悪徳弁護士シリーズ・3
CAT STYLE

















「そりまちぃ………」
 ベッドに突っ伏したまま、微かな声がもれてくる。
「コーヒー、入れてくれ…」
「贅沢言ってんじゃないの。余計気分が悪くなるぜ」
 水の入ったグラスをサイドテーブルに置いて、反町は井沢の脱ぎ散らかしたコートと上着を横目 で見た。
「冷血な悪徳弁護士の名が泣くぞー。そんな悪酔いしちまってさ」
 視線をまた井沢に戻す。都内にいくつかある井沢の住居の一つ、オフィスからそう遠くないマン ションの一室であった。
「酒には強いくせに、そんなにされちまうなんて、噂以上の女だな、その『霞澱』のママってーの は」
 銀座のクラブで約束した相手はついに現われなかった。代わりに待っていたのが接待役の重 役たちで、結局井沢は自分自身がその会合のターゲットにされていことを悟ったのだった。
「まーた懲りずにおまえを手なずけようとしたわけか。金で動かないなら女、なんて、おまえもずい ぶん見くびられたもんだ。ま、もっともあの女は色気を売り物にするには大物すぎるけどな」
「どんな女でも同じだ。悪酔いさせてくれるって点では…」
 井沢はごろんと寝返りを打って仰向けになった。まぶしそうに顔をしかめて、枕元のグラスにち らっと目を向ける。
「まーたまた、そーゆーコト言ってるから女が泣くんだぞ。このマダム・キラーめ」
「余計頭が痛くなるようなデタラメ言うんじゃない!」
 ベッドの脇に立って楽しそうに見下ろしている反町に腕を振り上げようとする。むろん届くはずは ない。が、反町は大袈裟に飛び退いてホールドアップをした。
「わかったわかった。おまえは酒にじゃなくタヌキの毒気に酔ったんだよな。海千山千の古ダヌキ と百戦錬磨の大ギツネの対決か、さぞすごかったろーなあ」
「………」
 井沢は目を閉じた。今、無理に動いたせいでめまいがしたのだ。…いや、それとも原因は別口 か…。
 財界に大きな影響力を持つフィクサー、それが嶺明会会長Yであった。当然と言うべく政権の 裏側で権勢を振るい、歴代首相で彼の息のかからない人事はなかったとさえ言われている。先 年、選挙制度改革の嵐が吹き荒れた時も、この人物の一声で法案が一つ、そして閣僚が一人闇 に消えたのである。
 今夜の招待主は、そのYとは密接な関係にあるさる建築最大手の有力者だった。Yに関わる金 の流れはその大半が彼の手を通していると言われるほどで、票田の管理に始まる政界との仲介 役を任されている。長く忠誠を守ってはいるが、それはあくまで互いの利害関係の範囲内に限ら れていることは間違いなかった。井沢の評判をどういうルートから聞きつけたかを考えても、生易 しいい招待でないことはわかりきっていたのだ。
 が、井沢にすれば新しいネズミ穴を一つ確保することになる。労せず、とまでは言わないまで も、まさに向こうから飛び込んできた千載一遇のチャンスだった。
「おまえが、ここで待ってるとは思わなかった…」
 沈黙の後、ゆっくりと息を吐く。
「そう?」
 井沢の頬に、気配が伝わった。指が冷たく触れてくる。
「俺のこと、誤解してないか、井沢。俺はいつだっておまえのこと忘れたことないのに」
「どこが誤解だ?」
 井沢は目を開くと反町の手をぐいっと引いた。
「誤解でもしてないと、おまえとはやってられないからな」
「ありがと」
 別にほめたわけではないのだが。
「俺のこと、的確に誤解してくれるのはおまえくらいだよ」
「…で、なんで消えなかった」
 鋭い視線で下から睨み上げる。が、至近距離でそれを受けても、反町はただニッと笑い返した だけだった。
「だって、面白そーだったから」
 独特の嗅覚を持った男である。何かが起こりそうな場所には決まって現われる。それも井沢が らみなら必ず。
 2日前、突然電話がかかってきた。反町は成田に着いた早々、土産があると伝えてきたのだ。 ここ数ヶ月世論を騒がせてきたある政治スキャンダルが、一人の男の国会証人喚問でクライマッ クスを迎えようとしていた、その矢先のことである。
