かならず振り向くしっぽは短い ・ 6













 次の夜、同じ新宿区の東の端にあたる、新宿からはずっと離れたとある花街に井沢は現わ れた。
「あっ、先生、どうぞこちらです。お待ちしていました」
 黒塀の陰で待っていたのは、前夜名刺を残していった第一秘書である。
「お忙しいでしょうにさっそくお運びくださってありがとうございます」
「他ならぬご長老のお招きを断るほど私も世間知らずじゃありませんよ。こちらこそお世話 になります」
 黒光りのする長い廊下を抜けて、別棟の一室に案内される。敷地の庭木が特に深く茂っ て、この奥まった場所をさらに人目から守っている。そんな造りになっていた。
「いえ、昨日は思わぬ騒ぎになって大切な会合が流れてしまったわけですので、改めてこち らでということになりました。せっかくですので井沢先生にもご同席を賜りたいと、そう申 しておりました」
「2日も連続で病院を抜けて大丈夫なんですか?」
「はあ、まあそれはもうそういうことですので」
 相変わらずの政界言語を秘書氏は駆使する。
「関原さんは今日のテレビ討論番組に出てらっしゃいましたね。総裁選に名乗りを上げるか どうかは言葉を濁してらしたようですが」
「あの方も同席なさることになっています。井沢先生のお力添えをいただけると聞いて喜ん でらっしゃいました」
「それは光栄です」
 座敷の前まで案内されて来て、井沢はふと顔を上げた。廊下の先に光が漏れているのに気 づいたのだ。
「隣にどなたかいらしているようですが、ひょっとして…」
「はい、その関原さんが来客の方と、この先必要になる諸々について相談をなさってます が、そちらが済み次第合流の手筈になっています。申し訳ありませんがそれまでこちらで何 か召し上がっていていただけますか。お一人にするなど大変失礼なのですが」
 相談などという言葉を使っていても、結論は最初から決まっているのだ。総裁選に討って 出るための資金は、この段階ではごく限られた相手としか交渉できない。なにしろ派閥を離 脱することで党内の勢力図は大きく変化する。互いに手の内は見せることなく出馬まではす べて極秘に進めなくてはならないのだ。
 そういう微妙な事情の中で接触できるのは、かなり長く深い繋がりのある相手か、あるい は相応の見返りを用意している者か。
「…それともその両方か」
「は、何か?」
 井沢が声に出してつぶやいたので、出て行きかけた第一秘書は驚いて振り返った。
「ああ、すみません。考え事をしていたので」
「そうですか? もっと他にご用意するものがあればおっしゃってください。私、失礼して 出迎えに行って参りますので」
「どうかお構いなく」
 どうやら長老がまもなく到着らしい。あわただしく出て行った秘書を見送っておいて、井 沢は一人耳を澄ませた。
「なるほど、景気がよさそうだな」
 隣の座敷からは、聞き覚えのある声が漏れ聞こえてきていた。高笑いの声も時折混じっ て、なかなか座は盛り上がっているようだ。
「反町の情報では今夜この場に持ち込まれているはずだが、さてどうやって持ち出すって言 うんだ? 警備は厳重だし、まさか俺に持ち出させるつもりか? 冗談じゃないぞ」
 そう心の中でつぶやきながら立ち上がり、障子に手をかける。開いた途端、幾人かの人影 が彼の視界で動いた。SP達が、この離れを厳重に守っているのだ。それを目の当たりにして 感心しつつ、井沢は一瞬のうちに庭を鋭く観察する。
 よく手入れされた石庭が闇の中に静かに広がっていた。離れの三方は高い植木に視界をさ えぎられているが、南に向いたこの方角は庭の奥行きそのまま黒塀に達している。さっき坂 を上がって来た時に確認した通り、その塀の外はすぐ神田川、その対岸はちょうど小さい公 園になっていて間に邪魔する建物もなく、なかなか眺望もよいようだ。今はただの夜景でし かないが。
「ああ。手洗いはこっちでいいのかな」
 目が合ったSPの一人にそう声をかけ、怪しまれないうちにその場は離れる。
「しかしあいつ、何のつもりだったんだ、あんなことを言い出したりして」
 井沢は今朝のことを思い出していた。
