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次の夜、同じ新宿区の東の端にあたる、新宿からはずっと離れたとある花街に井沢は現わ
れた。
「あっ、先生、どうぞこちらです。お待ちしていました」
黒塀の陰で待っていたのは、前夜名刺を残していった第一秘書である。
「お忙しいでしょうにさっそくお運びくださってありがとうございます」
「他ならぬご長老のお招きを断るほど私も世間知らずじゃありませんよ。こちらこそお世話
になります」
黒光りのする長い廊下を抜けて、別棟の一室に案内される。敷地の庭木が特に深く茂っ
て、この奥まった場所をさらに人目から守っている。そんな造りになっていた。
「いえ、昨日は思わぬ騒ぎになって大切な会合が流れてしまったわけですので、改めてこち
らでということになりました。せっかくですので井沢先生にもご同席を賜りたいと、そう申
しておりました」
「2日も連続で病院を抜けて大丈夫なんですか?」
「はあ、まあそれはもうそういうことですので」
相変わらずの政界言語を秘書氏は駆使する。
「関原さんは今日のテレビ討論番組に出てらっしゃいましたね。総裁選に名乗りを上げるか
どうかは言葉を濁してらしたようですが」
「あの方も同席なさることになっています。井沢先生のお力添えをいただけると聞いて喜ん
でらっしゃいました」
「それは光栄です」
座敷の前まで案内されて来て、井沢はふと顔を上げた。廊下の先に光が漏れているのに気
づいたのだ。
「隣にどなたかいらしているようですが、ひょっとして…」
「はい、その関原さんが来客の方と、この先必要になる諸々について相談をなさってます
が、そちらが済み次第合流の手筈になっています。申し訳ありませんがそれまでこちらで何
か召し上がっていていただけますか。お一人にするなど大変失礼なのですが」
相談などという言葉を使っていても、結論は最初から決まっているのだ。総裁選に討って
出るための資金は、この段階ではごく限られた相手としか交渉できない。なにしろ派閥を離
脱することで党内の勢力図は大きく変化する。互いに手の内は見せることなく出馬まではす
べて極秘に進めなくてはならないのだ。
そういう微妙な事情の中で接触できるのは、かなり長く深い繋がりのある相手か、あるい
は相応の見返りを用意している者か。
「…それともその両方か」
「は、何か?」
井沢が声に出してつぶやいたので、出て行きかけた第一秘書は驚いて振り返った。
「ああ、すみません。考え事をしていたので」
「そうですか? もっと他にご用意するものがあればおっしゃってください。私、失礼して
出迎えに行って参りますので」
「どうかお構いなく」
どうやら長老がまもなく到着らしい。あわただしく出て行った秘書を見送っておいて、井
沢は一人耳を澄ませた。
「なるほど、景気がよさそうだな」
隣の座敷からは、聞き覚えのある声が漏れ聞こえてきていた。高笑いの声も時折混じっ
て、なかなか座は盛り上がっているようだ。
「反町の情報では今夜この場に持ち込まれているはずだが、さてどうやって持ち出すって言
うんだ? 警備は厳重だし、まさか俺に持ち出させるつもりか? 冗談じゃないぞ」
そう心の中でつぶやきながら立ち上がり、障子に手をかける。開いた途端、幾人かの人影
が彼の視界で動いた。SP達が、この離れを厳重に守っているのだ。それを目の当たりにして
感心しつつ、井沢は一瞬のうちに庭を鋭く観察する。
よく手入れされた石庭が闇の中に静かに広がっていた。離れの三方は高い植木に視界をさ
えぎられているが、南に向いたこの方角は庭の奥行きそのまま黒塀に達している。さっき坂
を上がって来た時に確認した通り、その塀の外はすぐ神田川、その対岸はちょうど小さい公
園になっていて間に邪魔する建物もなく、なかなか眺望もよいようだ。今はただの夜景でし
かないが。
「ああ。手洗いはこっちでいいのかな」
目が合ったSPの一人にそう声をかけ、怪しまれないうちにその場は離れる。
「しかしあいつ、何のつもりだったんだ、あんなことを言い出したりして」
井沢は今朝のことを思い出していた。
『ずいぶん遠いな。ざっと見て、センターサークルからゴールまで、って距離か』
今朝早く、下見と称して二人は向こう岸の公園側からこの料亭を観察したのだったが、そ
の時も反町はその言葉の意味を説明しようとはしなかった。
『井沢の役目は、関原のマークだけだから』
という指示を一つしただけで。
その時に確認できたのは、外部から忍び込むのはまず不可能、ということだけである。他
にどういう手段をとるつもりなのか。
『俺は写真の商品価値、おまえは証拠物件を握ることで裏の力関係を強化できる。な、こう
いう山分けでどう?』
とんでもない錬金術もあったものである。
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