かならず振り向くしっぽは短い ・ 3













 新宿の夜は極彩色だった。特にこの歌舞伎町一帯は、歓楽街などという表現では収まり切 らない圧倒的なパワーをみなぎらせて、ぎらぎらとした喧騒に存在を委ねている。
 どちらを向いてもどの通りを抜けても、ネオンの光と看板の文字、そして音と人声の渦が フルボリュームで押し寄せて来る。
 ここを女一人で歩くのは、真弓さんにとってもかなりの勇気を要することだった。表面的 には単なる異分子の一つとして存在を無視されている形だが、それは単にここまで幸運だっ ただけかもしれない、とビクビクと思い始める。目指す映画館のある一角は、あともう2ブ ロックほど先だった。
『――先生もいつかおっしゃってたでしょ、ろくな男じゃないから関わらないようにって』 『もちろんわかってますよ。ただこのままにしておくと図に乗ってもっとちょっかい出して 来そうだし、ここは直接びしっとクギを刺しておいたほうがいいです、絶対!』
 八鹿さんはもちろん引き止めたのだ。今思えばやっぱり言うことを聞いておけばよかった かもしれない。
 酒が入ったサラリーマンのグループの値踏みするような視線を振り払うように通り過ぎな がら、内心ではそんな弱気な気分になっていた真弓さんだが、探していた映画館の名前を前 方の看板に見つけてようやくほっと肩の力を抜いた。
「ねえねえ、君!」
 そういう瞬間を狙っていたかのようなタイミングで背後から別の声が聞こえた。真弓さん の肩はびくっと固まる。
「君はどこの社のヒト?」
「は、い?」
 振り向くと、スーツ姿の男がそこに立っていた。もちろん見知らぬ顔だったが、相手のほ うはまるで同僚に出会ったかのような親しげな態度で話しかけてくる。
「君のトコでは何かつかんでるわけ? カメラまで連れてるなんて」
「えっ、カメラって?」
 男の視線の先を振り返ろうとした真弓さんは、自分のすぐ背後で別の声がして今度こそ飛 び上がりそうになった。
「東都ですよ」
「ああ、東都さんね。女性の番記者は何かといいネタを持ってるから羨ましいよなあ。で、 誰が来てるわけ? 教えてよ」
「さあ、どうでしょ」
 ぬっと現われた望遠付きのカメラ。それを胸に下げてとぼけているのは、紛れもなくあの 指名手配男だった。肩からもう一台、重そうなカメラを下げて、いかにも取材中というスタ イルを見せつけている。
『――いつ来たんですか!』
『さっきからずっと。君の後ろを歩いてたの、気づかなかった?』
 ひそひそと内緒話に入った二人を見て、話しかけてきた男は別の意味に取ったようだっ た。
「まあいいや。口が固いのは上司の教育のたまものってね。コマ劇場って当たりをつけてき たウチもいい線行ってるってことで。ま、お互いがんばりましょ。じゃ」
「うす!」
 応じた反町に苦笑しつつ手を上げて、男は去って行った。反町と真弓さんが見ていると、 少し離れた所で待っていた別の男と合流して、そのまま新宿コマ劇場の楽屋口方面へ消えて 行く。
「何だったんですか、あの人。何かすご〜く勘違いしてませんでした?」
「いいからいいから。害はないよ。俺の同業者なだけだから。ま、君のおかげで楽しい演出 ができたってわけさ」
 井沢法律事務所では要注意人物指定を受けているこの自称フリーカメラマンの反町一樹 は、改めて真弓さんに向き直りながら今夜もとびきり陽気な笑顔を見せた。
「あなたって新聞社の人だったんですか?」
「いや?」
「だってさっき東都新聞って…」
「ああ、取ってる新聞が東都なだけ。俺は社員だなんて一言も言わなかったもんね」
「サギ〜!!」
 抗議する真弓さんにも動じる様子はなく、反町はカメラを肩から下ろしてズームレンズを 取り替えた。
「君のその格好も誤解の元だったんじゃない? デートだってのにまるで弁護士の秘書みた いなお堅いスーツでさ」
「誰がデート! それに、みたい…じゃなくて本物です、一応! 第一仕事帰りなんだから 仕方ないじゃないですか!」
「ごめんねー、ちょっと計画がうまくいきすぎてそのデートもゆっくりしてられないみたい なんだ」
 だからデートのつもりなんかないんだって…と言い返そうとした真弓さんは、反町にいき なり手を引っ張られて走り出す羽目になった。
「な、何がどうしたんですか!?」
「しっ、取材開始だよ」
「はぁ?」
 新宿コマ劇場。レトロとも言うべき正面の看板には時代劇の華やかな衣装が躍り、ベテラ ン演歌歌手の名前がその中心に大きく書かれている。
 が、テーマは芸能ではなかった。
