幻に触れてみた。幻が、あまりにつらそうだったので。触れると、幻は、ちょっと微笑ん だ。つらいのだ、その微笑が。俺には。
――お前は誰なんだ。
――まぼろし。
 幻は俺の腕の中で震えた。
 朝になると、幻は、どこにもいなかった。










「そんなににらまないでほしーなっ」
「その声でカワイコぶるな。気味わりぃ」
「あぁー、ひどーい、若島津ぅ。俺、自分の声気に入ってんだぜ」
 そーかい、という目で反町を見、カバンを背にかつぎ上げた。冬の陽がまっすぐ顔を照 らし、目をそばめながら坂をゆっくり登る。始業まではまだまだ余裕があるのだ。
「で、さ。噂になってんの、知ってる?」
「何の」
「女の子達なんてさ、けっこう本気で怖がってんだぜ」
 だから何を、と詰め寄りたいところだが、ここで急かしては逆効果である。これが反町 お得意の人の悪いレトリックなのは十分わかっているのだ。
「寮の廊下の窓にさ、人の姿が見えるって。昼日中にだぜ。怪談にしちゃ、せっそーがな いと思わない?」
 噂とは元来せっそーがないと決まっているものだぜ、反町。
「でさー、でさー、そいつの顔が見覚えあるって、目撃者の証言があるわけ」
 反町がぐるっと俺の前に回り込んだのでしかたなく立ち止まる。反町は神妙な顔で俺 をじっと見つめた。
「それが、お前、若島津健にそっくりだって…」
 絶句する。もっとも俺の場合、外見的には変化はないはずだが。
「お前、生き霊になるシュミって、ある?」
「――お前こそ、この場で死人になりたいのか」
 反町はぶんぶん首を振ると、ネジを巻き切ったオモチャのように俺の前から弾け飛ん だ。その勢いで坂を駆けていく。忙しいやつだ。いつものことながら。
「怪談だと…?」
 見当違いの直感で後も見ずに飛び出しておいて、そのくせしっかり答えを出して駆け 戻ってくる。そんなやつだ、あいつは。
 教室に入るまで反町は顔見知りを誰かれなくつかまえては同じ話題を持ち出すことだ ろう。おそらく、その最後は日向さんだ。








 幻は、夜ごとに現われる。闇に立って、ただじっとこちらを見つめている。幻は、小さ い。俺が抱き止めると、そのまま溶けて消えてしまいそうだ。
――消えるな。
――俺、まぼろしだから。
 幻は、そう答えて微笑む。涙をこらえるように。
 髪に触れようと手を伸ばすと、幻はすっと身を引いた。そしてまた俺をじっと見つめる。  幻、俺はお前を知っているような気がするよ。







「若島津、今日、つきあえ」
 教室の入口に片手を突っ張って、日向さんはギッと俺をにらみつけた。
「言っておきますが、今日は期末考査3日前ですよ」
 当然、部活動は停止中だ。そろそろだ、とは思っていたが今回は早めだな。たいてい は前日、または考査1日目あたりに禁断症状が出ることになっている。
「昨日もやったんだ。空のゴールにいくら蹴ってもつまらん」
「キーパーいじめ…」
「お前に言われる筋合いはねえな」
 日向さんは柱に置いていた手をとん、と弾き返して姿を消した。
「いいな、第4グラウンドだぞ」
 がらんとした廊下からドスの聞いた大声が届く。他人の都合や思惑などお構いなし、と いうやつだ。俺はカバンを閉めて、あることに気がついた。第4グラウンド。それは寮から すぐ前に見えるコートではなかったか。









「なんだ、珍しいな」
 自前の派手なジャージを着て、反町はふふっ、と肩をすくめてみせた。
「お邪魔?」
 言いながらその場でとん、とんっと軽くジャンプする。最初からお邪魔する気なくせに。 「よーし、なら両サイドから行こうぜ」
 退屈しはじめていた日向さんが張り切る。
「きたねー! レギュラーのツートップが二人がかりはないだろっ!」
「特訓だ、特訓! 大会はあと1ヵ月だぞ!」
 関係者にはあまり見せたくないぞ。『試験の合い間のちょっとした息抜き』に本気にな ってしまってるとこなんか。
 俺はセーブのはずみで膝を擦ってしまい、思わず舌打ちをした。にらんだところでこの 二人に通じるはずもない。日向さんはいかにも楽しそうに肩を揺すると、反町にポジショ ンチェンジの合図をしてまたダッシュにかかった。
 パワーでは日向さんには及ばないものの、反町のゴール前でのボールに対する(ハイ エナとまで言われた)嗅覚は、『偶然』に見せてしまえる分だけ始末が悪い。
 右のインステップと見せかけておいて半歩分タイミングをずらし、それを小さなトスにす りかえる。反町の得意な一人時間差だ。
「こっちだ!」
 測って飛び出した目の前に大きな影が交差した。反町の回転をかけた低いシュートを 横から強引に押し込もうとして、俺とまともにぶつかる。
「キーパーチャージでしょ、日向さん!」
「へっ」
 日向さんは悪戯を見つかった子供のような顔で笑った。
「チャージのしがいのねえやつが言うんじゃねえよ」
 ゴングじゃないが、3時を知らせる校舎のチャイムが俺たちの『特訓』に終止符を打っ た。
「ほら、一番派手に蹴っ飛ばしてた人は誰でした?」
 俺が急かすと、日向さんはぶつくさ言いながらもグラウンドじゅうにまき散らしたボール の回収に駆けて行った。まだ動き足りない分を取り戻すかのように勢い込んで。
「ふあぁ、暖ったまった」
 反町は俺の横で大きく腕を上げて伸びをした。
「――あ、れっ?」
 と、そのまま動きがぴたりと止まる。俺は何気なくその視線の先に首をめぐらして、同じ ように絶句してしまった。
「い、今の――見たっ?」
「――ああ」
 俺は手にしていたネットをばさりと地面に下ろした。
「あれの、どこが俺だって…?」
「…違ったね」
 寮の窓から、その姿は既に消えていた。二人同時にゆっくり背後を振り返る。
「全然、違う――」
「おーし、これで全部だ!」
 フェンスまで転がっていた最後の1個をぽん、と頭上に蹴り上げて、日向さんがこっちを 向いたところだった。ヘッドで1回、胸でもうワントラップ、そして足元に……行く前にボー ルは俺たちにさえぎられて下に落ちた。
「な、何しやがる、てめえら !? 」
「日向さん、日向さんでしょ、これっ」
 反町はいきなり日向さんの腕をがしりとつかみ、下からすがるような目で見上げる。反 対の腕は俺が押さえているから日向さんも声を荒げるだけで動けない。
「生きてるよね――大丈夫でしょ、ねっ」
「――そ、りまち?」
 反町の口調はいつも通り冗談めいていたが、その目が本気になっていることに日向さ んもすぐ気づいたらしい。
「だから、何だってんだよ!」
 がなり立てながら、声に当惑が浮かぶ。
 日向さん、あんたには見えないんだ。あんた、自分が何を見ているのかが…。





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