かならず振り向くしっぽは短い ・ 4









「やば!」
 が、逆にテンションを上げた反町は、ジョッキを置いていきなりぱっと立ち上がった。
「な、なんですか?」
「追いつかれちゃったみたいだ。じゃ、俺行くわ。――君はもう少しここにいたほうがいい よ!」
「ちょ、ちょっと!」
 捨て台詞と共に颯爽と立ち去る計画だった真弓さんは、逆に自分のほうが取り残されてし まった。一瞬、後を追おうと思いかけたがその真弓さんの動きがぴくっと止まる。少し身を 乗り出すとフロアの横手から乱暴な怒鳴り声が響き、何やらドタドタとした足音や壁を蹴る ような音までしている。必死になだめる声もそこに加わって来て、これはどうやら店のスタ ッフらしい。
「まんまと逃げちゃったのね、あの人。ほんとにもう…」
 まともな稼業とはとうてい思えない。あまりにも自分のいる世界と違うことを噛み締めな がら真弓さんはしばらく騒ぎが治まるのを待つことに決めた。
 争う声はまもなく聞こえなくなったものの、あわただしく人が動く気配はなかなか消えな かった。
 ステージではそんな騒ぎの間も特に動揺する様子もなく相変わらずのやる気のあるような ないようなショーが続いている。
「もう大丈夫かしら…」
 そう言えば時間も気になる。終電も近いし、いつまでもこんな危なっかしい所に居続けた くはなかった。
 身を沈めていたソファーから立ち上がり、目立たないように通路に向かった。
「ちょっとあんた」
 出口のところの薄暗いレジカウンターで呼び止められて、真弓さんはびっくりして足を止 める。そこにいたのはタイトなドレス姿の背の高い女性だった。何やら険悪な雰囲気が漂 う。
「さっき反町っちゃんと一緒だったの、あんた?」
「えっ、は、はい。あの、お会計ですか?」
 睨みつけられて、条件反射でびくついてしまう。
「違うわよ。どうせあの人はツケなんだから。そうじゃなくて、どういう関係か聞いてん の」
「そのー、関係とかそういうのじゃなくて、私、勤め先の用事で会っただけなんです。なん かその前にトラブルか何かでここに隠れてたんですけど」
「…ふうん?」
 女は疑わしげに真弓さんを観察した。
「ビジネスの相手にしてはカタギっぽい気はするけど、置いてけぼりにされるくらいだか ら、たいしたこと、ないわよね」
「はい」
 つられてうなづいたが、よく考えると失礼な言われ方ではないか。ワンテンポ遅れて一人 憤慨する。
「なら教えてあげるけど、正面はまだごたついてるから、左の階段のほうを使ったほうがい いわ。じゃあね」
「ええと、左?」
 店を出てから言われた通りに奥の階段に向かう。なぜか上りしかなく、3階に上がるとい きなりドアがあった。
「あら、ここは…」
 なんとそこはマンガ喫茶になっていた。かなりの数の客が席を占めて静かな熱気の中それ ぞれの世界に没頭している。真弓さんが開いたドアはもちろん業務用のものだったので、エ プロン姿の店員たちも黙って見過ごしてくれている様子だった。
「じゃあ、せっかくなのでこのまま失礼しちゃいますー」
 などと口の中でつぶやきながら真弓さんがマンガ喫茶のドアを開けると。
「よう、お姉ちゃん待ってたよ」
「――!?」
 まさに待ち伏せというかっこうで彼女の前に詰め寄った若い男たちが4、5人、それぞれ に凄みをきかせて行く手を塞ぐ。
「あんたの連れを探してるんだ。どこに行ったか、教えてくんないかなあ」
「えっ、私、し、知りませんけど」
「なわけねえだろ? なあ」
 じりじりと迫って真弓さんを廊下の壁に追い詰める。
「あいつには何かと借りがあってね。今夜も派手にやらかしてくれた礼を言いたいんだ」
「ふ……」
 恐怖のあまり視界が霞んでくる。それなら本人に直接どうぞ、と言いたいのはやまやまだ がとてもそんな余裕はない。
「人違いだよ」
「なに?」
 突然静かな声が響いて、男たちがぱっと振り返った。
「その人は私の連れだ。君たちの探している人とは違うんじゃないかな」
「先生!」
 真弓さんの顔が輝く。まさかと思っていた人物がそこにいたのだ。
 コートを片手に掛け、長めの髪を後ろで束ねて眼鏡の奥から真面目そうな視線をこちらに 向けている。長身ではあるが、威圧感よりもそのどこか野暮ったい雰囲気がまさって、ほの ぼのさえしそうだった。
 しかもこの状況の緊迫度がわかっているのかいないのか、いつもと変わらぬごく落ち着い た態度である。
「てめ、何言ってんだ、俺たちはな…」
「おい」
 今度はこちらに詰め寄ろうとした一人を仲間が引っ張った。
「あのバッジ見ろ、やべえよ」
「――う!」
 彼らの視線が相手の襟元に集まる。そう、弁護士会の身分証明であるひまわりのバッジで ある。
「大丈夫かい、真弓くん」
「た、助かったぁ」
 まさにへなへなと崩れそうになりながら、しかし真弓さんは力ない笑顔で井沢弁護士を見 上げた。男たちはあっという間に姿を消してしまい、彼女のピンチも救われたのだ。
「でもどうして…」
「八鹿くんから連絡をもらったんだ。都庁での会合がちょうど終わったところだったんだ が」
 井沢は安心させるようにうなづいた。
「来てみたらこのビルの前でカメラマンを探しているとか何とか騒いでいたから、もしやと 思ってね」
「ありがとうございます〜」
 真弓さんは頭を下げた。ほっとしてまた涙ぐみそうになる。
「すみません、お手間とらせて。八鹿さんにも心配かけちゃったんですね」
「勇敢なのはいいけれど、君の手に負えるような奴じゃないんだ。今夜のでわかっただろ う?」
「はい…」
 まさにその通りだと、真弓さんは心から反省した。
 けばげばしいネオンと騒音の街路に再び出ると、不安と疑問でいっぱいだったさっきまで が嘘のような安心感を再認識してほっとする。
「なんだかよろよろしてるね。歩けるかい?」
「あ、大丈夫です。これは、そのー、さっき空きっ腹でビールを飲んじゃったんで…」
 しかも大ジョッキで。心の中でそう付け加えて真弓さんは恥ずかしそうに肩をすぼめた。 井沢は目を細めてにっこりする。
「なんだ、そうか。食事なら僕もまだなんだ。すぐタクシーを呼んでもいいけれど、その前 に何か食べてからのほうがよさそうだな」
「あ、はい」
 真弓さんは歩き出しながらショルダーバッグをひょいと肩に掛け直した。その拍子にジャ ケットの左のポケットの中で何か聞きなれない音がした気がする。
「それは?」
 真弓さんがポケットから取り出した物を、振り返った井沢も不思議そうに見つめる。
「あの人、いつの間にこんな所に…。これコインロッカー、みたいなもの?の鍵らしいんで すけど。カメラを預けてましたから…」
「あいつが?」
 一瞬だけ、井沢の目に鋭い光が横切ったのを真弓さんは見たように思った。
「そうか、なら僕が持っていたほうがよさそうだ」
 が、見間違いだったらしい。井沢は穏やかな笑顔でその鍵を受け取って自分のポケットに 入れる。
「じゃ、駅に戻ろう。食事をすれば落ち着くと思うよ。どこか、変な連中の来ないような所 でね」
 ネオンの点滅でも反射したのだろう。真弓さんは一人でそう納得した。










