悪徳弁護士シリーズ・2
NEUTRAL







「さっきはどーも」
 反町は事務所のキッチンをごそごそと引っ掻き回しながら愛想よく言った。
「俺だって気がついてたみたいだな、おまえ。さすが一流の悪徳弁護士」
「…あんな場所で無防備にフラッシュを浴びせるような奴が他にいるとは思えんな」
 井沢は書類から目も上げず、ペンを走らせ続けていた。
「言っておくが、仕事の邪魔をする気なら今すぐ出てってもらうぞ。俺はおまえをかくまう義務はな い」
「弁護士さんは信用第一。わかってるって。おまえは偶然通りかかっただけなんだよな。俺だって 偶然だぜ。仕事帰りにたまたまこの近くを通ったから寄ってみただけさ」
 井沢はここでようやく顔を上げ、ちらりと厳しい視線を反町に向けた。
「確かバルカン半島あたりにいると思ってたが」
「実はこれ、生き霊。おまえが恋しくて魂千里を飛んで来たのさ」
 勝手に入れたインスタントコーヒーのカップを片手に、反町は事務所の中を楽しそうに見回し た。都心のマンションの一室に贅沢になり過ぎない程度の床面積を持つ法律事務所は、主の実 務主義をそのまま反映して趣味の良い落ち着いた内装にしつらえてある。
 反町は応対に使うソファーに勝手に掛け、靴のまま両足を反対側のソファーに投げ出した。
「面白い話を聞いたんだよな。元麻布のじいさん、都知事選の推薦の件で一夜にして気が変わっ ちまったって」
「…」
 井沢は何の反応もせず、手を動かし続けている。
「何でも相当大きな金があっちからそっちに動いたらしいって話」
「珍しい話じゃないな。恩を売る側と、金を撒く側と、たまたま力関係のバランスが取れたほうに動 くのは当然だろう」
 デスクから静かに立ち上がると、井沢は右手の書棚にゆっくりと歩み寄った。
「珍しいって言うなら、おまえがそんな分野に首を突っ込んでる方がよっぽど珍しいんじゃないの か? いつ政治部に鞍替えしたんだ」
「俺、鞍替えなんてしないもんね。…俺はいつだっておまえ一筋だもん。おまえが動く場所が俺の フィールド」
 井沢は書棚からふと手を下ろし、真顔でこちらを凝視した。姿勢の良いスーツ姿の長身が、そ の一角にピンと凍るような印象を際立たせる。
「俺に文句があるならはっきり言ったらどうだ」
「俺は別に正義感がどーこーってのは気にしないよ。俺が興味あるのはさ、『事実』ってやつをま ーんまつかまえることだけだもん」
「で?」
「おまえは手強い」
 反町はニッと笑う。
「今さら俺が言うまでもなく、世間のみーんなが身にしみてるとは思うけど」
 井沢は無言のまま書棚に目を戻した。反町はカップを置いてスッと立ち上がる。
「表に出る派手な仕事は一切手掛けないかわりに、どこからどこまで全ての裏道抜け道を知り尽 くしてる。政界財界のおエライさん達の一番の急所を、容赦なくつついて立ち回る。どんな金も権 力もおまえを抱き込めない。おまえを飼い慣らそうとしたやつも、懐柔策を取ろうとしたやつも、鼻 先でぴしゃり!門前払いを食うだけだもんね」
「反町」
 棚からファイルを一冊手に取った井沢はそこでようやく振り向いた。
「おまえが勝手な想像で話を脚色するのは自由だが、俺はそれに律儀に付き合ってやれるほど 暇じゃないんだ。用件があるならさっさと済ませて帰ってくれ」
「用件…」
 反町の足が止まる。探るように相手の目を見つめていた視線が、くるくるっと動いていたずらっ 子の表情になった。
「俺が欲しい情報は一つきりだ。おまえが三ツ石グループ総裁に吹き込んだ話の中で、最後の融 資先に指定した会社さ。つまり、そこの筆頭株主がどこに繋がってるかってこと」
