悪徳弁護士シリーズ・3
CAT STYLE

















 2階のホールでは記者会見が始まっている頃だった。
「明日も雨らしいね」
「じゃあコンペは延期か」
「あそこのコースはいまいちラフが深いのが難点だな」
 声高に話しながら、中年の客が井沢の後ろを通ってバーを出て行った。その2人の分だろう、 グラスを片付けて戻ってきたバーテンに、井沢はハイボールのおかわりを合図した。
「俺にも、同じのを」
 間髪を入れず、背後に雨の気配が立った。
「コートくらい、脱げよ」
「まあな」
 振り返りもせずに無愛想な声を掛ける井沢だ。しかし滝はそのまま隣のスツールに腰掛けた。 トレンチコートにわずかに付いていた水滴が、その動きで小さく弾け落ちた。
 バーテンは無表情に井沢の分を置き、続いて滝の前に同じクリスタルのグラスを置いた。氷が カラン、と鳴ったのを、滝は表情を嬉しそうに崩して覗き込む。
「とりあえずは元気そうだな、こんなゴミだらけの環境に住んで、ガツガツ働きすぎてるわりには な。たまには山のいい空気吸って暮らせよ。性格も改善されるかもしれないぞ」
 大学を出て、滝はしばらく日本から姿を消していた。1年後にはしっかりと大手電力会社に就職 を決め、研究所員として堅実にキャリアを積み始める。代表として最後のオリンピックに出たのが ちょうどその頃だ。
「おまえを見る限り、山の効果も怪しいがな」
「それもそうだ」
 滝はニッと笑い返して、目の高さまでグラスを挙げた。置かれたままの井沢のグラスにカチンと 合わせてから口に運ぶ。
 よく陽に灼けた肌と気の強そうな目付きが、見る者には精悍な印象を与える。以前より短めに なった髪もその気紛れな髪質は相変わらずなのか、天に向かって突っ立ち気味だ。
「めでたい席にわざと背を向けて、一人シケた顔で飲んでるんだからな。腕利き弁護士とは思え ん暗い性格だ。今さら山の空気くらいじゃどうにもならんか」
 滝は一息で半分ほども飲み干すと、隣の井沢の顔を無遠慮に覗き込んだ。
「おまえ、さっき俺のこと誰かと間違えなかったか?」
「……」
 井沢はじろりと睨み返す。仕事の時なら、いや、プライベートでも他の人間にならいつもの完璧 なポーカーフェイスで応じただろう。しかし滝にはそれが通じない。井沢はそれを十分知ってい た。
「俺がここで約束通りの時間にやって来ても、おまえは誰か別のヤツを期待するんだよな」
「勝手に決め付けるな」
 井沢は言い捨ててグラスをぐいっとあおった。そんな様子を滝は苦笑混じりに見る。
「会いたいと言ったのはおまえのほうだぞ、井沢」
「…一応、礼だけは言っておきたかったんでな」
「ふーん? 礼を言われるような覚えはないけど…」
 滝の目が微笑に細められた。
「俺は会社の出張でこっちに出てきただけだ。上司から預かった書類を届けにな」
 その「出張」が、結果何をもたらしたかは、今日の夕刊で第一報が伝えられ、夜のニュースを賑 わせた通りである。
 証人喚問で野党の委員が最後に示した一通の証拠書類は、そこまでぬらりくらりと追及の手を かわしていた証人を絶句させ、同じ衆議院席にいた一人の人物を青ざめさせた。
 井沢が裏で手を回していた2つの別方向の工作は、それによって一気に加速し、ほとんど闇討 ち状態で相手の致命傷を突くことになった。喚問からわずか数時間で某企業のトップ人事が発表 され、井沢には予定外の実益が密かにもたらされた。さる閣僚一派への点数を稼ぐとともに、彼 の動きを警戒していた嶺明会側の疑惑をかわすことになったからである。
「ウチの会長も、なかなか出不精でね。公共事業とか色々めでたい話が持ち込まれても逃げ腰 なんだ。この不景気に、もう少し社員の幸福を考えてほしいもんだぜ」
「どんな弱みにつけこんだかは知らないが…」
 井沢はグラスを静かに置いた。
「現場の一研究員にしてはずいぶん強力で有効なルートを確保しているもんだな。おまえの噂は 一部では尾ひれもついてすごいもんになってるぞ。あちこちの大物をウィルス並みに恐怖させて るってな」
「そりゃ俺じゃないことだけは確かだ。俺は間違いなく現場の一研究員だって」