「先生、大丈夫ですか、お連れさま」
 カウンター越しにマスターが声を掛けてきた。会員制のビストロ・バーの店内は、落ち着 いたライティングの下で数組の客がテーブル席で静かに会話を楽しんでいる。なるほど、心 配なのはこの客だけだった。
 そう尋ねられた井沢はちょっと苦笑してみせた。
「そうだなあ、悪いけれどタクシーを呼んでもらえませんか。自宅に送ってあげたほうがよ さそうだ」
「す、すみませぇん…」
 カウンターに突っ伏していた真弓さんがのろのろと起き上がった。緊張から解放された安 心感からか、もともとアルコールに強くなかったのか、食事をしながらワインを1杯口にし ただけで一気に酔いが回ってしまったらしい。
「せっかく連れて来ていただいたのに、私ったら…」
 マスターが差し出した水をごくごくと飲んで、真弓さんはほーっと息をつく。
「でも素敵なお店ですよね、本当に。先生、もしかして彼女といつも来ていらっしゃると か?」
「ははは、まさか。残念ながらいつも仕事がらみの相手とばかりでねえ」
「ですね」
 イタリア人の血が何分の1か入っているという話のマスターは、いかにも残念そうにうな づいた。
「まったく、井沢先生ときたらお仕事上の相手ばかり連れて来るんですから。私もたまには ロマンチックなシチュエーションで腕を奮いたいですよ」
「私なんかで残念でした。全然ロマンチックじゃない腹ペコの秘書見習いで」
 真弓さんは赤い顔のままふくれてみせた。
「いや、そういう意味じゃ…」
「でも先生もダメですよー。もっとがんばらないと」
 どうやらまたからみ上戸に戻ったらしい。井沢とマスターは目で苦笑を交わした。
「先生ね、バリケード作って立て篭もってるわけじゃないんですから、もう昔の彼女のこと とか気にせずにがんがん行かなきゃ」
「な、なんだ、唐突に」
 目を丸くした井沢には構わず、真弓さんはさらに続けた。まさに酒の勢いのなせるわざで あった。
「失恋のショックで女性不信になったなんて言わないでくださいよ。それともまだ忘れられ なくてとか? そうなんですか?」
「困ったなあ、そういうんじゃないんだよ」
 井沢は頭をかいた。酔っぱらい相手に真面目に説明するのも空しい話題だけに。
「先生を振っちゃう人がいるなんて信じられない…」
 水のグラスをコトン、と置いたかと思うと、真弓さんはまたカウンターに沈没した。
「からみ上戸ですねえ、典型的な」
 マスターがそう声を掛けながら近づいて来て、電話を差し出した。
「すみません、どなたかおっしゃらないのですが、今…」
「ははぁ」
 それだけで相手が誰かわかってしまった井沢だった。マスターに表情を見られないように さりげなくスツールを回して声を低める。
「――ずいぶんな真似をしてくれたもんだな」
『彼女、大丈夫? エスコートがんばってね』
 何の反省もなさそうなその声に、井沢は思わず眉を寄せた。
「一般人を巻き込むな、と言ってあったはずだぞ。一体何のつもりで…」
『まあまあ。いいこと教えてあげるからさ。下におまえを待ってるやつらがいるから、井 沢、気をつけたほうがいいよ』
「――おい、それもおまえが…!?」
 電話は既に切れていた。井沢は小さく舌打ちをして振り返る。そこには真弓さんが平和そ うに眠りこけていた。









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