にしたって、僕は、一人より二人のほうがいいなんて、思ったことさえなかったんだ。  けれど、招かれざる客は、招かれていないからこそ、という顔でやってきてしまった。 「いい部屋だね」
 ゆっくりと見回してから、三杉くんは言った。
「ここなら絶対に見つからないね」
「あのね、三杉くん――」
 偏頭痛がじわじわと響き始める。
「気紛れだか何だか知らないけど、もうとっくにとんでもない騒ぎになってるんだよ。君 が家出だなんて、よりによってさ、似合わないったらないよ…」
「ホテルにしばらく閉じ籠ってたんだけど、何か、裏で気を回されてしまってね。で、君 のことを思い出したんだ」
 三杉くんは、僕が勧めてもいないソファーに勝手に掛け、革のトランクをその足元に 置いた。
 み、見つめるの、やめてくれる?
「――そりゃ、天下の三杉グループの手が回らないわけないよ、どこのホテルだって」 「ごめんね」
 待ってよ。先回りして謝ってしまうなんて、卑怯じゃないか。僕はまだ、謝られるよう なこと何もしてもらってないんだから。もしこれからされるんだとしたら、期待、してしまう だろ。
「期待、のわけ――あるもんか!」
 ボキャブラリーが混線してしまったのに我ながらあわてて、思わず声に出してしまっ た。三杉くんは、でも表情を変えず、僕を見つめ続ける。
「順調に復帰コースを進んでるんでしょ? 何もヤケ起こしたり落ち込んだりする必要 なんてないくせに――」
「うん」
 三杉くんは小さくうなづいた。
「でも、しばらく静かに過ごしていたいんだ。僕が僕自身に干渉し過ぎないような場所 で」
 謎のような言葉がゆらゆらとその場の空中に浮かび上がったような気がした。その ゆらゆらを、思わず目で追ってしまいそうになって、僕はそこでやっと我に返った。
「僕と一緒で、静かにいられると思う?」
「思わないよ」
 ここでやっと三杉くんの表情が和らいだ。
「でもね、君といたいんだ。それだけだよ」
 とんでもない「それだけ」だった。








 次の日クラブに顔を出すと、騒ぎはここまで波及していた。
 僕も頭痛を増幅させて家に帰った。
 三杉くんは勝手にソファーをベランダの窓際まで引っ張ってって、その陽だまりの中 で気持ちよさそうにまどろんでいた。
 そう、長年住み着いた猫のようにゆったりと。
「君は猫を飼いたいと思ったこと、ない?」
 その僕の心を見透かしたように、三杉くんはいきなり言ったんだ。髪の先に太陽の飛 沫を弾きながら、その逆光の中で。
「ないよ。ずっと引越しばかりで来たからね」
「そうか。うちもなんだ。猫もどんな動物も飼ったことはないよ。アレルギーとか、そうい うの言われて」
 買ってきたパンをスライスしている僕の背中を、三杉くんはじっと見つめている。僕は 居心地の悪さに、じりじりし始める。
 ケトルを火にかけて、僕はわざと大きくぐるっと振り向いた。視線が音を立ててぶつか った。
「今日、クラブに連絡が来てたよ。君はとっくに指名手配されてるんだ。こんな所にまで だよ。もちろん君の名前は表には出てないけど、日本代表の遠征スケジュールが変更 になったってね。日本(むこう)でどれくらいあわててるのか、想像つくよ」
「そう」
 三杉くんは興味なさそうにそれだけ言った。動揺するなら見えるようにやってほしい もんだけど。
「僕は君の味方にはなってあげられないんだからね」
「わかってる。味方になってもらおうとは思っていないよ。君には、共犯者になってほし いんだ」
 自分のことを、三杉くんはいつも他人事のように淡々と突き放している。腹立たしい ほどに。
「わかってんの? 僕は君が嫌いなんだよ。大嫌いなんだから」
「知ってるよ、もちろん」
 小さくあくびをして、三杉くんはまたことりと頭を落とした。僕の、お気に入りのクッショ ンの上に。
「嬉しそうだね、三杉くん」
「うん」
 この程度の皮肉が通じるとは思っていないけれど、それにしても…。
「僕も、君に負けないくらい『嫌い』だから気にしないよ。君だけだもの、僕のこと嫌いだ なんて言ってくれるのは」
「感謝される覚えはないけど」
 僕は抗議すべくソファーの前に立ちはだかった。
 すると、三杉くんはいきなりぱちっと目を開いて、僕を見つめたんだ。
「感謝じゃない。打算だよ」
 三杉くんは不思議な表情を浮かべた。不思議としか言いようがなかった。
「岬くん」
 手が伸びて、頬に指先が触れた。
「キス、してもいいかい?」
 僕は、うんと言ったわけじゃない。でも、嫌だとも言わなかったんだ。