『ずいぶん遠いな。ざっと見て、センターサークルからゴールまで、って距離か』
 今朝早く、下見と称して二人は向こう岸の公園側からこの料亭を観察したのだったが、そ の時も反町はその言葉の意味を説明しようとはしなかった。
『井沢の役目は、関原のマークだけだから』
という指示を一つしただけで。
 その時に確認できたのは、外部から忍び込むのはまず不可能、ということだけである。他 にどういう手段をとるつもりなのか。
『俺は写真の商品価値、おまえは証拠物件を握ることで裏の力関係を強化できる。な、こう いう山分けでどう?』
 とんでもない錬金術もあったものである。
「おお、これはこれは」
 井沢が渡り廊下から座敷に戻ってきたところへ、その関原氏とばったり顔を合わせた。連 れの男は事情を心得たように会釈だけして仲居と共に歩み去る。「相談相手」の某ゼネコン の取締役だと、あらかじめ調べはついているのだが、関原はもうそちらには目もくれずに、 最初から連れなどいなかったかのように近づいて来た。
「本当にいらしてくださったんですね、有り難いです」
「いえ、私の力ではどこまでお役に立てるか心許ないですが、よろしくお願いします」
「そんなご謙遜を。――ああ、すまないが私もこちらの部屋に移るから、私の持ち物を頼む よ。重いほうのは残したままでいい」
 片付けに来たらしい別の二人の仲居に声を掛けておいて、関原は井沢と一緒に手前の座敷 に入った。
「昨夜は私のせいで先生にもご面倒を掛けてしまったそうですな。申し訳ない」
 見るからに野心家のエネルギーをその脂ぎった額のあたりに滲ませながら、関原はいきな りそう切り出した。
 余程気になっていたらしいな。
 井沢はそう踏みながら、顔には出さずに関原と杯を交わす。
「いや、先生のせいだなどととんでもないです。うちの女性秘書がプライベートでたまたま あの場に居合わせて、それで巻き込まれたらしいんですよ。騒ぎになっていると連絡があっ て駆けつけたのはいいのですが、その怪しげなカメラマンはすべてうちの秘書に押し付けて 逃げた後で。事情がわからず参りましたよ」
「ほう、そういうことですか。なるほど」
 安心半分、しかし不安もたっぷりと残しながら関原はうなづいた。彼にとっての最大の関 心事がまだ解決していないのだ。
「で、その問題の写真というかフィルムというのはどうなっておるんですか。井沢先生がお 持ちだという話もあったようですが」
「それで迷惑したんですよ。ただうちの秘書の話から確認してみたところ、フィルムはカメ ラの中にそのまま残されていました。今日ここに持参していますので、大臣ご本人の判断を 仰いでから処分なりするつもりです」
「それは、よかった」
 関原が今度こそ安堵のため息をついた時、障子が突然開いた。青い顔をした第一秘書が息 を切らせて飛び込んで来たのだ。
「どうしたんだね、先生は?」
「大変です、今そこでお倒れになって…!」
「なんだって!」
 不意を突かれて一瞬固まった後、二人とも飛び上がるように席を立った。この料亭の玄関 先だというので皆で駆け出す。SP達もその大半が後に続いた。
「救急車は呼びましたね?」
 女将らしき年配の女性が従業員達にてきぱきと指示を出していた。井沢がそう声をかける と、女将はしっかりとうなづいた。
「意識はおありですが、頭を打ってらっしゃるといけないのでまだ動かさないほうがいいと 思います」
 秘書達のほうがむしろ動揺が大きいようだ。
「先生! わかりますか、関原です。大丈夫ですか?」
 玄関のやや薄暗い軒先をくぐった敷石のたたきの上に長老はへたり込んでいた。そこに飛 び下りるようにして関原が覗き込む。
「――ああ、いや…、大丈夫だ、うん」
 自分ではそう応じているが、言葉がどこかおぼつかない。循環器系の発作も疑われた。皮 肉なことに前年以来の仮病が現実になったとも言える。
「救急車はまだか!」
 秘書の一人がSP達に怒鳴っている。道路に出て様子を窺っていた誰かが、サイレンだ、と 叫んだ。
 停車すると同時に救急隊員がばらばらと降りて来る。一同がそれに気を取られたその時 に、別の異変が起きた。