 滝はバーテンに手を上げて、次の一杯を頼んだ。
「こういう都会暮らしは俺には合わないよ。あれこれ周囲に気を使って、押したり押されたり神経 を尖らせて暮らすのは向いてないってこと。専門バカばっかりの小さな研究所で、てきとーにやっ てるのがいいのさ」
「言ってろ」
 井沢は短く吐き捨て、自分もグラスをあおる。その横顔を、滝は頬杖をついてにやっと眺めた。 「おまえは昔から意地を張る奴だったからなあ。代表の件だって、あんな四角四面に考えずに気 楽に顔出せばよかったんだ。第一、我慢は体によくないぜ」
「何が言いたいんだ」
「そんな青っちょろい顔でストレスをメシがわりに食ってばかりいると、そのうち爆発しちまうってこ とさ。何もガキの頃みたいに闇雲に走り回れってことじゃないけどな、もう少し……そうだな、自分 を素直に見てみろよ。今のおまえは、体のどこか半分が凍りついたままって感じだぜ」
「…ここが、な」
 井沢は無表情に自分の胸をとん、と叩いた。
「そう言いたいんだろ? だけど俺は自分を騙してるつもりはない。これはこれで俺の本当の姿 だ」
「…翼は、今でも、翼のままだぞ」
 滝はまっすぐ言葉を口にした。沈黙が、ピン、と張り詰める。井沢も正面に向き直った。
「だとしたら、それが、俺の免罪符ってわけだな」
「馬鹿野郎…!」
 伸ばした腕は井沢の胸をぐいっと押し返す。
「おまえみたいな根性曲がりのガンコ者は見たことないぜ」
 睨み付けておいて、滝はスツールから身軽に降り立った。コートの襟元を直してから、片目をつ ぶる。
「もっとも、ベッドじゃ素直だったがな」
「…滝!」
 別にうろたえたわけではないが、ほら、人目というものもあるのだ。
「今日はおまえの奢りだろ、当然。じゃ、ごちそーさん」
 言いたい事だけ言って背を向けた滝は、数歩行きかけてから思い出したように振り返った。
「そうだ、今晩、あいつを借りるな」
「えっ?」
 今度こそ驚く。だが滝の表情は屈託がなかった。
「あいつって…?」
 そう、もちろんあいつである。
「どういう意味だ」
「どうもこうも、そのまんまの意味だが」
「…滝」
 バーの入り口で睨み合う長身の2人は、はっきり言ってとても目立った。
 皇居に程近い一流ホテルである。客層もそこそこということになるが、さすがに好奇の目を意識 せざるを得ない。井沢はつかみかけた胸倉をしかたなく放した。
「そちらのお客様」
 ずっと一言も発しなかったバーテンが、思いの外通る声で井沢を呼んだ。
「お電話が入ってますが…」
 井沢がここにいることを知るのは、この滝の他にはいないはずだ。
『井沢…!』
 受話器を取った井沢の耳に、予想していた通りの声が響いた。しかし心なしかあわてている様 子だ。
『そこに、滝がいるだろ?』
「おまえはな、どういうことなんだ!」
 どんな意味があるにしろ、この二人につるんでいてほしくないというのが井沢の本心だった。そ の分、口調が乱暴になる。
『いやー、それがさ…』
 隠そうという気はないらしかった。
『俺、今、ここのホテルの9階にいるんだけど、二人とも、そんなとこでグズグズしてるとヤバイぜ ー』
「なんだって…?」
 さっぱり状況が見えない。滝が不思議そうに近寄ってきた。
「9階にいるって言ってるぞ」
 誰が、は言うまでもないということか。
「俺が泊まってる部屋だが」
「おまえ、抜け抜けと…!」
 だから、その決着は後回しと言うことで…。
『井沢!』
 受話器が叫んだ。
『そこの、バーテンに頼んで、裏口から逃げるんだ、とにかく急いで!』
 目を合わせると、バーテンは無言でカウンターの端を指した。井沢に続いて滝がくぐり抜けたそ の瞬間、バーのドアが少々乱暴に開く。
「………」
 カウンター越しにバーテンとやりとりする低い声が二人の耳にも届いた。
「さあ、こちらです」
 男たちが去っていった後、バーテンは身を屈めて隠れていた二人に声を掛けた。
「この奥はメインダイニングの厨房になっています。そこからルームサービス用のエレベーターを 使ってどの階にも行けますから」
「ありがとう」
 事情がどう通じているのか追及する余裕はないが、とにかく感謝する。