「あらかじめ用意しておいた類推に誘導するような質問は、らしくないな、ジャーナリストとして」
「職業的カン、って言ってくれよ。それに俺のカンはちゃんとエサをやればますます働き者になる んだぜ」
「エサ…?」
「都知事選の公示直前に三ツ石内で話題になった告発文書の出所、俺、つかんでるんだ。それ と先月経団連で2件続いた幹部の自殺、あれとの関係もね」
 井沢の目に微かに苦笑が浮かんだ。
「脅しか?」
「とーんでもない! 言ったろ? 俺は事実が知りたいだけだって」
「おまえのは単なる好奇心を超えてるぞ。フリーの身でヘタに踏み込むと潰されるのは自分だ、っ てことも考えろ」
「かもね」
 ゆっくりと歩み寄ってきた井沢を斜めに見上げるようにして反町は笑った。
「信じてくれないかもしれないけど、俺、自分でも持て余してんだぜ、この物好きな性格」
「もう少し結果と結び付けてくれるとこちらも助かるね」
 短い沈黙に、窓の外、はるか下の道路を過ぎて行くサイレンの残響が遠慮がちに割り込む。
「売るか? 特ダネ、にはほど遠いだろうがな」
 井沢の口調は穏やかだった。穏やかで、そして冷徹な凄みを秘めて相手を凍りつかせる、いつ もの彼の口調だった。反町はそれに動じるふうもなく、すっと手を伸ばすと井沢の眼鏡を勝手に 外した。
「自分を過小評価しちゃいけないなぁ。おまえの指はいつでも引き金に掛かってるんだ。そういう 物騒な存在を世間に知らせるのが俺の仕事なんだぜ」
「俺が、黙って潰されると思うか?」
 顔を寄せて、低くささやく。反町は目を細め、小さく笑った。
「一度くらい試してみるのもいいかなー、なんて」
「俺は仕事に私情ははさまんぞ」
 井沢の言葉は重なり合った二人分の影の中にゆっくりと飲み込まれた。長めの髪が落ちる肩に 反町の手がそっと回る。
「…俺もさ」
 唇の端からふっと熱い息が洩れたかと思うと、いきなり反町が叫んだ。
「いざわっ! これ、重い!」
 反町の背を抱いていたのとは反対の手に、黒表紙のファイルがしっかり握られていた。それが 二人の体の間で、重い障害物となっていたのだ。
「おまえって、こんな時も凶器を突きつけたままってわけ?」
「凶器…?」
 井沢は自分が手にしていたものを見下ろして初めてそれに気づき、笑い出した。
「そうかもしれないな」
 それは彼がこれまで関わってきた「公的な」仕事、つまり表の仕事をファイルした厚い判例集で あった。






「おまえといると、なんか心が安らぐんだよな」
「…」
「なんかこう気を許しちまうってゆーか、楽〜になれるんだ」
「…」
「なー、井沢」
 相手のすげない態度にもまったくめげず、反町は枕元までずり上がると、隣の男の手元を覗き 込んだ。
「それがおまえの寝酒(ナイトキャップ)? 面白いのかぁ?」
「ああ」
 井沢は本から目を離さないまま、ようや無愛想に返事を返した。
「おまえが余計な邪魔をしなけりゃもっと、な」
「…それ、日本語とは思えないぜー」
 井沢が手にしているのはさっき抜き出してきた判例集であった。そこに引用された「私的独占 の禁止および公正取引の確保に関する法律」、つまり「独禁法」の一節のことを反町は言ってい るのである。例えば第7条2項にいわく、
『事業者が、不当な取引制限又は不当な取引制限に該当する事項を内容とする国際的契約で、 商品若しくは役務の対価に係るもの又は実質的に商品若しくは役務の供給量を制限することに よりその対価に影響があるものをしたときは、公正取引委員会は、第8章第2節に規定する手続 に従い、事業者に対し、当該行為の実行としての事業活動を行なった日から当該行為の実行と しての事業活動がなくなる日までの機関における当該商品又は役務の政令で定める方法により 算定した(中略)課徴金を国庫に納入することを命じなければならない…』
