SUMMER DAY DREAM











 失恋の痛手というものは、時に少々の時差を持つこともあるらしい。たとえばそ れは、あとからじわじわと効いてくるカウンターパンチのように。
 そして俺の場合、時差は少々を通り越して3年目の夏にやってきてしまった。手 酷いパンチだった。
「おい、バテるには早いぞ、井沢」
 タオルがどこからともなく飛んできて、うつむいたままの俺の頭に見事に着地す る。
「深呼吸したら、立て」
 そのコントロールと同じくらい正確かつ無慈悲な言葉だった。ユース代表の合 宿は、梅雨明け早々の酷暑の中で連日続けられている。合宿の課題はただ一 つ、スタミナ、なのかもしれないと思い始めているのは俺だけじゃないはずだ。
「なんだよ、さっきから、ミスの連発」
 どうかしたのか、という言葉をあえて出さずに、滝はまっすぐな視線で見下ろ す。こいつには嘘やごまかしが効かないのだ。
 だから俺は、その時思っていたことを正直に口に出した。
「幽霊って、昼間にも出るのかな」
「…なんだって?」
 滝は自分のタオルから顔を上げた。
「見えないはずのものが見えたりするのって、病気か何かなのかなぁ…」
「おまえ、日射病、か?」
 滝はいきなり俺の頭に手を乗せる。俺はため息をついた。地面に目を落とし、 埃っぽい土の色をじっと眺める。
 滝に指摘されるまでもなく、俺の調子は最悪だった。体調という意味ではなく、 そう、メンタルな意味で。
 幻覚っていうのは、確かに病気だと俺も思う。自覚があるだけ、まだ初期症状 なのかもしれないが。
「なあ、滝。…やっぱり、アレ、見えない?」
「アレって…?」
 俺が顔を上げて指し示した方を滝も振り返る。その方向には、チームのメンバ ー達がめいめい固まって、それぞれにわずかな休息を取っていた。滝は一応そ っちを見たが、不思議そうにまた俺に向き直っただけだった。
『おーい、井沢、早く早く!』
 滝の沈黙が、すなわち俺への返答だった。俺がふざけているのか、それとも本 気で重病なのかを見極めようとしているのだ。黙って、じっと黙って俺を見つめ る。そのすぐ後ろを駆け回る気配には、まったく見向きもせずに。
 その場の誰もが足を止めて佇んでいる中で、たった一つ動いている影。そして 足音。
『こっちだよー! 井沢、パス!』
 俺は肩のあたりから力が一気に抜けるのを感じた。
「見えないんだな、おまえも」
「井沢…?」
 滝は俺の視線をたどるように、もう一度後ろを振り向いた。
 青空の下、照りつける太陽の光の中でボールがぽーんと宙に上がる。そして落 下してきたそれを両手に受け止めた翼が、俺の視線に首を巡らせてにこっと笑い を返した。
 俺たちより少し若い、…そう、3年前の、中学生時代の翼だ。
「おまえ、疲れてんのか? それとも…」
「違う」
 俺はまたうなだれた。
 向こうで笛が鳴る。休憩は終わりだ。滝を置いて、ともかく俺は走り出した。これ 以上は説明しても無駄なのだ。
 その俺の横を、軽い足音が並んでついてくる。
 なじんだ気配。いつも俺と一緒にいた気配が。
 俺は知っている。病気だとすれば、心当たりは一つしかなかった。
「待てよ!」
 滝の声が、少しの間をおいて追って来た。
「おまえ、ひょっとして、恋わずらいじゃねーの?」
 振り返った先に滝の視線があった。その視線の鋭い色に、俺の胸はぎくりと鳴 った。
「…なななんで?」
「わかるさ。おまえのは毎年決まってこの季節にぶり返すことになってんだ。今年 はちょいと重症みたいだけどな」
 この季節に、毎年…? 俺はあっけにとられた。だが滝にはしっかり確信があ るらしかった。
「あいつを思い出す季節だしな。ほら、誕生日だろ」
 滝はにんまりと笑いを見せた。
「おまえも律儀な体質してんのな。渡り鳥並みだぜ」
「……」
 そうだ、こいつはこういうヤツだった。俺の知らないことまで俺のことを知ってい る。その強引さときたら、長年付き合ってる俺でも時々あきれるほどだ。
「…俺は、いい友達を持ったよな」
「だろ?」
 嫌味が通じるわけもなく、滝は平然と先に走り出した。他の連中もトラックに集 まり始めている。
『井沢? 行こうよ』
 背後で明るい声がする。ボールが俺の頭の上を高く越えていく。くすくす笑う声 が、他の連中が走っていくその中からはっきりと聞こえてきた。振り向かなくても わかる。翼は俺を呼んでいるのだ。
 フィールドの、その先へと。
 病気だ。俺はどうかしてるんだ。幻覚だとわかっていても、翼が俺のそばにいる ことが嬉しいなんて。
 真夏の真っ昼間の怪奇現象。
 俺の事件は、そんなふうにどんよりと後ろ向きに始まったのだった。