「なあ、連中、おまえを捜してたよな」
 エレベーターが上昇し始めるとすぐ、滝は内ポケットを探って黒い手帳を出した。
 さっきのやり取りには「若い弁護士」「髪を束ねたスーツの男」という言葉が確かに出ていた。そ して彼らの身元を推し量る名前も。
「『霞澱』って、例のクラブだろ? そこのやつらにしちゃ、意外性があったけど」
「さあ。心当たりがありすぎて、よくわからんな」
「嘘つけ。シッポをつかませないって点では定評があるって聞いてるぞ」
 こういうコンビネーションは……思い出したくはないが……まさしく小学校から大学まで飽きず に付き合った成果というべきだろう。井沢もめげずに話題を変える。
「…ところで、さっきから、それは何だ」
「ああ、アンチョコだ。反町に渡されてな」
「なるほど」
 自分の知らないところでずいぶん親密にやってくれるではないか。言っているその内容はわか らないが、それだけはしっかり納得する。
「さあ、この階だ」
 宿泊者用のエレベーターと違って、この小さな業務用エレベーターは人目につかない通路に面 していた。廊下をそっと窺ってから、二人は足早に目的のドアに歩み寄る。
「先に入っててくれ。あいつがいる。俺はチェックされてないはずだから、ちょっと上の様子を見て おくよ」
 カードキーを手渡しておいて、滝は廊下を先に進んで行った。階段室を目指しているらしい。と にかく質問すらさせてくれない状況に腹を立てながら、井沢は客室のドアを開いた。
「こら、反町!」
 クローゼットの並ぶ前を過ぎてベッドルームに入ると、滝の言葉通りの先客がいた。
「何なんだ、一体、これは…」
「へへ」
 反町は大きなバスルームのタオルでしきりに頭をごしごしやっているところだった。鼻の頭に、 黒い汚れがちょんと付いたままだ。井沢の出現にも悪びれるふうはなく、笑顔を向けてくる。
「何を企んでる! 二人して、こんなところでこそこそと」
 おっと、もう少しで「こそこそと」の代わりに「いちゃいちゃと」と言うところだった。危ない。
 案の定、反町の笑顔がぱっと輝く。
「ふーん、井沢、やっぱり嫉いてんだ」
「なにをー!」
 30男が二人揃って何をやっているんだか。すぐにノックがあって、滝が迎え入れられたが、そう でなければ恐ろしい光景が繰り広げられるところだった。
「おい、おまえが汚れるのはいいが、部屋を汚すなよ。シャワーでも浴びて来いよ」
「はーい」
 これがまた楽しそうにバスルームに消えるものだから、井沢の機嫌はさらに悪くなってしまっ た。わざとやっているのは見え見えなのだが、それがわかっていても腹が立つ、ということらし い。
「そら、井沢、こっちに来いよ」
 滝は、そんな井沢の不機嫌を気にするふうもなく、手を振った。ツインのベッドの並ぶゆったりし た部屋である。壁際にはソファーも一列に置かれている。その脇のデスクに、小型の黒い端末機 のようなものが乗っていた。
「電子手帳? ノートパソコンか?」
「…しっ、聞いてろよ」
 側に寄ると、なるほどボソボソと低い音声が聞こえていた。スピーカーを内蔵しているようだ。 『……だから信用はできないという証拠じゃありませんか。現に、あの男の周辺にはよく見えない 動きがある…』
『だが、あの手腕と人脈は使わない手はないぞ。金額で折り合いがつかないなら長期戦になって もいい、とにかくじっくりと交渉すべきだ』
「褒められてるぞ、井沢」
 滝がこそっと耳打ちする。
「盗聴器か!」
 井沢も目を見開いた。
「俺の、ハンドメイドだ。回線(ライン)への接続は反町の専門」
「ふーん…」
 平然と答える滝を、井沢は冷たい目で見返した。そういう協力体制ができあがっているとは、聞 き捨てならない話ではないか。
 しかし、その時である。
『もうっ、何をぐずぐず言ってるの! とにかくここに連れて来ればいいの。あの坊やは私に夢中 なんだから、後は私に任せておけば済むのよ!』
 井沢はソファーによろりと倒れ込みかけた。
「ほぉお、ずいぶん威勢のいいオバサンだな。勘違いにもパワーがみなぎってる」
「や、やめてくれ…、想像しただけで吐き気がする…」