「俺は協力者だぜ。切り札をおまえに渡しに来たのに…」
「話をもっと面白くするためにな」
 取った手をゆっくりと捻り上げるようにしながら井沢は体を入れ替えた。今度は自分が上から覗 き込む形になる。反町はしかしそれに抗することもなく、ただくるっと目を動かした。
「井沢、ありがとうは?」
「それはあと」
 強引な力に押さえ込み、あとは一気に飢えを癒す。
 忘れていた感触がその高まりとともに全身に蘇る。頭痛とめまいが非現実的な空白を生み、井 沢はその渦の中へと意識を解放した。
「ちょ…、いざわ…?」
 声はもう遠い。
「…っと、もうちょい、紳士的に…」
「少し黙ってろ」
 時間の澱みが、いつしかすべてを押し流し始めた。
 今、彼の腕にしなやかに捉えられ、息づいているのは、冷たい指先と冷たい唇を持った、まぎ れもない実在感だ。
 だが、自分自身の実体はどこにあるのだろう。名を捨て、現実を捨て、彼はこの世界に生きて いる。誰も触れることのない闇の奥に本当の名前を隠し、昼間の光に怯えながら暮らす、魔のよ うに。
 狩られる前に狩ればいい。それが井沢の方法論だった。現に彼は常にそうやって生き延びて きた。魔は自らの正体を影に封じ込める。その『ほんとうの名前』を知られない限り、何者も手出 しはできない。
 だがそんな彼を恐れるふうもなくその前に立ちふさがる者がいるのだ。……おまえの『ほんとう の名前』を知ってるんだよ…と笑いながら。
「そりまち…!」
 目を見開くと、いぶかるように彼を見上げる闇色の瞳とぶつかる。乱れる息に耐え切れずに身 じろぎをしながら、その闇は彼自身を覆い包む。
 しかしそれは恐怖ではない。不安感でもない。なぜなら「正体」が彼の弱味ではないからだ。
 敵から身を守るためにではなく、自分自身を欺くために魔であり続ける。…確かに、そのはずだ った。
 呼ぶエネルギー、そして引き戻そうとする力。
 狂おしい熱の反復の中で、井沢の思考は言葉のない深淵へと沈んで行った。






「………?」
 奇妙な喪失感にはっとなって目を開いた。ベッドの中は空になっている。
 窓に下ろしたルーバーの隙間から青ざめた光が漏れていた。早朝のひんやりとした静けさがそ の外から伝わってくる。
 まだぼんやりした頭のまま、深く息を継いだ。…突然その匂いに気がつく。そう言えばさっきか らキッチンで物音が響いていたのであるが。
「反町?」
 頭を上げてその姿を探す。広いワンルームの反対側、モダンアート風のスクリーンで隔てた向 こうから鼻歌が流れてくる。
 井沢はいぶかしみながら身を起こした。微かな頭痛が彼を現実に引き戻す。
「いざわー?」
 鼻歌の続きのような軽さで名前を呼んで、反町はスクリーンの陰からひょいと顔を出した。その 手に泡立て器を持っている。
「おまえはラッキーなやつだぞ。昨日、極上のコチュジャンが手に入ったんだ」
「なんだって…?」
 キッチンのカウンターテーブルに恐る恐る近寄った井沢はその光景にぎょっとなってしまった。
「反町、これは……何なんだ !? 」
「朝メシ」
 という日常的な言葉ではとうてい表現しきれないような状況がそこにあった。
「おまえが、作ったのか、これ…」
「ああ、新婚さんみたいだろ」
「…どこがだっ!」
 テーブルから落ちんばかりにあふれている皿。そしてそこに盛られた多国籍風料理の数々。刺 激的な熱い匂いと異様に派手な原色がその空間に渦巻いて、一斉に自己主張しているのだ。井 沢は思わず一歩後ろに下がる。
「…俺は、二日酔いなんだぞ」
「大丈夫。及ばずながら俺も手伝ってやるから」
 それにしても、の量である。
 井沢は当惑顔でテーブルを見渡して、どこかに常識への手掛かりを見つけようと必死になった。 「…これは?」
「コフタ。ネパールのミートボールカレーだよ。そっちのスープは四川料理の酸辣湯(スワンラータ )。野菜とか色々入ってるから」
 いわゆるどっちも真っ赤っ赤状態であった。
