影踏み 2









−2−




 合宿は4日目を迎えた。
「岬!」
 タオルを振り回しながら叫んでいるのは松山だ。暑さには弱いと言いなが
ら、いつまでもあんな直射日光に当たって。
「翼は、帰んの、午後かぁ?」
「よく知らないよ。今日中に、ってことしか聞いてないから」
 叫び返してドリンクを少し喉に流し込む。地面に直接腰を下ろした森崎が苦
笑していた。
「翼のことなら何でも知ってるってことにされてるんだよ、岬は」
「やめてよね、ほんとにそうなら苦労はしないよ」
 せっかくの日陰も、この強い陽射しにはほとんど慰めにしかならなかった。
グラウンド脇に申し訳程度に植えられた若い木は、真上から照りつける太陽
をさえぎるには力がなさすぎる。
「影踏みって、岬、やらなかった、小さい頃?」
 不意に思い出したように森崎が言った。
「鬼ごっこなんだけど、ほら、影を踏まれたやつが鬼になるだろ。遊んでるうち
に夕方になって、影が長くなって――なんだか不思議な雰囲気になるんだよ
ね?」
 ああ、知ってる知ってる、と周囲から賑やかに声が上がり、僕はその中で
少し考え込んだ。僕は実はその遊びをしたことがない。遊び、というもの自体
あまり縁がなかった。
「――不思議な雰囲気?」
 仲間たちの会話を通り越して、森崎の視線が僕に届いた。
「ずーっとさ、互いに影ばかり追って遊んでると、夢中になり過ぎて――現実
が遠くに飛んじゃうみたいな――」
 森崎は、なぜあんな話を持ち出したのだろう。
「――森崎?」
「うまく言えないけどね」
 向こうでコーチたちが練習再開を告げ、森崎は立ち上がった。ジャージをぱ
んぱんと払い、腕を軽く回しながら駆け出す。他のメンバーたちもめいめいに
腰を上げてフィールドに向かった。
「翼だけどさ、東京で、ついでに寄ってくるかもな」
「だよな、結果くらいわかるし…」
「おい!」
 僕が振り向いたのに気づいて、早田がつっついた。つつかれた立花も、二
人してもごもごと言葉を濁し、走りながら目をそらす。
 誰も、何も言わず、練習が始まった。
 メンバーの誰もが、今日が何の日か知っている。そして、皆その名前を口に
するのを避けていた。
 今日は、三杉くんの手術の日なのだ。








 午後はまた紅白戦だった。ゾーンとマンツーマンに分けてそれぞれにディフェンス のチェックをすると言うので、僕は中盤の引き気味にポジションを取った。僕のチーム はゾーンのほうだった。
「高杉、ラインをもっと意識して!」
 左から切れ込んできた佐野の動きを測りながら、反対サイドへのケアーをする。赤 チームは新田、滝の駿足を生かそうとするはずだ。その分中盤でのチェックは早め に対応しなくてはならない。
『岬くん――』
 ヘディングで競って弾かれたボールが僕の方に来た。カウンターチャンスだ。フリー になっている沢田にはたいておいて自分で上がる。赤チームのマーカーが急いでか らんできた。僕に付いたのは次藤だ。
「えっ…?」
 僕の耳に、確かに声が聞こえた。首を振り向けて背後を見る。と同時にコーチの笛 が鳴ってフリーキックが指示された。もう一度沢田がボールを持つ。
『岬くん』
 逆サイドに出たボールをドリブルで持ち上がろうとした来生が囲まれた。苦し紛れ のバックパスだ。高杉がフォローして、僕に合図する。次藤を振り切らなくてはならな い。
 でも、僕は、その時まったく違うことを考えていた。昨日の、あのパスのことだっ た。僕はあの時、誰からのものでもない、三杉くんの返事が欲しかった。帰国する前 に、僕は彼に一通の手紙を送っていたのだ。
 三杉くんが病院にいたことは知らされていなかった。だからこそ、僕はありのまま 自分の戸惑いをぶつけたのに。
『君が嫌いだ』
 そう書いてしまった。憎しみという形をしていてくれていればむしろ迷うこともなかっ た。自分の気持ちに、はっきりした境界線を引きたかったのかもしれない。
『君には会いたくない』
 あれは嘘だ。本当は、ずっと会いたかった。会わないわけにはいかなかった。直接 会って確かめることが、僕のいちばんの望みだったのだ。
 合宿に来て、僕はその望みがまた裏切られたのを知った。翼くんとの再会の喜び も、代表チームの一員としてプレイする期待感も、僕の空白を埋めてくれなかった。
 昨日の、あのパスが来るまで。
『三杉くん…!!』
 僕を呼んだのは、あの影だった。
 フィールドが不意に闇に閉ざされる。僕は、その真ん中に一人立っていた。
「どうして、こっちに来ないんだよ! 僕がいるから? 僕が呼んでいるから?  君は そうやって僕から隠れ続けるの? ずっと――」
 闇の中は、たまらなく冷たかった。影が住む、そこは。
『――岬くん』 
 手が、僕の額に触れた。目を開く。昨日とまったく同じに、僕の周りを仲間が囲ん でいた。
『岬くん、僕はここにいるよ』
 昨日、翼くんが覗き込んでいたその位置に、彼の顔があった。微笑んで、でも悲し そうに。
「あ……!」
 声を出そうとして、はっと気づく。
「岬、またかよ!」
「大丈夫かぁ、ホンマに…」
 今度は、パスは来ていなかった。いや、高杉からのボールをぼーっと逃してしまっ ていたのだった。
「少し休むか?」
 監督にまで同情顔で来られては言い訳はできなかった。
「――すみません」
 それだけ言ってラインから出る。顔を上げると、森崎がまたじっとこちらを見ていた。











