羊の国の空の色

















 短い休暇はすぐに終わりに近づき、松山はいよいよ不機嫌になった。
「明日だぞ」
「うん」
 先を行く松山の背中を見ながら、三杉は短く返事した。そしてふと足を 止める。斜め前方の木立ちの向こうに、西日が滲むように最後の光を投 げかけていた。初めて訪れた北海道の、三杉がもっとも気に入った光景 だった。
「――おい!」
 道の向こうで、じれたように松山が呼ぶ。三杉はゆっくりとまた歩き始 め、松山に追いついた。
「どうしても、行かないのか?」
 今度は松山が頑固に動かない。まっすぐに目を睨んで、低く問う。 明 日、日本を発ってヨーロッパへと向かう代表チーム。その中に名を連ね ていた三杉は、しかし間際になって辞退を申し出たのだ。
「僕はここでもう少しゆっくりさせてもらっているよ。静養にはぴったりだ し」
「俺は、そんなつもりで――!」
 北海道の実家に三杉を誘ったのは、確かに下心があったからだ。自負 もあった。自分なら、三杉を説得できるはずだと。少なくとも、残されたわ ずかな日数、三杉を自分の視界に入れておかねばならない、そうせず にはいられないと、松山は思ったのだった。
「ここは、いいところだね。君の故郷だものね。僕は、ここが好きだよ」
「違う!」
 思いがけず、大きな声だった。松山は自分で驚き、一瞬、言葉を失っ た。
「松山――」
 その表情に、三杉はほんの少し困ったような微笑を見せた。
「僕は、いつまでもプレイができるわけじゃない。いつかはこういう時が 来るんだ。それがいつになるか、せめて自分で決めたいんだよ」
 出会ったばかりの頃、まだ小さな少年だった頃、三杉は確かにもうこん な目をしていた。松山はそう思う。松山は知っている。だからこそ、敢え てそれに挑もうとしたのだ。
「僕がいなくても、君たちは勝てるよ。そうだろ?」
「――違う。三杉、そうじゃない」
 松山は唇をかんだ。
「俺たちがおまえを必要としてるかじゃないんだ。おまえが、俺たちを必 要としているかどうか、だろ」
「松山?」
 三杉は相手の肩に伸ばそうとしていた手をふと止めた。









「おや、三杉くん」
 居間に入ってくるなり松山の父は意外そうに声を上げた。
「なんだ、光のやつは?」
 ソファーに一人座っていた三杉は、読んでいた本から顔を上げた。
「もう出発しましたよ。始発の列車で。成田には正午までに着かないと間 に合いませんから」
「なんだ、そうか」
 昨夜ちょうど当直勤務だった松山の父は、息子とは入れ違いに帰宅し てきた。帰宅してもすぐに家には入らず、庭の倉庫でしばらくガタガタと大 きな音をさせていたようだったが、小一時間も経ってからようやく気が済 んだらしい。
 駅には松山の母と三杉が見送りに行った。
 松山は終始黙りこくっていた。
 母親の運転する車を降りて、自分のバッグを足元に置いて、それから 松山は、とんでもない言葉を残していってしまったのだ。
『じゃ、がんばってきてくれ。応援してる』
 そう三杉が言った時に。
『バカ野郎! おまえはワガママな意地っ張りだ!』
 本当はもっと別の言葉で言おうとしたのだろう。三杉はその時そう思っ た。松山は少し青ざめてさえ見えたのだ。
 列車に消えた姿は、もう何も語らない。言い残した言葉が苦く胸に響 く。
「お昼よー!」 
 台所のほうから松山の母の声がした。窓から外に向けて声が響いてい る。
「いい加減に戻ってらっしゃいな!」
「俺ぁ、ここだぞ」
 頬杖をついてテレビの天気予報に見入りながら、松山の父はぽそりと つぶやく。それが聞こえたわけでもないだろうが、松山の母が居間に現 われた。
「三杉くん、お待たせ。――あら、なんだ、ここにいたの、松山くん」
 松山の母は、夫を「あなた」とか「お父さん」とは呼ばない。以前その話 を聞いた時、三杉はまさかと思ったものだったが、実際にここに来てその 様子を見てみると、案外違和感がなかった。何より当人たちが気にして いないところが偉大である。
 3人で食卓を囲むのは初めてということになった。最初の夜は松山の 姉が帰ってきていて5人、彼女が大学に戻った2日目からは4人でずっと 過ごしていたからである。
「どうせいつもは二人だし、松山だって仕事でしょっちゅう家を空けるでし ょ。いろいろ顔が変わって楽しいわ」
 そういうものだろうか。老夫婦と言うにはまだうんと早い松山夫妻は、 そんなふうに自然に三杉を受け入れてくれていた。
「子供が増えたって感じ、するわね。たなぼたよね」
「――光栄です」
 他に答え方がわからず、三杉はただ苦笑した。どこかで聞いたような 理論である。松山の父が笑う。
「子供が増えるほうはよくても、親が増えるほうはたまらんよな、三杉く ん」
 三杉自身のスカウトによって、松山は武蔵に進学した。以来、松山は 三杉家の下宿人となり、彼らは同じ時を過ごしてきた。三杉の知らない 空間を抱えた異分子。松山はそんなふうに飛び込んできて、整然と流れ ていた三杉のサイクルを乱しまくった。それが三杉には不思議に快い刺 激となったのだったが。
 初めてこの家を訪れて、松山には松山の本来の地盤があったのだと三 杉は改めて実感した。では自分は、同じように松山に混乱を与えてきた のだろうか、と。
 静かな午後になった。
 晴れた空を渡っていく雲脚は早く、時おり太陽の前を通り過ぎる。その 影が風景の中を生き物のように横切っていくのを、三杉は2階の窓から ぼんやりと眺めていた。
「かぐさんやーい」
 階下で声がする。ちなみに、かぐさん、とは松山の母の名前である。
「ああ、三杉くん。君でもいいよ、その毛布取ってくれ」
 居間に下りて行くと、ベランダ側から身を乗り出して、松山の父が手招 きしていた。
 毛布、ではなくて膝掛けを三杉が取り上げると、松山の父は嬉しそうに ニッと笑った。
「冷えるとマズイんだろ?」
「はあ――?」
 膝掛けを受け取るが早いか、自分のショルダーを拾ってそのまま三杉 を外に連れ出してしまう。
「あ、あの…?」
「上空はけっこう寒いからな」
 相手の言うことをまるで聞いていない。誰かとそっくりであった。





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