かならず振り向くしっぽは短い ・ 2













 冬の日が差す法律事務所の午後はのどかだった。
「今日は直帰するから、君達も早めに切り上げていいよ」
 と言い残して井沢弁護士が出た後、秘書の八鹿(ようか)さんとアルバイト事務員の真弓 さんは余裕を持って残りの仕事に取り掛かった。この量なら急ぐまでもない。
「ね、先生ってこのところ機嫌がお悪いみたいですね」
 物件目録を入力しながら、真弓さんは大胆にもそんなことを言い出した。
「そうかしら。少し疲れてらっしゃるだけじゃない?」
 年長の八鹿さんは内容証明を数通チェックし終えて振り返った。
「私もそれ、思ったんですけど、先生ってどうせ表情に出ないし外からはわからないですも んね」
「先生がイライラしたり大声を出したりなさってるところなんて、一度も見たことないもの ね、確かに」
 封書をとんとんと揃えながら八鹿さんはつぶやく。この事務所が開業して間もない頃から 働いている彼女の証言には説得力があった。
「そう、今朝私が出勤してきた時に、そう言えば先生、珍しく雑談っていうか、ほら、うち で猫を飼ってるでしょう? なんとなくそんな話になったのよね」
『構おうとするとそっぽを向いて、こっちが邪魔にすると勝手になついてきて。何を考えて るんだか』
 井沢弁護士はそんなことを言い出したのだという。
『――人間に飼われている、ってつもりはないのかな。やつらは』
 八鹿さんは夫と義母と2匹の猫と暮らしている。しかし、これまで一度だって井沢弁護士 から猫の飼い方の相談など受けたことはなかったのだ。
『犬だと群れる動物ですからリーダーを必要としますけど、猫は違いますものね。人間をリ ーダーだとも主人だとも思っていないでしょう』
 そんな話に関心があるとは思っていなかったので意外には感じたものの、話はその程度だ ったので気に留めていなかったのだ。
『せいぜいパートナーじゃないですか? 今の生活では狩りのパートナーってわけにはいか ないにしても』
『なるほど、たまたま同じ巣にいる、なんてところか…』
 話を聞いて、真弓さんは目を丸くした。
「具体的ですねー。先生、一人暮らしなのに猫を飼ってらっしゃるのかしら」
「そんな感じでもなかったけれど…」
 と答えながらふと思い出す。猫のことを言うのに「あいつら」などといささか乱暴な―― 先生にあまり似つかわしくない――表現だったことを。
 猫一般を客観的に言うのならおそらくは使わない、多分に個人的な思い入れを込めた表 現。
 さすがベテラン秘書らしい着眼点だったが、やはり先生のプライベートな苦悩に気づくと ころまではいかなかったようである。
 そう、井沢弁護士が飼っていたのは猫よりももっと厄介なものだったのだ。猫よりもっと 気紛れでお行儀が悪くワガママで、そして猫よりずっと口答えをする恋人。
「独身なんて、もったいないな」
 どこをどう連想したのか、真弓さんの結論はそんなところに達した。
「典型的な三高ですよ、三高。ルックスもいいし、性格も――そりゃちょっと堅苦しい感じ だけど、ふざけてるよりはいいわ」
「個人的なことに興味を持つのはどうかとも思うんだけど、実は先生にそういうお話が持ち 込まれることって時々あるのよ。仕事を通じて、ってものしか知らないけど」
「えっ、どうなんですか、それって」
 身を乗り出す真弓さんをたしなめるように苦笑を返す八鹿さんだった。
「丁重にお断り、ですって。私に処理させてご自分はノータッチ。徹底してるわね」
「そうなんだー」
 しかし真弓さんの思考はさらに飛躍したようだった。
「きっと忘れられない人がいるんだわ。昔別れた恋人とか。きっとそうよ」
「あなたがロマンチックに走ってどうするの。さあ、もう戸締まりにかかるわよ。そっちは もういいの?」
 てきぱきと動き回ってまずは書類ロッカーから施錠を始める。そんな八鹿さんにたちまち 現実に引き戻された真弓さんは、目の前のパソコンに視線を戻した。
「あ、あとはメールチェックだけですから、ちょっと待ってくださーい! …あら?」
「どうかした?」
 画面を見つめたまま動かなくなってしまったその様子に、八鹿さんも不思議そうに近づい て来た。
「――メールが、来てるんです。私個人に宛てて」
「ここの事務所のアドレスで? 誰から?」
 顔を上げた真弓さんは当惑の表情になっていた。
「あの人です、ほら、先生の知り合いだとか言ってる、カメラマン…」
「まあ、何て言って来たの、今度は」
 いつか、井沢弁護士が出張先で連絡が取れなくなったことがある。その時にいきなりやっ て来てそれを指摘したばかりか、結局居場所も自力で突き止めてしまったのがその自称カメ ラマンだという男だった。直接応対した真弓さんはもちろん、後で彼女から詳しい話を聞い た八鹿さんも同様に、うさんくさい人物という評価を再確認したのであるが。
「それが、あの時のお礼に…なんて言って――」
「デート!?」
 思わず声が裏返りそうになった八鹿さんだった。
「なんてことを抜け抜けと。あなた、どうするつもり?」
「もちろんお断りです!」
 間髪入れずに真弓さんは叫んだ。が、握った拳はゆっくりと緩んでいく。
「――でも、ほんとに、どうしましょう?」
 上げた顔は、また困惑の表情に戻っていた。









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