「で、では、彼は切り捨てろと !? 」
「誤解なさっては困ります。私は可能性の一つとして挙げただけです。その中からどれを選択する
かはあなたのお気持ち次第でしょう」
「う、うぬぅ…」
思わず椅子から浮かしかけた体をまた重く沈み込ませる。額に滲み出す汗をハンカチで何度も
こすり、会長は言葉を絞り出した。
富士山を間近に望む広大な敷地に、その洋館造りの別邸はあった。都心から車で1時間少々
とは信じがたいほど、緑の自然は手付かずのまま残されている。ハイウェイのインターチェンジは
近いものの、ここの主の意向で別荘地やカントリークラブ等の開発は巧みに遠ざけられていたか
らだ。
だが屋敷の一室では、その高原の清澄な風とも隔てられた重く暗い空気が澱んでいた。
「しかし、それではリスクが大き過ぎやせんかな」
「こうなった以上はいずれにしてもリスクを避けることはできません。ご自身も多少泥を被ることは
覚悟なさらないと」
「た、多少って君…。多少で済むと言うのかね」
どこか魚のそれに似た大きな目がぎょろりと動いた。だがそれは長年に渡って強大な力をふる
ってきた権力者の象徴では既になかった。
「…幸い彼は有能な男です。各方面でその実力を発揮していましたからね、それだけあなたの選
択の幅も広がるわけです。最も遠く、最も影響の少ない対象を選ぶことです」
指が静かにチャートの一点を指した。
「ぐっ、しかし、井沢君、これは…!」
「政治資金のルートというものは元来不透明なものと決まっています。暴露すればまわりまわっ
て自分が困ることになる連中ばかりですからね。取り立ててあなたの銀行だけに矛先が向くわけ
ではありません。融資先についてはあくまで書類上の名義で通せばいいでしょう。国税局のほう
は私から手を回しておきます」
「…」
青ざめた顔で声もなく見つめる相手に、井沢はまっすぐ視線を留めた。
「名を残すか実を残すか、です。もちろんそれを選ぶのはあなたご自身というわけですが」
彼は文字通り震え上がった。強制はしない、という柔和な笑みの中に底知れぬ威圧感がある。
「う…、そ、そうだな。わかった。すぐ手を打とう」
細かく震える指で電話のボタンを押す。別室で待機していた秘書はすぐに出たようだ。鬱血した
ような色の唇がわなわなと動き、短い言葉を低く取り交わす。井沢はそれには背を向けて庭を見
下ろす窓辺に立った。
重く垂れこめていた雲間からわずかに陽光がこぼれ始めている。その光を呼び込むような楽し
げな笑い声が遠くで弾けていた。子供の声らしい。確か会長は子供もみな独立して、夫人との二
人暮らしだったはずだが。井沢がそう思った時、背後から声が掛かった。
「折り返し、東京から電話が入る。い、いや、単なる形式だが一応理事会を通したということにし
ておかんと…」
「お立場はお察ししますよ」
笑顔で応じられて会長の顔がさらに青ざめた。言葉に詰まり、それから落ち着きなく視線を背後
に投げる。
「…さ、まあこちらに掛けたまえ。どうだね、一杯喉を潤しては…」
「いえ、せっかくですが、そろそろ失礼する時間ですので」
棚に手を伸ばしてブランデーの瓶を下ろしかけた会長が、ぎくりと井沢を振り返った。
「や、まさか、井沢君。冗談だろう。まだ状況がどう動き始めるか見守っておらんと…。せめて今
夜一晩はうちで…」
「これ以上私で役に立てるようなことはありませんよ。既に開幕ベルは鳴ったんです。あとは座っ
てご覧になっていてください」
「き、君…!」
コートを取って袖を通しかける井沢に、会長はあわてて声を掛けた。
「じゃ、どうだろう。また日を改めて一緒にゴルフにでも…」
「あいにくですが、私はゴルフには興味がなくて…」
会長の意図は明らかだった。非常事態だったとはいえ、内情を見せ過ぎたのだ。そんな相手を
むざむざ手放すような真似は、今後のことを考えても危険極まりない。とにかく内部に取り込むこ
とだ。そう考えたのは無理もない。これまでも何度となく顧問弁護士として迎える話を断られてい
るだけに。
「では早いうちに一席設けよう。閣僚の歴々も揃うんだ、君も顔を通しておいて損はあるまい。あ
あ?」
ゴルフ、料亭での接待。いずれも財界の中枢と政治権力を結ぶパイプの確認作業である。そこ
に顔を通させる、というのだから断る理由はないはずだ。
「お気遣いは有り難いですが、所定の報酬さえいただければそれ以上のことをしていただく必要
はありませんよ。口が固いのは弁護士の職分ですから、ご心配なく」
井沢は胸ポケットから手帳を取り出した。
「今回の相談料ですが、例の債権の名義書き換えという形で手を打ちましょう。あちらの団体に
顔を立てたいとお考えならこちらが得策かと思いますが」
「君ぃ…」
渡された振り込み先のメモを呆然と見下ろして会長はうなった。が、井沢の姿は厚いドアの向こ
うに消えた後だった。
「か、会長…!」
隣室から秘書が青い顔で飛び込んできた。
「どうします。あれは…!」
外部に洩れるはずのない極秘の一件であった。露見を恐れて数年間の凍結を図り、いわゆる
ほとぼりの冷めるのを密かに待っていたのである。
「現在の評価額は !? 」
「変動相場での概算ですが…」
メモの走り書きを渡す秘書の手が震えた。その桁数を一瞥して、会長は息をのむ。
「これを…渡さないなら…というわけか」
今度こそ、選択の余地はないようだった。
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