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それは、影だった。
フィールドで、僕はたびたびそれを見かけていた。
ボールを持って左右に目を走らせた時、視界のいちばん端に、その影が動いた。
壁パス。ワン・ツーでぴたりと返ってくる。これ以上はないというくらいのタイミング
だった。
なのに、僕は受けられなかった。
がくん、と足元が揺れ、相手ディフェンスに突っ込む形になった。
視界が閉ざされる瞬間に、顔が見えた。
影の、顔だった。
――君はずるいよ。
身体の片側だけがひやりと冷たいのを、僕は感じていた。
――三杉くんは、いつだって…。
「岬…!」
「大丈夫か?」
冷たさと、そしてそれとは対照的に、別の側は焼けるように熱かった。
「………」
ゆっくりと目を開くと、視界にいくつもの顔が、逆光のまま僕を囲んでいた。
首筋と、腕に、草の感触が蘇り、自分がいる場所を思い出す。
「岬くん、平気?」
「うん……」
フィールドの芝は、夏の太陽をいっぱいに吸い込んで、汗ばんだような熱気を僕に
伝えていた。その熱気の側に、僕は戻ってきたのだ。
「大丈夫だよ、翼くん」
ゆっくりと身体を起こして、僕は笑った。
控え目なノックの音がして、僕はすぐにその主を知った。
「だけど…」
閉めたドアにぴったりと背をつけたままで、森崎はちょっと口ごもる。ここは僕と翼く
んの相部屋で、彼の部屋は隣だった。
「ほんとに平気ならいいけど、今日だって――」
パスを受けそこねた僕は、倒れる時に少々打ち所が悪かったらしく、ほんの数秒
気を失った。でも、トレーナーコーチの診断は病院行きの必要なし、だった。森崎もそ
のことは知っているはずである。
「僕だってミスはしょっちゅうするよ。暑さも体調も関係ないってば」
「――うん、岬がそう言うなら、いいけど」
いつもの困ったような笑顔を見せて、森崎はようやくうなづいた。今日の紅白試
合、森崎は僕と同じ白チームで、僕が倒れた時にはそのセンターサークル付近から
はいちばん遠い位置にいた。そこから、すべてを見ていたのだ。
「アイシングするんなら、食堂の冷蔵庫に予備が入れてあるからって、コーチが」
「ありがとう。心配させて、ごめんね」
廊下を行き来する仲間の声がしばらく賑やかに交差していた。そろそろ消灯時間
だ。
ドアを閉めながら、森崎はもう一度軽くうなづいたように見えた。
今夜翼くんは留守だ。協会の事務手続きがあって東京に向かった。森崎は僕が一
人なのを気遣って来てくれたのだろう。
そう、今夜僕は一人だ。
こんな夜、きっと、彼がやって来る。
闇が重く、僕は眠れなかった。
目を閉じても、その闇は同じように僕に迫ってきた。予兆をはらんだ重さ。僕は諦め
てベッドから起き上がった。
「いるんでしょ、そこに――」
闇は室内のそこここで音もなく澱み、息をひそめていた。窓辺のカーテンの半分ば
かり開いたままの四角い形が、薄白く浮かび上がってわずかに揺れたようだ。
「隠れてないで、出ておいでよ」
僕はもちろん、夢を見ていたのだ。
闇がゆらりと動いて、窓の四角い白さの中に姿が浮かび上がった。
「――三杉くん」
僕のよく知っている形、よく知っている影だった。
「こっちへ――僕のところに来てよ」
手を伸ばすと、影はゆっくりとこちらに近づいてきた。ベッドの僕の脇に立って、そこ
で足を止める。
「僕は、影だよ」
「違う、君は三杉くんだ。今日の練習の時も、僕にパスをくれたじゃない。そうでし
ょ?」
「…………」
伸ばしたままの僕の手を、影は両手で受け取るようにしてそっと包んだ。視線をま
っすぐに感じて、僕はなぜか泣き出しそうになった。
「影でも何でもいいよ。君に会いたかったんだ。君にどうしても言いたかったんだ…」
触れた手を、逆にぐいっと引っ張った。
僕の目の前に、彼の顔がある。僕が、何度も呼びかけた、彼の顔だった。
「君はずるいよ。僕が呼ぼうとするといつもいない。今度のチームだって、君が来るっ
て聞いたから帰国したのに。――君はいつもずるいんだ。僕は、君を許さない」
「――岬、くん」
影は少し微笑んだように見えた。
「君が、君を許さないように――?」
闇は再び視界を閉ざし、それでも僕は彼を離さなかった。彼は抗わず、僕の名前を
もう一度だけ呼んだ。
それは、あるはずのない体温だった。
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