「おまえはまったく反省の色がない!」
 これまでに幾度となく繰り返した言葉を、コンティはまたも言わざるをえな くなった。
「そんなことを続けてたら、いつか絶対クビだぞ、クビ!」
「いけないなあ、コンティ。聖堂でそんな乱暴な大声を出しちゃ」
「く〜〜」
 ミラノ市街にあるサンタマルグレ教会はステンドグラスの美しさで知られる ゴシック様式の建物で、市内の他の有名スポットほどではないが、東方三博士 を描いたフレスコ画は観光客もそこそこ集めていた。
 なるほど、この伽藍の下で大きな声を上げるとその音響効果は抜群である。 離れたあたりにいる観光客のグループまでが一斉に振り向くほどに。
「だからな、ジノ。俺の話も聞けって」
「聞いてるよ」
 ジノ・ヘルナンデスは、その姿勢のいい長身をゆったりと礼拝席にあずけ て、チームメイトで長年の友人でもあるコンティを見上げていた。
 ブルーグリーンの温和な目はその優しげな笑みと共に彼のトレードマークで もあり、コンティを苦悩に追い込む問題児中の問題児であるなどと微塵も感じ させない。
 まして、冷静沈着な判断力と優れた反射神経を持ちながらその一方で、やら れたらやり返す――しかも倍返し――、キーパーの務めとは相手の攻撃を徹底 的に叩き潰すこと――当然相手選手自身もその対象――、というのをモットー としている選手だなどと、その外見からは誰も想像できないはずだ。
「おまえはチームに欠かせない大事な戦力なんだ。それをもっと自覚してくれ よ。そんなにひっきりなしに退場くらってどうするんだ」
「すまないと思ってるよ」
 にっこりと笑顔で答える口調はあくまで穏やかかつ紳士的。これにだまされ るとダメージは倍増することになる。
 コンティはそのへんも自分に言い聞かせつつ、きっぱりと首を振った。
「いいや、思ってないね。万一思ってたとしてもそれを実際に行動で示しても らわないと話にならないだろ」
 ちらっちらっとこちらに視線を投げている若い女性のグループに笑顔で手を 振っておいてから、ジノはコンティに向き直った。やはりまともに話を聞いて いるとは思えない。
「で、誰に会うんだい、ここで。待ち合わせにしては変わった場所だよね」
「ああ、俺や他の連中が言っても、監督でもクラブスタッフでも結局耳を貸さ ないおまえだからな、後は神頼みってわけさ。今呼んでくるからここで待って んだぞ」
 神様でも連れて来るかのような深刻な顔をして、コンティは回廊のほうへ姿 を消した。それを見送ってからジノは立ち上がった。おとなしく待っている気 はもとよりないようだ。
 身廊を進んで洗礼盤のある祭壇下で足を止める。正面のキリスト像に十字を 切って頭を垂れ、それからおもむろに内陣に入って行ってしまう。
 まず興味を引いたのがパイプオルガンだったようで、鍵盤のある一段高い席 を伸び上がって覗いている。さらに神父の使う説教台に目を留め、大胆にも上 ってしまった。今は何も置かれていない経台を人差し指で触ってみたりなどし た挙句にその高さから何かを発見したらしい。ぱっと顔を輝かせたジノは素早 く説教台を下りた。
「――お待たせ。あれっ、どこ行ったんだ? ジノ!」
 こちらでは戻ってきたコンティがおろおろと見回していた。これでは気苦労 が絶えないのも無理はない。つくづく気の毒な男と言うほかなかった。













