かならず振り向くしっぽは短い ・ 5













 新宿駅のロータリーを見下ろす吹き抜けをゆっくりと降下して、エレベーターは1階に着 いた。扉が開いたそこには、さっき電話で聞いた通り、数人の男たちが待ち構えていた。
「ああ、井沢先生ですね!」
 地味なスーツに身を固めた彼らは、もうずいぶん待っていたのか、井沢を見てほっとした 表情で走り寄ってきた。
「先程はどうも――」
「何ですか、一体」
 素っ気なく応じておいて井沢は半分眠りながらなんとか歩いている真弓さんを支えてエン トランスに出て来た。男たちの視線がその真弓さんに一斉に注がれる。
「実は先生がお持ちの写真とその女性の件でお願いが――」
「ああ、ちょっと待っていただけますか。連れをタクシーに乗せたいので」
 呼ばれたタクシーは既にビルの前で待っていた。男たちはそれを振り返ってあわてる。
「あっ、ですから、その方にもお話を伺わないと…」
「ごらんの通り、話ができる状態じゃないので失礼」
 井沢は必死な様子で食い下がる男を無視してタクシーに近づいた。
「こちらの住所までお願いします」
 真弓さんを後部座席に座らせてから、運転手にメモと料金を渡す。その声に真弓さんがぼ ーっと目を開いた。
「――あ、先生?」
「大丈夫だよ、真弓くん。お宅には電話をしておいたから、このまま乗って行きなさい」
「その人たちは…?」
 窓の外から自分に注目しているたくさんの視線に、彼女も不審に思ったらしい。
「仕事の話だよ。じゃあ、おやすみ」
「あっ…!」
 と追いすがりかけた男たちをその場に残して、タクシーは構わず走り去る。
「あのう、先生、写真は返していただけるんでしょうか」
 この状況にあせったのか、いきなり単刀直入な問いになった。井沢はここでようやく男た ちに向き直る。
「どうもお話がわかりかねますが、さっきから」
「今は公開されては困ることなので、できればしばらく先生の胸に収めていただきたい」
「…とおっしゃっている方があるわけですか?」
 井沢はあくまで穏やかなポーカーフェイスを崩さなかった。逆に相手の男のほうがぐっと 詰まる。
「どこから私の名前が出てきたのかわかりませんが、私はその写真とは一切関わりはありま せんよ。うちの秘書がその場に居合わせたのは単なる偶然だと思いますが」
「――そ、そうですか」
 その一団の代表者と思われる初老の男は当惑した様子で仲間をちらっと振り返った。
「それはつまり知らないことにしていただけると考えていいわけですね」
「どうお取りになるかはご自由ですよ。どなたかは知りませんが」
 井沢としては突き放したつもりだったが、相手はどうやら一方的に安心したようだった。 順序がまったく逆だが、別れ際にあたふたと名刺を押し付ける。
「失礼しました。また後日直接ご挨拶する機会を整えますので、どうかよろしくお願いしま す」
「ほんと意味不明だよねえ」
 丁寧に頭を下げて男たちがぞろぞろと去って行った後、自分に掛けられたその声に井沢は 向き直った。
 エレベーターホールの柱の陰の死角にその人影は現われる。
「あれが政治家さんたちの文法ってわけ? ああいう世界に住んでると、俺たち一般庶民の 日本語とは別モノになっちまうのかね」
「おまえはな…」
 その顔を、井沢は呆れたように眺めた。
「ずいぶんマメな働きっぷりじゃないか。俺を完全にカヤの外にして」
「寂しかった?」
 懲りるということを知らない笑顔に、井沢は自分なりの対抗手段を取った。問答無用で詰 め寄ってそのままエレベーターに反町を押し込んだのだ。
「いてて、もうちょっと愛を込めて頼めないかなあ」
「込める甲斐もない奴が何を言う」
 エレベーターはさっきの店の階も過ぎてぐんぐんと上がっていく。
「事情聴取を始めようか」
「へえ、井沢、いつから検察に転職したわけ?」
 片手で壁に押し付けておいて、井沢は冷たく相手を眺めた。軽口には耳を貸さず、いきな り本題に入る。
「俺をあそこにおびき出すのが目的だったんだな。真弓くんを囮なんかに使って」
「そだよ」
 まったく悪びれずに反町は即答した。
「だって、それくらいしなくちゃおまえは素直に協力してくれそうにないんだもん」
「なら訊くが、わざわざ彼女を歌舞伎町じゅう連れ回したのはどういうわけだ。散歩の犬み たいにマーキングして回っただろう。あれはアリバイのつもりか」
「女の子にはちょっとハードなクロスカントリーだったかもな。でも、さすがはおまえんと この秘書だけあって、鋭いっつーか、タフっつーか、よくがんばってくれたよ。また借りを 作っちゃったけどね」
 すらすらと答えるのはいいのだが、要点が都合よくズレていくのは、やはりわざとだろう か。
 井沢はつかんだ襟元にぎゅっと力を入れた。