 タヌキ御殿の女主人、いや、『霞澱』のママはそんな井沢の苦悩をよそに、なおも声を張り上げ ていた。
『センセイには報告する必要はないわ。記者会見が終わったら、副社長からそれなりに話が行く でしょうしね。坊やを落としておいてからでも十分よ』
『あ、でもですよ、今日の記者会見に同席するはずだったのが現われないんです。下のバーで見 かけたってのも確かめに行ったんですが見つからない。何か妙な真似をされるとセンセイにもコト が及びますし…』
『ふふ。センセイだって私から見れば口輪をはめられた番犬でしかないわ。この上、あの坊やを 手に入れれば、会長サンだって黙っていられないはずよ』
 なかなか強気な方である。美貌でも鳴らした存在だったらしいが、年齢という重みを付け加えて からは、政財界に張り巡らせた蜘蛛の糸を存分に操ってなかなかの地位を確保しているとか。そ んな女性に坊や坊やと連発されては、井沢も泣くしかない。
「まあまあ、例の会長からの使いがもうすぐ彼女に会いに来ることになってる。その時におまえを エサにする予定だったらしいが、それは諦めてもらってだな、とりあえずその会見をチェックしよう ってわけだ」
 滝はフロッピーを指先にはさんで見せる。
「それがおまえたちの収穫になるってことか…」
「俺も手ぶらで山に帰るのは寂しいからな。反町はまた別の利用法を考えてるらしいし」
「どうせそうだろうさ」
 治ったはずの二日酔いがぶり返してきた気分だった。井沢はこめかみを押さえ、息を深くつく。 「しかし、あの女の『誤解』はどっから来てるんだ? 昨夜さんざん色目を使ってきたのは事実だ が、俺の態度からそんな気楽な結論を出すほど頭の軽い女じゃないと思うが…」
「おお、鋭い!」
 背後からめでたい掛け声が響いた。バスローブをひっかけただけの反町が裸足で歩み寄る。 「おまえがさ、お上品ぶってはっきり拒絶してやんなかったから、かわりにラブコールしてやったん だ。あのタヌキがコロリとひっかかるんだから、おまえも罪な奴だぞ」
「なんだと!」
 振り返りざまガバッと反町につかみかかる。
「まさか…おまえら、それは本当なのか !? 」
「井沢ぁ、だめだよー。滝がいる前で、そんなことしちゃ」
 両肩をつかまれたままの姿勢で、反町は笑顔で伸び上がると井沢の耳元に唇を寄せた。「そん なこと」をしているのは自分のほうである。
「俺は知らんぜ」
 滝は横目でそれを見ながらにやにやしていた。
「道具立てはそれぞれで準備してから落ち合ったんだからな。俺はキカイ、反町は空巣、そして おまえはオバサン、ってわけ」
「俺は…!」
「隠しても無駄だぞ。昨夜おまえはわざとつかまっておいてあの連中にあることないこと吹き込ん でおいたんだ。おかげであの女は歩く時限爆弾さ。暴発に巻き込まれるのは一体誰になるか、だ な」
 沈黙が流れる。しばらく険しい目をして口を結んでいた井沢は、やがて諦めたように反町から手 を離した。
「なるほど、さっきのバーからの逃亡劇は、おまえらの演出ってわけか。連中を浮き足立たせるに はいい材料かもしれんが、俺まで巻き込むってのはどういうことだ?」
「それは簡単だな」
 滝は自信たっぷりに言った。
「おまえが巻き込まれがってたからさ」
「なに?」
「さっきのおまえはけっこう楽しんでたぜ。少なくとも、どっかに押し込めてたものが一瞬ひらめい てたじゃないか。あの目は、昔のおまえの目だった」
「そんなことは…」
 井沢は言葉を飲み込んだ。その前に、滝はゆっくりと立つ。
「なあ、井沢、やっぱりおまえは働き過ぎだ。なまじ頭が優秀なせいで、一度にあれこれ動かし過 ぎてるぞ。クールダウンしなくちゃ」
「……」
 強情な肩に手を置いて、滝はニッと笑いかける。
「翼が帰って来るんだ。知ってるだろ?」
「あ、ああ。トヨタカップだろう。でも故障してて、試合には出ないとか…」
「表向きはな。ほら、若林さんが怪しまないためにさ」
 あっさりと答えた滝の言葉に、さすがの井沢も声を上げてしまう。
「まさか、あの八百長疑惑が… !? 」