「ううう、正気じゃないぜー、こんな文は! 俺の健全な頭脳は断固拒否するぞー!」
 横から拾い読みするにはヘヴィすぎるその文章に音を上げ、反町は毛布の中に再び沈没した。 「読む者のことを考えてんのか? ノーミソ腐っちまう」
「こういうものだからな、法律ってのは」
 井沢はそこでやっと本から顔を上げた。
「一般大衆に解らないところに有難みがある、という考え方だからな。そりゃ当然難解になる」
「きったねーの」
 それに対し、反町の主張は明快だった。
「おまえだけが悪徳かと思ってたら、法律ってものがそもそも悪徳なんじゃないか。ちぇー」
「それがわかったら、俺といると気が楽になるなんて言わないことだな」
 最後の「ちぇー」が多少ひっかかったが、井沢はやっと反町を黙らせて勝利感に浸った。独禁法 の力を借りたのはこの際やむをえないところだ。
 再び本に戻った井沢は平穏にページを読み進み始めた。が、それも束の間であった。いきなり 手が伸びてまたも眼鏡を奪われる。
「反町!」
「こっちのほうがいい男だぜ、いざわー」
 笑顔を向けられて井沢はため息をつく。日本語が通じないのはこちらが上手かもしれなかっ た。
「それにさ、忘れるとこだったけど、俺、愛の告白が途中になってたんだ」
「なにぃ…?」
「いざわ、愛してるよ」
 絶句して見つめ合う。これまで何度となく繰り返されてきた冗談とどう違うというのか。
「どこが」
「全部」
 反町はにこっと笑った。
「言ったろ? 俺、おまえといるとほんとの自分が出せるんだ。たとえ六法全書が俺たちの間に割 って入っててもさ」
「よく言うぜ。人の賞金首狙ってるくせに」
「うん!」
 反町は目を丸くして井沢の顔をじっと見つめた。
「でもおまえは絶対落ちやしないだろ。だからいいんだ」
「…?」
 何が「いいんだ」なのか…。だが今度の冗談はいつもより手が込んでいた。
「俺、さ、ニュートラルでいたいんだよ」
 ベッドサイドの淡い証明に横顔を浮かび上がらせて、反町はぽつんとつぶやく。
「ギアがかかってない状態…どっちつかずの宙ぶらりん、だからこそ俺は先に進めるんだよね。 俺、やなんだ。何かに深く関わっちまうのが。関われば、きっとそこから抜け出せなくなる。動け なくなる。そんな自分を憎んで、そして関わった相手まで憎んでしまいかねない」
「ふん、俺のことか」
「違うよ」
 反町は正面に覗き込んで両手で井沢の頭をはさむと、くしゃくしゃっと髪をかき混ぜた。
「おまえは俺を甘やかしちまうものな。俺がニュートラルでいても許してくれる。そうだろ?」
「…」
 間近に迫る瞳の暗闇が井沢をためらわせた。現実世界と関わりを拒むことで生き長らえてきた 彼の身中に唯一巣食う小さな空洞。反町はそんな罠なのだ。
「…井沢?」
 この笑顔が井沢は苦手だった。そして何より好きだった。いつ抜けられるとも知れぬ迷路が彼 の前に広がっている。もしかすると、いやもしかしなくてもいつか彼に致命傷を負わせることにな るだろう。
 井沢は密かに深く息を吸い込んで、ようやく声を出した。
「…俺はおまえに娯楽を提供するためにいるんじゃないぞ」
「だよね」
 反町はわざとらしくしかめ面をした。
「娯楽どころか特ダネすら提供してくれないもんな。こんなに愛してるのに…」
「言うな、もう。それ以上…」
 この迷路には最初から出口などないのだとしたら…。井沢は心の中で今夜何回目かのため息 をついた。





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