「そこのはイランのホレシテバーデンジャンって言って、マトンとナスの煮込みだ。向こうのタマネ ギのスライスがかけてあんのはチラキレス。トルティーアをエンチラーダソースで煮てあるんだ。メ キシコのふつーの料理だよ」
 メキシコではふつーかもしれないが、ここは日本だ。反町は解説しながらパクパク口に運んでい るが、井沢にいきなりその真似をしろと言うのは酷と言うものだった。
「そのキムチは買ってきたんじゃないぜ。俺が漬けたんだ。去年の冬に仕込んでおいたのがその 流しの下にあるから、いつでも遠慮なく食ってくれ」
「い、いつのまにそんなことを…!」
 確かにこのマンションに反町を連れて来たのは今回が初めてではないが、来たとしても2回が せいぜいだったような。主の知らぬ間に、すっかり台所に寄生してしまったらしい。
「俺、アジアのあっちこっち歩いてるからな、うまいものは覚えてくるんだ」
「…見事なもんだ」
 箸を止めて井沢はぽつりとつぶやいた。辛さに対する耐性はある程度はあるが、さすがに現地 仕込みは違う。
「これは全部、旅行先で女に教わったわけだな。どういう旅だったか、詳しくは聞かんが」
「まーまー。妬くなよ、井沢。土地に馴染むには食い物とスキンシップが一番ってこと」
「誰が妬くか!」
 二日酔い弁護士は珍しくホットになっていた。たぶん、大量のスパイスのせいだろうが。
「座れば?」
 反町はにっこり笑って相手を振り仰いだ。
「もうごちそうさまするんなら、デザートにライタが冷やしてあるから」
「……」
 黙ってしまったのは、大声を出すと息を吐くたび火を吹いているような気分になったせいであ る。反町はその沈黙を勝手に解釈したらしい。またどすんとスツールに座ってしまった井沢の前 に、よく冷えたライタ、すなわちインドの野菜入りヨーグルトデザートを置いた。ちなみに味のほう は、ヨーグルトの酸味とハチミツの甘み、さらにハーブ類がたっぷり効いて実に本格的なのだっ た。
「ゆうべのタヌキ御殿のもてなしが何だったかは知らないけど、その毒消しにはこれくらいやっと かないとな、井沢」
「……」
 毒をもって毒を制す、という言葉が一瞬頭をよぎった井沢であった。
「それより、肝心な話がまだ出てないようだが?」
「そうだっけか?」
 朝っぱらからグラスに白ワインを注いで……もちろん無許可で出してきたものだ……反町は優 雅に香りを楽しんでいた。
「証人喚問は今日の午後からだ。おまえの言う切り札は、そいつに間に合うのか?」
「どうせエサはもう撒いてあるんだろ?」
 反町はグラスから顔を上げると片目をつぶった。
「ゆうべのご招待も、おまえの動きを牽制するためだったわけだしぃ」
「だから?」
 どこからともなく嫌な予感が暗雲となって井沢の頭上に渦巻き始めた。それを振り払うように、 あくまで冷たく促す。
「切り札はもう自分の足で歩き始めてるよ。国会議事堂に向かってね」
 反町は両手を交差させて右と左を指し示した。
「長野の山の上でナチュラリスト暮らしをしてるのを、無理やり引っ張り出したんだ。俺の苦労を評 価してくれよな」
「……おい!」
 まさかそれは、彼らと同年代の、かつての井沢のチームメイトで、この反町に劣らず他人のペー スを平気で踏みつけていける異次元性格をした、あの男…?
「おまえたち、いつのまに結託したんだ?」
 昔の恋人と今の恋人が鉢合わせするほど間の悪いものはない。…いや、これはあくまで喩えだ が。
「合理主義なんだよな、俺たち、二人とも。自分さえよければ多少の犠牲には目をつぶる、ってわ け」
 それは合理主義とは言わない。
「それに俺たち、仲がいいんだぜ、昔から。知らなかったのか?」
 井沢は知らなかった。知るはずもなかった。
 遠い山の上、エンジニアとして電力会社の研究室にいる滝とは、もう7、8年顔を合わせていな いのだ。
「で、会いたい? あいつと」
 ワイングラスを差し出して、反町は真顔になった。

〔つづく…〕




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