かならず振り向くしっぽは短い ・ 7













「爺さん、酔ってただと…!」
 さすがの井沢も絶句した。入れたばかりのコーヒーを、ベッドサイドテーブルにそのまま 置く。
「入院先でも好き勝手に飲み食いしてたんだよね。今日の昼の食事の時もケータリングで届 けさせたワインをかなり飲んだって話だから、まあ足元が危なっかしかったのは無理ないん じゃない?」
 反町は意味ありげに口元を緩めている。
「まあ、いいタイミングで転んでくれるかは運次第だったけど、要はあの料亭で騒ぎになっ て救急車だのパトカーだの集まってくれれば警備の隙も突けると思ったんだ」
「ケータリング業者に手を回したのか。秘書のふりしたニセ電話でもしていつもより強い酒 を届けさせたとか…?」
「――おまえが昨日もらってた名刺、あれ役に立ったよぉ」
 詰め寄る井沢を、枕に顔を埋めながらちらっと見上げる。
「でもさ、おまえだって酔ってたんじゃない? 例えば、ボールと風呂敷包みの区別がつか なくなる程度にさ」
「まあ、それはそうだな」
 反町の笑いを含んだ言葉に井沢も苦笑を返す。
「こんな所に間違ってボールを蹴り込んだのはどこの馬鹿野郎だ、とムカついたもんだか ら、そこに転がってたのを思い切り外に蹴り返したんだが――もしかすると間違えてボール じゃないほうを蹴っちまったかもしれん。さあて、よく覚えていないが…」
「ふーん」
 枕にうつ伏せたまま、反町はくすくすと笑い声を立てた。
「どっちでもいいけどさ、その馬鹿が蹴りこんだボールを、その穴にぴたりと合わせて蹴り 返せるなんて、そっちのほうが馬鹿野郎って気がするなあ、俺は」
 井沢もにやりとした。
「まんまと暗示に乗せられたな。ボールを見たら反射的に蹴らずにいられないような暗示 を、そう言えば昨日、フィールドに戻れだの何だのと悪魔の囁きがあった気がする」
「それは違うね」
 反町は体を半分起こすと手を伸ばし、一つに結んでいる井沢の髪をほどきにかかった。
「悪魔の囁きにちゃんと反応するような『種』を最初から持ってただけさ。おまえの足はし っかり覚えてるんだ、ボールの蹴り方を。あいつに今でも未練があるのと同じにさ」
「なんだと?」
 うるさそうにそんな反町を振り払うが、もちろん懲りるということを知らない相手であ る。ガウンの胸に人差し指を銃のように突きつけてじっと井沢を見上げた。
「未練があるってことは諦めていない証拠だろ。諦めない間は、あいつはおまえと繋がって る。どんなに遠くてもかぼそくても繋がってんだ。おまえは、だから俺を勘違いし続けてな くちゃ。――ま、たま〜にな」
「言ってくれるな、はっきりと」
 ため息と一緒に、何か引っ掛かっていたものがポロッと体から出て行ったような、そんな 感覚だった。思わず井沢の口元が緩みそうになる。
「勘違いのほうが口実かもしれないがな」
「…え?」
 井沢の腕につかまえられて、もう反町はその表情を見ることはできなかった。













 法律事務所はいつもののどかな朝を迎えていた。
「はい、先生。コーヒーをどうぞ」
「ああ、ありがとう」
 出勤してきたと思ったらそのままパソコンに向かってしまった井沢弁護士に不思議そうな 顔をしながら、八鹿さんはコーヒーを運んで来た。
「これだ、例の写真。ネットでゲリラ公開だなんて話だったが、ずいぶんなアクセス数にな ってるんだな」
「朝刊に載ってた、あれですか? 総裁選にからんでの裏工作と不透明資金」
「そう、そして週末に真弓くんが巻き込まれた現場で写された写真でもある」
 クローク、と反町が呼ぶところのネットサービスは、預かった画像データをこうした怪し げな形でネット上に公開するという商売をしているらしい。ローザの店はその仲介をした上 でカメラなどのみ別窓口で受け取るよう手配しているということになる。
 反町の自白は自分のこと以外は実に正直だったようだ。
「でも、本当にひどい話ですよ」
 デートと称して呼び出した真弓さんをあのカメラマンがどんな目に遭わせたか、八鹿さん も聞かされていた。もちろん思い切り憤慨し、そして真弓さんに同情したのだったが。
「――て言うか、ずいぶん大きなスキャンダルに繋がっちゃって私、びっくりです」
 当人のほうがむしろ声が明るかったりする。ドアのほうでしゃがんで何かしきりにごそご そしていた真弓さんはそう言いながら井沢のデスクまで歩いて来た。
「いわゆる裏金工作をしていた帳簿が消えたんでしょう? それを渡すはずだった相手の閣 僚は閣僚で、追及逃れにずっと偽装入院してたのが発覚するなんて。私、すごい現場にいた んですね。――はい、先生」
「うわー、なんだなんだ」
 画面に集中していたところへ、何かほのかに暖かいものが井沢の目の前に突き付けられ る。あわてて手を出し、柔らかな毛の感触に不意を突かれた。
「猫、じゃないか。こんな小さい」
「八鹿さんちの猫が子供を産んだんですよ。可愛いでしょう、先生。貰い手探しに連れて来 たんですって」
 真弓さんは一歩だけ下がって眺め直し、ふふっと笑った。
「思ったより猫が似合いますね、先生」
「どういう意味なんだ、それは。僕はとても猫なんて」
 などと言っている間も仔猫は井沢の手の中でしきりに動いて、ついには胸から肩によじ登 りかける。
「安心してください、先生に押し付けたりしませんから。この子が最後の一匹で、そして引 き取り先も今朝無事に決定しました!」
 このビルの管理人夫婦が快く引き受けてくれることになったのだという。八鹿さんも並ん で笑顔を見せていた。井沢の様子がよほどおかしいらしく、真弓さんと二人、顔を見合わせ てはまた笑いをこらえている。
「頼むよ、真弓くん、早くこれを…」
 仔猫を抱き取って、真弓さんは嬉しそうにほおずりした。
「この子、私と同じ名前に決めたんですって、管理人さんが。若菜ちゃん〜、よしよし」
「やれやれ、驚いた」
 井沢は椅子に座り直して大きく深呼吸する。
「似合っても困るよ。――でも、そうなのかな」
 秘書達に構ってもらっている仔猫にちらっと視線を投げながら、井沢は小さくつぶやいた のだった。



【END】









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