「何か悩み事でもおありですか、お嬢さん」
「…あら」
 手を組んでじっと動かずにいた女性がふと頭を動かして、そのベールを被っ た下に黒く長い髪がちらりと覗いた。
「ずいぶん熱心にお祈りなさってますが」
「どなた…?」
 それ以上顔を上げることはせず、女性は低く尋ねる。声の主は見えないの に、すぐ近くから聞こえてくるのだ。
「ここは懺悔室じゃないはずですけれど」
「人はいつどこでも懺悔はできます。祈る場所がすなわち神のみ前ですよ」
「まあ」
 女性は小さく笑いを漏らした。その声の居場所がわかったのだ。
「おっしゃっていることの割に罪深い声ですこと。でも私の懺悔にはそのほう が似合っているかもしれませんわね」
「それは光栄です」
 祭壇下の聖人像にちょうど隠れるあたりに司教席が並んでいて、その一番末 席にジノがもっともらしく手を組んで祈りを捧げる……ふりをしつつ、こちら を興味深そうに見ていた。礼拝席の一番前に座って祈っていた女性は、そっと 目を上げるとそのジノと視線を合わせ、それからまた深く頭を垂れる。
「――主よ、罪深い者の懺悔をお聞きください」
 低く祈りが始まった。が、そこから先は声の調子が変わってささやきにな る。
「本当は見ず知らずの方にお願いなどすべきではないのですが、私、途方に暮 れていて…。どうか話だけでも聞いてください…」
「いいですよ、美しいお嬢さんの頼みとあらば」
 予想した通りの答えである。
「私のずっと後ろのほうに見張りがいるのはごらんになれますか? どこに行 くにも私には見張りが付いていて始終監視されています。明後日、私、結婚式 なんです。逃げないように、誰かと接触しないようにって」
「なんてお気の毒な話だ…」
 悲しげに声を落としてジノはつぶやいた。花嫁と聞いてしまっては余計に、 ということだろう。
「お願いというのはその結婚式の朝なんですが、あなたに受け取ってほしい物 があるんです。私、実家から教会まで車で向かいます。その途中でこっそり窓 から落としますから」
「――それだけでいいんですか? お望みなら意に沿わぬ結婚から僕がさらっ て差し上げるのに」
「いいえ」
 女性の口元がふとゆるんだ。
「それでいいんです。受け取っていただいた後はすぐにそれを人目に触れない よう処分してください。それで私はもう心残りはありません。お願いします」
 女性はそう頼んでから、接触する地点と時間を詳しく説明した。了解したと いうジノの答えを聞いてすぐに立ち上がる。
 スーツ姿の年配の男が、それが合図であったかのように女性に近づいて来 た。
「お済みですか。では行きましょう、マリアお嬢さま」
「……」
 ぴったりと付き添って入り口へと歩いて行く。ジノはそっと像の陰から出て きてそれを見送った。そしてドアが閉じられるのを見てから急ぎ足で後を追 う。
「ジノ!」
 コンティが憤慨したように声を上げた。両手を腰に、怖い顔で階段の上から 睨みつけている。
「こんなとこで、もう! 何してんだよ」
「――ガラスの靴だな」
「え?」
 ジノが手にしているものを見て、コンティは目を丸くした。
「ガラスの靴って、それ女の人のベールじゃない、礼拝用の」
「そうだよ」
 ジノは立ち上がると、ファサードの階段を軽いステップで上がってきた。コ ンティのいる所まで来て、にこっとする。
「罪深いシンデレラのね」
「何だよ、もう。それより先生を待たせてんだから早く中に入って! 昔俺が 日曜学校で絞られた厳し〜い人だからね。ジノもちゃんとお説教してもらうん だよ!」
「はいはい、行くよ」
 教会の中へと二人は姿を消した。さて、その厳しいお説教が果たして効果を 見せたかどうかは怪しいのだけれど。













夜間警備員のピエトロは、バイクの爆音が構内から聞こえてくるのを不審に思 って詰所から顔を突き出した。その目の前にライトが一つ、すごいスピードで 近づいて来る。
「ひえっ…!」
 ゲートの遮断機の寸前でそのライトは急ブレーキの甲高い音をきしませて止 まった。
「…だ、誰だ!」
「やあ、ピエトロ。門限過ぎちゃったかな。帰してくれるかい」
「ヘルナンデスさんじゃないですか!?  な、何してたんです、今頃!」
 ACミランの広大な敷地は昼間こそ多くの人間が出入りする賑やかな場所だ ったが、深夜1時を回ればもう完全に無人である。そこになぜ選手が居残って いたりするのだ。しかもレギュラーGKが…。
「反省文を書かされてこんなに遅くなっちゃったんだよ。ほら、この間の試合 の時の、ね」
 しかし、ヘルメットのシールド越しににっこり笑いかけるジノはまさしく屈 託のない天使の笑顔。不審も警戒も一気にしぼんでしまう。
「でもっ、クラブハウスのどこにも明かりなんてついていなかったぞ…。どこ にいたんですか?」
「資料室だよ、地下の。ほら、試合記録だの新聞雑誌のバックナンバーだの揃 ってるだろ? あそこで書いてたんだ」
「は、はあ…」
 遮断棒を上げながら、ピエトロは曖昧にうなづくしかなかった。
「あ、そうだ、ちょっと訊きたいんだけど、結婚式のお祝いにはどんな花がい いか知らないかな」
「えっ、結婚式の花、ですか」
 春にピエトロの娘が結婚したばかりだと知っての質問らしい。
「――でも、レッドカードで反省文って、小学生じゃあるまいし、そんなこと やってたのか? うちのクラブ…」
 素直に不思議がる警備員を後に残して、ジノの愛車デュカーティは夜の闇へ と走り去って行ったのだった。





MENUNEXT>>