「何だ、今の音は! 奥のほうだな、離れか…?」
「私が行きます」
 従業員の幾人かを除けば、下に降りていない者は井沢だけだった。顔色を変えて振り返っ た関原にとりあえずそれだけ言うと、井沢はさっきの座敷に走った。
 勢い込んで障子を開けた彼の目に飛び込んできた物、それは――。
「サッカーボール!?」
 そう、座敷の真ん中、その畳の上にサッカーボールが一つごろんと転がっているのだ。そ してその向こうの窓には、見事に割れたガラスがぱっくりと丸く闇に向かって開いている。 井沢はその瞬間に反町の言葉の意味を理解した。
 同じく走って来たSP、そして店の従業員が井沢に遅れること約10秒。そのわずかな時間 にすべてが決した。
「なんてことさせやがる、あいつは!」
 ボールまで2秒の助走。そして井沢の右足が大きく振り切られた。
「どうしました!?」
 まず顔を出したのがSPの男達、続いて髪を振り乱した関原代議士だった。共に、部屋の惨 状に呆然とする。
「誰か押し入ったのか! それとも…狙撃!?」
「あっ!」
 関原はがくんと顎を落とした。
「金――無事か、金は! 隣に置いてあったんだ!」
 ばたばたと一人で隣の座敷に走り、しばらくしてからそっと戻って来た。両腕にしっかり と小型スーツケースを抱えている。
「関原先生?」
「無事だった。よかった。中も、きっちり2億揃ってる」
「そうなんですか?」
 少々呆れて井沢がそう言った時、窓を調べていたSPが振り向いてサッカーボールとガラス の割れた跡を見比べた。
「何者かがこのサッカーボールを蹴り込んだようです。先生、外に誰か人影でも見ませんで したか?」
「いや、私が駆け付けたらもうこの有様で…」
 SPの質問に首をひねってみせる井沢であった。
「悪戯にしては性質が悪いですね、それにしてもガラスを割るなんて。関原さん、何か他に 異状はないですか、そのお金以外に?」
「――あ!」
 ガタン、とスーツケースが畳の上に落ちた。その場の者たちが驚いている前で、関原は今 度はがっくりと膝をついた。
「ない、私の荷物が…。こっちの部屋に置いていたんだ」
 おろおろと視線を泳がせる関原に、ボールを前にしたSPと井沢が顔を見合わせる。
「お荷物というのは、仲居が隣から運んで来ていたあの風呂敷包みですか?」
 SPが尋ねた。さすがはプロ、部屋の外に控えていてもここまでの状況はきちんと把握して いる。井沢も口を開いた。
「そう言えばお席の横にあった包みがないですね。関原さん、失礼ですがその包み、何が入 っていたんですか?」
「……」
 井沢に問い掛けられても、放心状態の関原はその場に座り込んでただ首を振るばかりだっ た。
 救急車が長老を搬送して行った後、通報で駆けつけた警察を交えて徹底的に探したが、荷 物はやはりどこにも見つからなかった。飛び込んで来たボール以外、侵入者があった形跡は なく、関原自身、井沢、従業員達そしてSPに至るまでとにかくこの場にいた人間全員の身体 検査も行なわれたがこれも徒労に終わった。
「鑑識が割れたガラスを調べましたが、人の手が加わった形跡は一切ありません。もちろん 指紋も。ガラスの破片は室内に大半が、外にも少々落ちていましたが、それ以外の残留物は 発見されませんでした」
 警視庁捜査3課の警部は、部下の報告を受けてから少し声を低めて質問した。
「そうか、それで代議士のほうは…?」
「それが、消えた荷物については一切話してくれないので弱ってるんです。調書も取れない ので」
「近所の目撃者がさっきの救急車で運ばれた人間を見ていたそうだな。驚いたことにあの人 物だったとか?」
「そうなんです。入院しているはずのあの人物がここに来ていたというのは――」
「うむ。あの2億の現金といい、ただではすまないな。これは捜査2課にも連絡することに なりそうだな」
 窃盗事件を扱う3課に対し、1課は傷害・殺人など、そして2課は詐欺、汚職、背任など を扱う。井沢にはもちろん予想できた結末であった。









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