 今年の欧州代表に決まっていたクラブMは突然の八百長スキャンダルでその代表の座をフイ にしてしまった。繰り上がって出場することになったのが、若林の所属するバイエルンFCである。 偶然のいたずらとは言え、大空翼と若林源三という日本の二大スーパースターがトヨタカップとい う舞台で激突するのである。スポーツ紙上で話題になっているのは井沢も当然知っていたわけ だが。
「翼が、あれに細工をしたってのか?」
 滝はいたずらっぽく肩をすくめただけで、肯定も否定もしなかった。
「若林さんはそれを疑ってるけどね。なにしろFIFAの対応があまりにタイミング良すぎたし。とに かく翼は今度の対決には全然こだわってないらしい。若林さんがどう思おうとな。だから、チーム より早く来日して、別の場所を確保する気なんだ」
「別の場…」
 呆然と、井沢は繰り返した。今、やっと、滝の言わんとしていることが見えてきたのだ。
「反町っ !! 」
 いきなり矛先が向いてきて、ベッドの上で夕刊紙を広げていた反町は目を丸くする。
「おまえ、今回は自分が部外者だと思って、こういう手で来たんだな!」
「そんなぁ、誤解だよ、井沢。何も静岡代表OB選抜と日本A代表がテストマッチするからってさ。 そりゃ俺はどっちにも入らないし、そう言えばおまえは当然静岡のメンバーになるし……でも、そ れは考えすぎだって」
 残念ながら顔が笑っている。
「…よーくわかった。反町、早く服を着ろ。帰るぞ!」
「えー、せっかくシャワーまで浴びたのに」
「何考えてるんだ、おまえは!」
 さっきからずっと大声を張り上げっぱなしの自分にはっと気がついて自己嫌悪に陥ってしまう井 沢であったが。
「なんかずいぶん元気になったよね。滝に会えたせいかなー? 翼が来るまで、俺、逃げないよ うにずっと一緒に暮らしてやるよ。でもってスタミナ料理を毎日作ってやるからね、井沢」
 反町の言葉はあくまで無視する。
「おい、滝。上の盗聴器はあのままにしておいていいのか?」
 ビジネスはビジネス、プロ意識はさすがであった。
「ああ、わりと見つけやすい所にセットしてあるんだ。むしろ盗聴されたことを自覚しておいてもら いたいんでね」
 今回の成果を、ゆすりたかりといった単純犯罪に使うのではないことを匂わせる。とんでもない 電気技師もいたものである。
「フロッピーは後でコピーして送るよ。まあ、実際のとこおまえにとってはこんな小細工はオマケ みたいなもんだろうが、一応協力の礼としてもらっといてくれ」
「ああ、ありがたくいただいておく。確かに、レクリエーションとしては面白かった。そいつは認める よ」
 滝の盗聴器はますます賑やかに鳴り響いている。どうやら両者の会合は不調に終わりそうな気 配である。肝心の獲物、井沢を結局逃したのだから無理もない。
「じゃあ、帰る」
「ああ、おまえもほどほどに長生きしろよ」
 握手はせず、目礼だけで別れた。
「焼けぼっくいも、いいもんだろ、井沢?」
「何のことだかわからんな」
 反町はその冷たい横顔をちらっと見ておいて、くくく、と忍び笑いをした。
「井沢、あいつの前だと、けっこう素直」
「そう見えるとしたら、おまえの根性が曲がりまくってる証拠だ」
 深い絨毯を踏んで、二人は廊下を行く。記者会見に集まっていたプレス各社も、もうずいぶん前 に引き揚げたはずである。
「いーのかなぁ? そんなこと言ってて。再来週だぞ、翼が帰ってくるのは。それまでにあのタヌキ のオバサン、追っ払える?」
「…う!」
 収まるところに収まったと思っていた中で、唯一解決していない問題が残っていたのである。
「がんばってね、井沢」
 誰のせいだったかは、ころりと忘れているらしい反町だった。





【END】



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作者コメント:
この二人だけの関係に第三の男が登場してしまいまし た。滝はいつの間にか「長身」になっております。バリバ リの攻めに育った模様です(笑)。もともとこの人は私の 中ではジョーカー的な役割をしてもらってるので、この二 人の関係においても混ぜっかえし役がいいかと。声まで 反町と同じというのはあくまで偶然ですけど。