 劇場の裏側へぐるりと回ると、そこには既に小さな人だかりができていた。さっき話をし た男の顔もある。彼らの緊張した視線は楽屋口に通じる車寄せに向けられていた。
「来るぞ」
 ささやき声が広がって波となる。人垣の先頭でフラッシュが一つ閃いたその瞬間、次々と 引火するようにフラッシュが重なって真弓さんは思わず目を細めた。
 黒服のSPに守られてベンツに乗り込む人物の顔がしかしその一瞬に照らし出されるのを、 真弓さんも見た。
 反町は他のカメラからワンテンポずれる形で数回シャッターを切ってから、しばらくじっ と動かなかった。不思議そうに真弓さんが振り仰ぐ。
「あの、もしかしてあの人は…」
「そう、与党のニューリーダー関原敏士。なんと琴野みやこの大ファンで公演には必ず足を 運ぶので有名なんだ。カラオケじゃいつも彼女の『片恋結び』を熱唱するって話だよ」
 なんでそんな大物政治家がここに、と言いたげな顔の真弓さんに説明する。ちょっと想像 したくない類いの裏話は置いておくとして、疑問はその先にあった。
「でもそれって単なるプライベートじゃないですか。これがニュースになるわけでもないの に、なんでみんな目の色変えてるんです?」
「別口の噂のせいさ。最大派閥から抜けて新しい勢力を作る準備に入っているってね。もち ろん次の総裁選に向けてだよ。彼としてはとりあえずその噂を否定しておきたいんだろ。と りあえず今はね」
「え? それが舞台を見に来るのと関係あるんですか?」
「あるある。琴野みやこのダンナが財界人でしかも現首相と同郷」
「……」
 政界の複雑怪奇な――それとも逆に呆れるほど単純なからくりに、一般国民として絶句し た真弓さんは正しい。
 ベンツが目の前を過ぎるのにつられて真弓さんが視線を左から右に動かしかけたその時、 背後でフラッシュが光った。驚いて振り返ると、まったく逆方向にカメラを向けていた反町 がさっとそのカメラを下ろした。
「あの?」
「――行こ!」
 いきなり叫んだ反町の、その前にぬっと立ち塞がる人影があった。
「おい、今のは余分だったな。フィルムは没収させてもらうぞ」
 さっきのSPの一人と思われる黒服の大男が、厳しい目で反町を睨み下ろしていた。
「また今度ね!」
 もちろん喜んで没収される気などない反町である。方向転換して再び真弓さんの手を引っ 張った。
「また駆け足〜?」
 真弓さんの都合はまったく無視された状況だった。革のパンプスでそんなに走り回れるわ けはないのだ。
「もう、嫌!」
「ダメ? じゃあ、こっちにしよう」
 行き過ぎかけた路地に駆け込んで、いくつも並ぶ小さな飲み屋ののれんの一つを跳ね上げ る。カウンターを拭いていた若い店員が目を丸くしたが、しかし騒ぐでもなく親方の顔を見 る。親方は黙ったまま、あごで小さく厨房の奥を示した。
 反町も何も言わず、しかしニヤッと笑顔を向けてから厨房に飛び込み、そこの勝手口から 別の路地に飛び出す。
 飛び出したそこには東南アジア系の男が3人ほど立ち話をしていたが、反町と真弓さんの 姿を見て愛想良く手招きをした。
「アッチは工事中。ローザの店がイイよ」
「サンキュ」
 男たちの背後へすり抜けるようにその雑居ビルに入り、薄汚れた廊下をくねくねと進む。 真弓さんは呆然としつつただひたすらついて行くしかない。
「なんなの、あの人たち。工事中って?」
「ケイサツの手入れがあるって意味だよ。ギャンブル関係の店にはしょっちゅうだから、彼 ら、とばっちりを食わないように避難してるってわけ。ビザなし就労だからね」
「はあぁ?」
 階段を上がってそこにあったのは、すりガラスをはめたドアだった。カラフルな手描きの 飾り文字で『ROSA'S EXPRESS SERVICE』と描かれている。
「宅配便? にしては様子が変、かなあ?」
「その一種だけどね」
 ノックはしたが返事も待たずにドアを開ける。
「あらぁ、ソリちゃん? どうしたの、珍しいタイプの子、連れて」
 大袈裟に両手を広げたのは、浮世絵から抜け出て来たかのような純和風の顔の男だった。 ピンストライプのスーツを着て、じゃらじゃらと賑やかなストラップを付けた携帯電話を振 り回している。
「クロークサービス、明日の昼までって、頼める?」
「いいわよぉ、どうせソリちゃんのことだから、食い逃げするつもりでしょ。鍵は渡さない ほうがよさそうねえ」
「信用ないなあ、俺も。当たってるけどさ」
 どう見ても顔と名前のイメージがちぐはぐなローザさんは、反町が差し出したカメラ2台 を受け取ってふふっと含み笑いをした。
