ、なんたって若林さんが結婚した相手だもの」
 来生、どういう意味だ、それは。
「それに、翼のおふくろさんなんだぜー。しかも、瓜二つなんだろ?」
 滝までがとんでもないことを言う。俺がふくれたのを見てわざとからかっ てるな、二人とも。
 翼は手をパンパンと払うと、満足そうな顔で出て来た。俺たちが妙にボロ ボロなのに目をとめて不思議そうに首をかしげる。
「翼くん」
 雪の上に片膝をついて、ヤクルトおばさんは翼と向き合った。微笑む目に 涙が見る見るたまっていく。おばさんは両腕を広げて翼をぎゅっと抱きしめ た。
「逃げたのはボクの方だ。いつだって君はこうして戻って来てくれるのに、 目をそむけて見ようとしなかったのはボクの方なんだ。翼くん、ボクたち、 何度でも出会い直せるよね。ボクのこと、ずっと見ててくれるよね…」
 翼であって翼でない人にそう語りかけて、おばさんは体を離した。くすぐ ったそうな顔をしていた翼は、しばらくおばさんを黙って見上げていたが、 急に大きな声で、
「おかあさん」
と、言った。俺たち全員、腰を抜かしそうになる。
 それは翼が初めて言った人間の言葉だったのだ。いったい、いつ、どこで 覚えたというのだろう。
 ヤクルトおばさんの驚きは俺たちとは意味が違うとは言え、もっと大きか ったようだ。まずあっけにとられ、次いでぼーっと顔が上気する。
「ち、違うよ。あのね、おばさんはキミのおかあさんじゃないの。キミのお かあさんはキミそっくりの顔で…」
 あせって訂正しようとするヤクルトおばさんだったが、その言葉の中でま た2回も繰り返したものだから、翼は有頂天になってしまった。
「おかあさん!」
 自分の主張が通ったと確信した様子だ。こういう時の翼は、こちらがどう あがいても自分の信じるところを曲げない。俺たちもさんざん経験してきた ものな。
「いいんじゃないの? この先ほんとになるかもしれないんだしさ」
「滝ぃ〜、おまえな…!!」
 俺が反論するより早く、隣で来生が笑い始めた。
「翼には勝てないよ。特に井沢、おまえはね」
 来生は大きく深呼吸して空を見上げた。
「若林さん、帰って来るね」
「え?」
「もうすぐ、会えるんだ」
 来生の言葉に、みんなめいめいにうなづいたり微笑んだりして、こっちを 見ている。
「井沢ぁ、泣くなよな、おまえ」
 滝が呆れたように言って、俺の頭をぽんとはたいた。
「泣くのは早いぜ。若林さん、すぐに記憶が戻るとは限らないしさ、戻った としても今度は記憶がなかった時の1年分をすっとばして『あれ、つい、昨 日留守にしただけなのに、大きくなったな、翼』なんて大ボケ言ったりして ……て、て、て…!」
「あれ? 翼、ずいぶん大きくなっちまって、どうしたんだ?」
 滝がぴぃーんと硬直したかと思うと、いきなり目が真ん丸になった。俺の 後ろを、力一杯見つめている。
 俺は、背中に、足音を聞いた。どんな遠くからでもいつも間違いなく聞き 分けた、忘れようとしても忘れられない足音だった。
「何だ? 昨日留守にしたばかりなのに、妙だな。それになんだってこんな にそこらが散らかってるんだ…?」
 翼がすごいスピードで俺の横を突っ走って行った。振り返った時、俺の視 界はもう涙でぐちゃぐちゃだったが、若林さんが驚いたように翼を抱き上げ たところが見えた。
「若林くん」
「え、ミサキ…?」
 ヤクルトおばさんが立っているのに気づいて、若林さんは怪訝な顔をし た。察するに、若林さんにとってはこの姿のほうが初めてなのだろう。
「おまえの家に行くところだったんだ。教授に、あの話はきっぱり…」
「もう、いいんだ」
 ヤクルトおばさんは微笑んだ。
「父さんには、もう手出しはさせない。若林くんはここで、静かに暮らすほ うが似合ってる。昔の教え子まで巻き込むような真似はやめるように言う よ。あの研究はあきらめろって」
 と、父さんだって? ボスが、若林さんの恩師の、あの写真の人で、ヤク ルトおばさんはその愛人じゃなくて、娘ぇ〜?
 俺が口をぱくぱくさせていると、若林さんの腕から降りてきた翼が側に来 て、俺の首にぎゅっとしがみついた。慰めてくれてるつもりかな。
「いやその、あの研究だが」
 二人だけで向き合って、若林さんはきまり悪そうに頭を掻いた。
「ニッタ1号は失敗作なんだ。実用化は無理だと思う。新しい制限酵素は有 効だったんだが、移植してもリガーゼに拒否反応が出て結合しないから…」 「じゃ、DNAポリマーの分解酵素では可溶性になるって?」
 ヤクルトおばさんは若林さんと会話に夢中になっているが、さて、何の話 だかさっぱりだ。しかし、石崎だけははっきりした見解を持っていた。
「あれが失敗作なのは俺だってわかるぜ。あんな凶暴なニワトリ、誰が飼い たがるもんか」
 ケージをにらむ石崎に、オンドリが中からガンを飛ばしてわめいている。 少なくとも石崎には飼い主はつとまらないだろうな。
「ヒュ〜、いい雰囲気じゃん、あの二人」
 若林さんたちを見ながら滝が言った。どこが! あの会話のどこがいい雰 囲気なんだ!
「井沢…」
 翼がイヌ語で俺を呼んだ。しがみついたまま俺の顔を見上げて、にこっと する。
「おかあさん!」
 ああ、あんまりです、神様。若林さんじゃないが、俺の記憶はそこでとぎ れてしまった。みんなの笑い声と、横で滝か誰かが
「いいんじゃないの、もともとほんとにそうだったんだから」
なんて言っているのが聞こえたような気がしたが。










 翼はどんどん大きくなる。どんどん人間に育っていく。人間の言葉もうん と覚えて。
 でもあの1年、翼はほんとにイヌで、俺たちはなんとか人間でいようとが んばった。
 そんな信じられないような奇妙な――苦しい、とはあえて言わない――1 年があったこと、やっぱり俺たちの宝だったな、と俺たちは時々話し合う。 今はイヌ語がわからない翼も、きっと賛成してくれるだろう。



【 終 】





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