かならず振り向くしっぽは短い ・ 1






かならず振り向くしっぽは短い
《 悪徳弁護士シリーズ・7 》

【  】









 東京都心に夕暮れが迫っている。無機質なコンクリートと鉄骨の集合体。それぞれてんで に視線を外し背を向け合って立っているビルの群れ。その音のない風景が自分の息でさっと 曇ってしまったのを確かめた反町は、くるりと振り向いて部屋の主の姿を探した。
 ここ近年、異常気象という言葉はもはや「異常」を表わさなくなってしまったようだ。む しろ普通の夏が来て普通の冬だったほうがよほど珍しがられるような気がする。
「でも、夏は猛暑も冷夏もあるのに、冬はまず暖冬しかないってのは、妙だよな」
 高層マンションの一室。ワンルームで窓はこの一つだけだった。
「地球の温暖化って、こーゆー即物的なトコで証明してほしくないよなー。ありがたみに欠 けるもん。そう思わない、井沢?」
「とか言いつつ、変なとこで懐くな! おまえのはただの寒がりだ」
 キッチンでコーヒーカップを洗いながら、井沢は背中合わせにくっついてきた反町をひじ で押し返そうとする。反町はしかしくすぐったそうに笑っただけだった。
「けちー。久しぶりの日本で、寒さがこたえるんだってば」
「そんなに熱帯に馴染んでるならずっと向こうにいればいいんだ」
 次にスプーンをしまおうと振り返ったところを、今度は正面から伸び上がってきた顔が迎 える。
「それ、本心?」
「あのな…」
 闇のように黒い目に影が重なり、井沢の答えはその中に沈められた。
「うん、あったかい。井沢はあったかい」
「馬鹿野郎」
 今度こそきっぱりと反町を引き剥がしておいて、椅子にかけてあった上着を取り上げた。 「俺はおまえの暖房器具じゃない。これから出掛けるからな」
「ふうん、最近料亭通いで忙しいって話、ほんとだったんだ。おまえが忙しいってことは日 本も物騒なんだなあ」
「総裁選が近いだけだ」
 と答えて背を向けた井沢の背後から手が伸びて、その上着がぱっと奪い取られる。
「こら、やめろ」
「も少し、いようよ〜」
 井沢が無表情にまた上着を取り戻すと、反町はにっと笑い返した。
「馬鹿を言うな。約束があるから駄目だ」
「俺のほうが先約だろ」
 まるでだだをこねる子供だった。何が本気で何が冗談なのか、その間合いがつかめずに井 沢はいらつき始める。
「おまえ、いい加減にしろよ。好き勝手に現われて消えて、俺のペースを乱しまくって」
「そんなに?」
 逆に嬉しそうに顔を輝かせた反町である。
「だって俺、井沢命だもん」
「そうか、そこまでコケにするか」
 ついに腹をくくった井沢は、眼鏡を外して側のテーブルに置いた。カタン、と大きく響い た音に気をとられた反町を、その一瞬に両腕に羽交い絞めにする。
「そうやって誘っておいては逃げるんだ、おまえはいつも。もうその手には乗らないから な」
「先手必勝?」
「そうだ」
 もがいて体の向きを変え、なんとか井沢の顔を正面にしたところで反町の抵抗は終わる。 「そう来なくっちゃ」
 その笑顔に隠されたものは、井沢にも誰にも読めそうになかった。











 壁に掛かった時計の秒を刻む音を、井沢はずっと意識し続けた。約束の時間を気にしてで はない。
 沈んでいく感覚。空間も、時間も、その規則正しい秒針の音と一緒に奈落へと沈んでい く。
 反復する熱い波にもまれて、自分という存在をひととき忘れていたに違いない。
 秒を刻む音。
 それが彼が抱きしめている体から伝わる鼓動だと気づいて、井沢ははっと目を見開いた。 「――また、間違えた?」
 荒い息にかすれた声が井沢を現実に戻す。
「…ごめん」
「なに、らしくないコト。謝るなんてさ」
 まだ上気したままの肌が揺れるように動いて、井沢の腕からすり抜けた。
「大丈夫だから」
 その意外なほど淡々とした表情に井沢ははっとする。
「反町」
「おまえがあいつを忘れてないことくらい、ちゃんとわかってんだからさ。おまえがいくら 俺をあいつと勘違いしてても、俺がそのことをわかってる限り大丈夫なんだ。おまえの前に いるのは俺なんだぞ。俺が気づかせてやる役目をやればいいだけだろ」
「頼んでもいないのに」
 当惑は、素っ気ない言葉となって井沢の口から出て来た。
「第一、勘違いって言うなら俺の問題であって、おまえがどうこうできるものじゃないだろ う」
「違うね」
 反町は自信満々だった。
「おまえはあいつには甘すぎるからな。そしてそんな自分にもおまえは甘い。それだと俺に は手応え不足だ」
「……」
 何を言い出すのやら、という表情になった井沢に、反町は自分から手を伸ばしてきた。
「俺は勘違いはしないぜ。その代わり俺は嘘つきだ。自分自身にだって平気で嘘をついちま う。自分が誰なのかだって、俺は自分に嘘がつけるんだ。だからおまえが勘違いしたって俺 は嘘をつき続ければいいだけだ。でもこうやっておまえの前にいる間は俺は勘違いを思い知 らせる役目があるからな、そのためにも俺は正直に俺でいないと。俺は、おまえと一緒にい る時だけ、正直者なんだぞ」
 下から抱き寄せられながら、井沢は目を見開く。
「それに、ヤキモチも、あるしな」
 抱擁の中で、反町の表情はもう見ることができなくなっていた。
 自分を正直者だと言う嘘つき。
 その言葉をどちらにとるか、迷うことを井沢は放棄した。









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