「関原が新宿コマに来ていたのはニュースでも言ってたが、おまえは最初から別口を狙って ただろう。あそこで関原は誰と一緒だったんだ。歌謡ショーを隠れ蓑に密かに会っていたの は」
「激写、ってね」
 その体勢でも、反町はにやっと笑ってみせる。
「連立与党の長老さんだよ。関原と会ってたのを知られたくないだけじゃなくてさ、そいつ 自身がそこにいるはずないから、あんなにあわてたってわけ」
「入院中の――」
 井沢は空いた片手でさっきの男たちに渡された名刺を取り出した。肩書きは書かれていな い。個人名だけの名刺。
「そうか、関原のバックにはあの爺さんがいたのか。それなら派閥離脱を考えたのも無理は ないな」
「総理になりたい奴と、それを裏から好きに動かしたい奴と、ま、利害が一致したってわけ だな」
 数年前のある大手銀行の不正融資事件の中でその名前がほのめかされた途端に持病悪化と かで緊急入院してしまった老閣僚がいた。
「さっきのがその第一秘書さんのはずだよ。俺を追いかけてたのはお抱えSPがその場で調達 したチンピラだったけどね。さすがに社会的地位の差が出るねえ、ははは」
「――それは置いておくとして」
 自分の領域はあくまで守る姿勢を崩さない井沢である。
「最後の問題はおまえの動機だ」
「そう?」
 笑顔はそのままで、反町の肩がぴくりと緊張した。
「畑違いだよな、明らかに。金が目当てとも思えない。わざわざ俺を巻き込む理由は何だ」 「…黙秘」
 じりっと体を引こうとしたのと、井沢がさらに詰め寄るのとが同時になった。
「なんてことが通じると思うなよ、俺に」
「だよね、やっぱり」
 井沢の厳しい顔をどアップで見ながら、反町は力なく笑った。
「金目当てに、なるかどうかはおまえに係ってんだ。おまえのお得意の、錬金術に」
「人聞きの悪い」
 表向きは民事専門で中小企業などを顧客にしている平凡な弁護士、その裏の顔は政界財界 に張り巡らせた闇ルートを存分に駆使して表沙汰にはできない種類の依頼を冷徹にこなす男 である。専門職として法律を正当に行使すると同様にその抜け道も利用する。たった一枚の 書類を操作するだけで億単位の金が動くような世界が彼の仕事場というわけだった。
「俺は危険な道は通らない。おまえとは逆にな。それに俺が扱う金はただの数字だ。こちら の決済、向こうの不動産評価額、どれも現実の金じゃない。わかるな」
「わかる」
 襟首を締め上げられたままの反町はかすれ声で答えた。
「つまりおまえの生きてる世界は、金さえ現実のものじゃないような場所だってことだろ。 なにしろ女の子一人助けるのにバッジにもの言わせるんだから」
「…何が言いたい」
 エレベーター内の壁に背中をつけたままの体勢で、反町はまっすぐな視線を返してきた。 「走ればいいじゃん。邪魔なやつは蹴散らせばいいじゃん、昔みたいに。――でもって、欲 しいものは力づくで奪いに行けばいいじゃん」
 井沢も同じようにまっすぐに睨み下ろした。
「俺はもうフィールドにいるわけじゃない。運とカンで走り回ることはやめたんだ。頭脳と 権力。これだって自分で手に入れた自分の武器だ。使うべき場で最大限に使う――当然だろ う」
「知ってる」
 反町の顔に不思議なものが浮かんだように見えた。
「おまえはフィールドを捨てた。でも忘れてはいない。あそこに、知らない間に何か忘れ物 をして、そいつがいつもおまえを呼んでるんだ。何も聞こえないような顔で毎日生きてるお まえに、それを思い出させるのが俺の役目だ。おまえにとっちゃ、悪魔の使いってとこだろ うな、どうせ」
 エレベーターが止まり、扉が開いた。最上階のしんとした空気が二人を迎える。
「――時々なら、俺はその悪魔の囁きにまんまと乗せられてるがな」
 ずっと押さえつけていた手を緩めて、井沢は廊下の先をじっと見透かした。そうして反町 を投げ出すようにしてエレベーターから下ろす。
「なっ、何すんだよ」
 赤くなった首筋を撫でながら、反町はくるっと反転して向き直った。再び閉まったエレベ ーターを背にして、井沢はふっと目を細める。
「言い忘れてたが、ここにも俺の部屋が用意してあるんだ。事情聴取の続きはそこでやらせ てもらうぞ、じっくりと」
「…う」
 井沢に腕を取られて反町は引きずられるように連行されていく。
「まずはカメラの行方を吐いてもらうか。俺が持っているとふれ回ったのはおまえだ。責任 を取れよ」
 井沢は真弓さんから預かった鍵を反町の鼻先で揺らして見せた。
「こいつが錬金術の元になるんだろう? 写真の出来次第かもしれないが」
「あーあ、錬金術師と悪魔の手先の対決かぁ。ま、簡単には決着つかないと思うけど」
「ちなみに山分けは期待するなよ」
「そんなぁ!」
 新宿の夜はまだまだ長かった。









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