「さっきはどーも」
反町は事務所のキッチンをごそごそと引っ掻き回しながら愛想よく言った。
「俺だって気がついてたみたいだな、おまえ。さすが一流の悪徳弁護士」
「…あんな場所で無防備にフラッシュを浴びせるような奴が他にいるとは思えんな」
井沢は書類から目も上げず、ペンを走らせ続けていた。
「言っておくが、仕事の邪魔をする気なら今すぐ出てってもらうぞ。俺はおまえをかくまう義務はな
い」
「弁護士さんは信用第一。わかってるって。おまえは偶然通りかかっただけなんだよな。俺だって
偶然だぜ。仕事帰りにたまたまこの近くを通ったから寄ってみただけさ」
井沢はここでようやく顔を上げ、ちらりと厳しい視線を反町に向けた。
「確かバルカン半島あたりにいると思ってたが」
「実はこれ、生き霊。おまえが恋しくて魂千里を飛んで来たのさ」
勝手に入れたインスタントコーヒーのカップを片手に、反町は事務所の中を楽しそうに見回し
た。都心のマンションの一室に贅沢になり過ぎない程度の床面積を持つ法律事務所は、主の実
務主義をそのまま反映して趣味の良い落ち着いた内装にしつらえてある。
反町は応対に使うソファーに勝手に掛け、靴のまま両足を反対側のソファーに投げ出した。
「面白い話を聞いたんだよな。元麻布のじいさん、都知事選の推薦の件で一夜にして気が変わっ
ちまったって」
「…」
井沢は何の反応もせず、手を動かし続けている。
「何でも相当大きな金があっちからそっちに動いたらしいって話」
「珍しい話じゃないな。恩を売る側と、金を撒く側と、たまたま力関係のバランスが取れたほうに動
くのは当然だろう」
デスクから静かに立ち上がると、井沢は右手の書棚にゆっくりと歩み寄った。
「珍しいって言うなら、おまえがそんな分野に首を突っ込んでる方がよっぽど珍しいんじゃないの
か? いつ政治部に鞍替えしたんだ」
「俺、鞍替えなんてしないもんね。…俺はいつだっておまえ一筋だもん。おまえが動く場所が俺の
フィールド」
井沢は書棚からふと手を下ろし、真顔でこちらを凝視した。姿勢の良いスーツ姿の長身が、そ
の一角にピンと凍るような印象を際立たせる。
「俺に文句があるならはっきり言ったらどうだ」
「俺は別に正義感がどーこーってのは気にしないよ。俺が興味あるのはさ、『事実』ってやつをま
ーんまつかまえることだけだもん」
「で?」
「おまえは手強い」
反町はニッと笑う。
「今さら俺が言うまでもなく、世間のみーんなが身にしみてるとは思うけど」
井沢は無言のまま書棚に目を戻した。反町はカップを置いてスッと立ち上がる。
「表に出る派手な仕事は一切手掛けないかわりに、どこからどこまで全ての裏道抜け道を知り尽
くしてる。政界財界のおエライさん達の一番の急所を、容赦なくつついて立ち回る。どんな金も権
力もおまえを抱き込めない。おまえを飼い慣らそうとしたやつも、懐柔策を取ろうとしたやつも、鼻
先でぴしゃり!門前払いを食うだけだもんね」
「反町」
棚からファイルを一冊手に取った井沢はそこでようやく振り向いた。
「おまえが勝手な想像で話を脚色するのは自由だが、俺はそれに律儀に付き合ってやれるほど
暇じゃないんだ。用件があるならさっさと済ませて帰ってくれ」
「用件…」
反町の足が止まる。探るように相手の目を見つめていた視線が、くるくるっと動いていたずらっ
子の表情になった。
「俺が欲しい情報は一つきりだ。おまえが三ツ石グループ総裁に吹き込んだ話の中で、最後の融
資先に指定した会社さ。つまり、そこの筆頭株主がどこに繋がってるかってこと」
「あらかじめ用意しておいた類推に誘導するような質問は、らしくないな、ジャーナリストとして」
「職業的カン、って言ってくれよ。それに俺のカンはちゃんとエサをやればますます働き者になる
んだぜ」
「エサ…?」
「都知事選の公示直前に三ツ石内で話題になった告発文書の出所、俺、つかんでるんだ。それ
と先月経団連で2件続いた幹部の自殺、あれとの関係もね」
井沢の目に微かに苦笑が浮かんだ。
「脅しか?」
「とーんでもない! 言ったろ? 俺は事実が知りたいだけだって」
「おまえのは単なる好奇心を超えてるぞ。フリーの身でヘタに踏み込むと潰されるのは自分だ、っ
てことも考えろ」
「かもね」
ゆっくりと歩み寄ってきた井沢を斜めに見上げるようにして反町は笑った。
「信じてくれないかもしれないけど、俺、自分でも持て余してんだぜ、この物好きな性格」
「もう少し結果と結び付けてくれるとこちらも助かるね」
短い沈黙に、窓の外、はるか下の道路を過ぎて行くサイレンの残響が遠慮がちに割り込む。
「売るか? 特ダネ、にはほど遠いだろうがな」
井沢の口調は穏やかだった。穏やかで、そして冷徹な凄みを秘めて相手を凍りつかせる、いつ
もの彼の口調だった。反町はそれに動じるふうもなく、すっと手を伸ばすと井沢の眼鏡を勝手に
外した。
「自分を過小評価しちゃいけないなぁ。おまえの指はいつでも引き金に掛かってるんだ。そういう
物騒な存在を世間に知らせるのが俺の仕事なんだぜ」
「俺が、黙って潰されると思うか?」
顔を寄せて、低くささやく。反町は目を細め、小さく笑った。
「一度くらい試してみるのもいいかなー、なんて」
「俺は仕事に私情ははさまんぞ」
井沢の言葉は重なり合った二人分の影の中にゆっくりと飲み込まれた。長めの髪が落ちる肩に
反町の手がそっと回る。
「…俺もさ」
唇の端からふっと熱い息が洩れたかと思うと、いきなり反町が叫んだ。
「いざわっ! これ、重い!」
反町の背を抱いていたのとは反対の手に、黒表紙のファイルがしっかり握られていた。それが
二人の体の間で、重い障害物となっていたのだ。
「おまえって、こんな時も凶器を突きつけたままってわけ?」
「凶器…?」
井沢は自分が手にしていたものを見下ろして初めてそれに気づき、笑い出した。
「そうかもしれないな」
それは彼がこれまで関わってきた「公的な」仕事、つまり表の仕事をファイルした厚い判例集で
あった。
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