 結局、翼くんはその日も帰らなかった。事情でもう一晩東京に泊まる、とだけ、電 話が入ったそうだ。
 そしてもう一つ、「手術は成功した」という伝言と一緒に。
「岬、何してんだ?」
 夜のミーティングの後、僕は外の風に当たりたくなった。少し浮き浮きした雰囲気 がチームの皆に伝わって、僕は逆にいたたまれなくなっていた。
 食堂から広いポーチに出ると、僕の影が長く伸び、庭の芝のほうまで頼りなく動い た。
「何か、いるのかぁ…?」
 からかうような声もかかる。消灯までの自由時間、めいめいに過ごす時間に昨日 までとはやっぱり違う安堵感が漂っている。そんなふうに、皆も、それぞれに意識し ていたのだ。一人、欠けていた仲間のことを。
「俺も行くよ」
 ポーチまで同じように下りてきたのは森崎だった。
「岬、影踏みしようか」
 僕の、当惑をわざとはぐらかすように、森崎はいつものふわーっとした笑顔を見せ た。一人でとん、とんと片足を打ちつけてみせ、僕を振り返る。
「成功して、よかったよね、三杉」
 誰もが胸に持ち、けれど僕には決して掛けられなかった言葉だった。
「――うん」
 僕は、そう返すのがやっとだった。僕も、そう言ってもらいたかったことにその時気 づく。
「ほら、逃げろよ、岬」
 森崎がおどけたようにポーチの端で手を上げた。僕の影が長く伸びて、森崎は一 歩だけ、その手前にいる。
「岬――?」
 こっちを見て、森崎は驚いたようだった。僕も、なぜ涙が出るのか自分でわからな かった。
「――昨日三杉くんが、パスをくれたんだ。あの時、僕は受けそこねてしまったけど ――」
 森崎はそっと側に立って、僕を覗き込んだ。
「――三杉くんは、確かにいたんだよ、あそこに」
「うん、俺にも見えたよ、岬」
 森崎はなぐさめるためにそう言ったのだろうか。
 その夜、影は何も語らなかった。
 代わりに触れた、影の、体温だけを、僕は繰り返し思い出すこととなった。








 翌朝、まだ早いうちに翼くんは帰ってきて、皆に質問攻めに会っていた。僕はその
輪からはわざと離れていたけれど、一通り説明をしつくしてから、翼くんはロッカール
ームでそっと僕に近づいた。
 手術の後、麻酔から覚めた三杉くんが、僕に、とわざわざ念を押して、伝言を頼ん
だのだそうだ。
 手紙の返事が書けなかったこと、約束を果たせなかったことを、謝ってほしいと。
「それでね」
 翼くんは、それからちょっと考えて付け足した。
「次は、パスを受けてほしい、って。確か俺、そう聞こえたんだけど…」
 別れ際のその言葉を問い返すと、三杉くんは笑って答えなかったのだと、翼くんは
言った。
「気のせいだったのかな…」
「そうだよ、翼くん。気のせいだよ」
 僕はなんだか笑い出しそうで、我慢するのが苦しかった。翼くんは自分が笑われ
ているのと勘違いしたらしい。僕をつかまえて、抗議のベアハッグを仕掛けてくる。
 グラウンドに出ると、今日もまた暑さを予感させるような朝の陽射しが僕たちを包ん
だ。まだ、影が、長い。
 僕は足を止めて、自分の影を眺めた。
「翼くん、影踏みって遊び、知ってる?」
「うん、知ってるよ」
 少し先を走って行こうとしていた翼くんが、きょとんと振り向いた。
「影の頭を踏まれたら、死んじゃうって、あれでしょ?」
「何、それ」
 今度こそ、笑ってしまう。翼くんはふくれていたけれど。
「早いな、二人とも」
 後ろから追いついて来た森崎が、グラブで僕の頭を押さえて走り過ぎた。
「もう、一人で抱え込むなよな、岬」
 何を…?と問う暇はなかった。ぽかんと見送り、それからまた足元に目を落とす。
 土の匂い、草の匂い、そして陽射しの匂い。すべて、現実の証しだ。
 影は、そこにあった。僕の影だった。
 影踏みは、それきり、二度とやることはなかった。








END








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作者コメント:
まぼろしシリーズと言えなくもないです。まだ二人の関 係があいまいな段階のみーみー。森崎くんがいきなり目 立ってしまいましたが、ここの彼は決して超能力者でも なんでもありませんので…(笑)