「岬――、おい、岬、聞いてるのか?」
「あ、うん」
 半分眠ってたのかな。いや、そうじゃない。
「日本(むこう)からさんざんせっつかれてんだ。契約のことがなきゃ俺だってすぐに帰 るがな、パリのあとブリュッセルでもう1試合やるから、どうしても来週までは動けない んだ。だから…」
「僕も、だめだよ」
 若林くんは、いつだって全力だ。何より自分にそれを要求し、そしてさらに超えてい く。自信家だからこそ、自分に厳しい。こうありたい自分と、こうでなくちゃいけないとい う自分とが、いつも重なり合っているんだ。
 ただこの自信家はその分他人に対して車間距離を計算しないので、僕みたいな逆 の人種には居心地がよすぎるのかもしれない。
「猫を飼ってるんだ、今。留守にできない」
 若林くんはぽかんと丸く口を開けた。カフェのテーブルの上で、両手がぐぐぐっと握り 締められるのを、僕はぼんやりと眺める。
「ね、猫だとぉ!」
「預かりモンだから、しかたないんだ」
「岬!」
 若林くんの声が遠ざかっていく。まぶたがふわっと重さを失って、僕はまた不確かな 想いに漂い始める。
 額に風が吹き過ぎていき、頭上の枝がざわめく音が耳に届く。空を横切る雲が太陽 を何度も隠していくのが、目を閉じていても僕にはわかった。でも、なぜ……?
「おまえらしくないな」
「そう?」
 若林くんはカチャンと音を立ててカップを置いた。諦めたんだ。
「自分を縛るものは、どんなものでも許さないくせに。なんか――おまえ、喜んでるみた いだぞ」
「まさか」
 そうだ、まさかだったんだ。
 それだけは、若林くんに打ち明けてもよかったのに。








「何も訊かないんだね」
「何を?」
 ここは僕の家なんだから、僕は黙って出掛けるし気が向いたら帰ってくる。どんな猫 を飼っていようと。
「君がここにいるって、僕はいつでも言いつけちゃえるんだよ」
 ドアの前に立っている僕を、三杉くんはソファーに寝そべったまま見上げた。
「ふうん。――たとえば、若林に?」
「三杉くんっ !! 」
 なんて、なんて人が悪いんだ、とことん!
「知ってて放っておいたってわけ? 僕が言いっこないってわかってたっていうの?」
「そんなことはないよ。だって、君は共犯者だろ?」
「……」
 その、すごくすごくリラックスした態度、とことん頭に来てしまう。ここは、僕んちなの に!
 僕は黙ったまま部屋を横切って、バスルームに入った。三杉くんと話してると、どんど ん意地悪になってしまう。それが口惜しかった。切り札をいつも握られているようで。
 シャワーをしばらく流しっぱなしにして、僕は窓の外を見ていた。裏庭に面した、小さ な滑り出し窓だ。見えるのは向かいのアパートの古びた煉瓦壁くらいだけど、一つだ け、僕の目を引くものがある。
 壁と壁のわずかな空間のその向こうに白く空が見えてて、そこを横切るように電話 線が渡っている。少し斜めになったその線が、山の稜線に見える……ただそれだけな んだけど。
 山の見えない街に住んで、もうけっこう経つ。
 いろんな街を転々とした年月はそれが僕の意思でなかった分だけつらさも悲しさも薄 れている。でも、どの街でもいつも僕を囲んでいた山の姿がここにはない。
 山があるからって別に何の意味もないけれど、でも街の風景のその先に空と隔てる 山の稜線が見えないということは、あって当然のものがないという奇妙な不安定さをい つも僕に感じさせた。
 錯覚でもいい。
 そんな気持ちが僕にあるってことが、僕の奇妙な引け目だった。
 ただの電話線なのに。
「――何か、食べた?」
「いや」
 着替えのシャツを頭からかぶってバスルームを出ると、クッションに頭をうずめた三杉 くんと視線が合ってしまった。当惑をごまかすために、現実的な話題を持ち出すことに する。
「昼からずっと? おなかすかないの?」
「――うーん、ずっと寝てたから。でもちょっとすいてきたかも」
「もう、どうなってんだか。ごろごろしてばっかりで、これがあの優等生の三杉くんだな んて、信じられないよ」
「こういうのを優等生って言うんだよ、岬くん」
 三杉くんはうつぶせのままでクッションにぱふぱふとなついている。だからそれは僕 のお気に入りなのに!
「家出して、共犯者の家に隠れて、そして何から何まで逆らって怒らせて――」
「ちゃんとわかってるんじゃない」
 頭をプルプルと振って水滴を飛ばしてから、僕はソファーの側まで歩いていった。
「僕を怒らせて、そして――」
「そして?」
 クッションが床に落ちた。拾い上げようとしたところを、三杉くんの腕に抱え込まれてし まう。
「ちょ、ちょっと!」
 さっきまでの気だるそうな態度が嘘のような力だった。
 でも、三杉くんは僕を引き寄せて、クッションがわりにぎゅーっと抱き締めただけだっ た。猫がじゃれつくように――と言っても、この猫はただの猫ではない。
「僕は、クッションじゃないってば!」
 三杉くんの髪から、何か懐かしい香りがした。それは太陽の匂いだった。一日ソファ ーでひなたぼっこした、その匂いに違いなかった。
 僕は一瞬和んでしまいそうになって急いでその腕を振り払った。反対に三杉くんをソ ファーに押し込める。クッションにされてたまるもんか。
 三杉くんはびっくりしたように目を丸くして僕を見た。少し黙って、それから新しい意地 悪を思いついたみたいに笑顔になる。
「ねえ、僕たち、恋人になれるかな」
「ぜったい! なれない !! 」
 僕の断言ぶりが逆に気に入ったらしく、三杉くんの表情が優しくなった。その意味が、 僕にはわかる。
「じゃ、やっぱり共犯者でいよう」
 三杉くんの目が、確かにそう言った。
 猫の毛先いっぱいに含んだ太陽の光が体じゅうにしみ渡るみたいに、僕は、その想 いを深呼吸した。
「――でも、僕は手加減なんてしないからね」
「うん」
 太陽の残り香は暖かかった。
 反対に、胸の奥に、小さく凍る痛みがあった。







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