「この業界、信用ないのが勲章(ねうち)なのよ」
「そりゃ嬉しい評価をいただきまして」
 反町も鍵を受け取るとそれをひらひらと振ってみせた。
「――それ、何の鍵なんですか?」
 再び廊下に出てから真弓さんがそっと尋ねる。とてもじゃないが、あの場で口をはさむ勇 気はなかったのだ。
「これは宅配じゃなく、コインロッカー代わり。今カメラ持ってると何かと危ないから。第 一走るのにジャマだしさ」
「あのー、まだ逃げるんですか? 私…」
 真弓さんは足を止めてため息をついた。二人の視線がその足に落ちる。
「ああ、痛いのかぁ。無理ないよね、あんなに走らせたんじゃ。まだちょっと危なっかしい けどとりあえず下に行くか」
 同じビルの1階に戻り、通用口らしいドアからさらに地下に向かう。段ボールを運んでい たおばちゃんが、早いわね、などと声をかけたりして、どうやらここも反町の顔が利くエリ アらしかった。
「『個室』…? って、ちょっとこれ!?」
 反町の後について店内に入ってから真弓さんの顔が引きつった。
「このほうが安全だからね。なーに悪いコトに使うだけの場所じゃないから安心して。いい コトに使ってもいいんだから」
「……」
 反対語が同じものを指す珍しい用例かもしれなかったが、真弓さんはとにかく無視するこ とにした。休むのがとにかく優先だ。
「まずは飲み物頼もうね。あ、もっとほんとの個室がよかった?」
「これで結構です!」
 ソファーに腰を下ろして、真弓さんは緊張したまま周囲をそっと観察した。休むために来 たはずだが、これでくつろげと言われても難しい。フロアの壁際に並ぶテーブルごとにカー テンで仕切ってあるのだが、正面だけはオープンで、小さなステージで肌を露出させた女性 たちがバタバタと歌だかレビューだかを繰り広げているのを見下ろせるようになっていた。 「ぷはーっ!」
 大ジョッキのビールを流し込んで満足げに息を吐いた反町をちらりと横目で見てから、真 弓さんもジョッキに口をつけた。ああは言ったが彼女だってもちろん喉がカラカラだったの だ。自分でも驚くほど一気に減らしてしまう。
「おっ、豪快だね! ささ、もっと行って」
「…信じられない」
 井沢弁護士の忠告はまさに正しかった。いや、それを上回るひどさだと改めて感動すらし そうになる。真弓さんは深くため息をついた。
「え、何が?」
「あなたです!」
 真弓さんは両手に持ったジョッキに目を留めたままきっぱりと言った。
「こういう世界で顔が利いて、逃げ回らなくちゃいけないような仕事をして…。でもって一 番信じられないのが、それを楽しんでるってことです!」
 反町の目が嬉しそうに光った。
「ふうん、君ってなかなか人を見る目があるねえ。さすがは職業柄かな? それとも井沢の 教育?」
「誉めてませんよ」
「うんうん。で、井沢は元気?」
 話題がくるくるとかわされるので、怒りを向ける矛先がその度に狂わされている気がす る。また誘導尋問並みの巧みなフェイント会話なだけに。
「元気ですけど、元気じゃありません。あなたには教えないけど」
 こと井沢弁護士のこととなるとつい乗せられてしまうあたり、職務熱心の表われかもしれ ない。
「そりゃいかにもあいつらしいな。て言うか、的確な表現だよ。自分にも他人にも本音は見 せない奴だもんな」
「あのっ」
 いかにも楽しそうに笑う反町に、真弓さんはキッと真剣な目を向けた。
「あなたね、どうして先生に付きまとうんですか? 昔なじみか何か知りませんけど、先生 も私たちも迷惑してるんです。いつも冷やかし半分にやって来て」
「迷惑かあ。それは名誉だなあ。俺の存在も少しは意味があるってことだもんな」
 反省の色なし。真弓さんはそう判断した。
「真面目に答えるつもりはないんですね」
「君の名前を教えてくれたら答えるよ」
 笑いを含んだ反町の視線に真弓さんははっと目を見開いた。
「いつか約束したのに教えてくれないんだもんな。真弓…なんて言うの? 下の名前」
「教えません」
 真弓さんの口はますます固くなってしまった。厳しい表情のまま立ち上がろうとする。
「じゃ、私これが言いたかっただけですから、これで失礼します」
「…あ?」
 紆余曲折はあったものの予定通りに「びしっと」決めたはずだったのに、その相手のほう と来たらもう別のほうに気を取られて聞いていなかったらしい。フロアを見下ろしながら声 を上げた反町に、真弓さんの肩はがっくり力が抜ける。









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