 失態はまだ続いた。夕食の時だ。
 配膳カウンターでめいめいに自分のトレイを受け取り、好きな席に座る。そんな 決まりきった手順すら頭から消えるほど俺はすっぽ抜けていたのだ。
「そこ、俺の席なんだけど」
「え!」
 いきなり背後から声を掛けられて俺は我に返った。見れば既にトレイが置いて ある場所に自分のトレイが二重駐車されている。俺はそのトレイを抱えるように 持ったままでぼーっと座っていたらしいのだ。
「あ、ご、ごめんっ!」
「いいけどね」
 振り仰ぐと、しょうゆ差しを手に提げた反町が立っていた。
「そんなにその席が好きなんなら、どーぞ」
「いや、そーゆー…」
 俺が言い訳するより先に、反町は自分のトレイをすーっと滑らせて空いていた 隣の席に移動させてしまった。そしてあっさりと座る。
「眺め、いいもんね、そこ」
 手を合わせてから、反町はさっさと食べ始めた。俺はぎょっとする。俺の正面に は日向がいて、はしを止めてこっちを見ているのだ。変な奴、という顔で。
「……」
 そして気づく。反対側の隣には、若島津が座っていることに。こちらを見るわけ でもなく、ただ黙々と口を動かしている。
「い…いただきます」
 俺は観念した。一つ向こうのテーブルで滝があきれたようにこっちを見ているの がわかったが、今さら移動もできないし、とにかく食事をすませるしかない。
「はい、しょうゆ。使う?」
 反町が渡してくれたしょうゆを小皿に取ると、目の前に手がぬっと伸びてきた。
「さっさとまわせ」
 これでも日向にしては穏当なほうなんだろうが、俺の居心地の悪さは既に食欲 を完全に上回ってしまっていた。はしは動かしているものの、味はほとんどわから ない状態だ。
「食わないと、余計つらいぞ」
「…あ」
 隣からの声にはっと我に返ると、東邦組はもう食べ終わって立ち上がるところ だった。俺はと言えば、皿はまだ半分も片付いていない。トレイを持ち上げながら そう言ったのは若島津だった。
「じゃーね、お先」
 反町が片手をひらひらさせている。日向はもうとっくにその先を歩いていた。
「あいつら、すげー早食い。寮生ってああなんのかねえ」
 滝が高杉にささやいている声が聞こえてきた。
「井沢、おまえ、ケンカでも売る気だったのかぁ?」
 まだ東邦の3人組が廊下あたりにいるはずなのに、石崎はいつもの大声を何 の遠慮もなく張り上げた。
「ち、違うよ。ちょっとぼーっとしてたみたいで…」
「よせよせ石崎。井沢は疲れがたまってきてんだろ。刺激もたまには必要だっ て」
 見当外れにかばってくれているのは来生だ。しかしもちろん俺はそれに感謝す るほどの余裕はなかった。
 そして、滝の意味ありげな視線に気づく余裕も。










「まあ、そこに座れ」
 しかつめらしく滝は言った。
 ふだん、やつはこういう押し付けっぽい言い方はしない。俺はそこに何か引っ かかるものを感じた。自分のペースを押し通すタイプではあるが、他人のペース にまで口出しをすることはない奴なのだ。
「カウンセリングか…?」
「そうかもしれん」
 滝はやけに慎重だった。部屋に一つっきりの椅子を俺に勧め、自分は窓とベッ ドの間を落ち着きなく往復する。
「おまえの力になれるといいんだがな」
「……?」
 俺の前で、滝は足を止めた。俺をまっすぐに見下ろす。
「不憫な奴だって、ずっと思ってた」
「ありがたいね」
 話が見えないまま、正直俺は少し気を悪くし始めていた。昼間の練習の時もそ うだったが、議論はスタート時点で既にすれ違っていたではないか。
 同情は、それに、幽霊には通用しない。
「でも…、まあよかったな、井沢」
 いきなり、滝はそう言った。確かにそう言った。
「おまえが自分で出した結論なら、俺たちには異存はない。…いや、積極的に応 援してやってもいい。邪魔じゃないならな」
 俺の目は点になったはずだ。
「滝……?」
 明らかに、滝は自分の言葉に酔っていた。と言うより、自分の置かれた立場… …友情に貫かれた自己犠牲?……に酔いまくっている。
 だが問題は、その滝の言葉に思い当たるものがまったくないということなのだ。
「どうだ? まあ相手のあることだからな、俺たちで手引きしてやってもいいし、ど ういう手で迫るか知恵を出し合ってもいい。できる限りのことはするからな」
「だからだな!」
 俺が大きな声でさえぎったものだから、滝はちょっと意表を突かれたように顔を 上げた。目を丸くして俺を見る。
「さっきからおまえ、何のことを言ってるんだ? 相手って、一体…?」
「そうか、井沢、悪かったよ。デリケートな段階なんだな。いや、俺たちだってわざ わざ騒ぎ立てようなんて気はないんだ。そう照れなくてもいいぞ。黙ってろって言 うんなら、もちろん黙っててやるさ」
 絶句というのはこういう状態を指すに違いなかった。俺は口を動かしかけて、そ れでも言葉は一言も出てこなかった。目だけが、滝の背中を追っていく。
「じゃあ、俺たちにできることがあればいつでも言ってくれ。それまではあえて手 出し口出しはしないから」
「…滝」
 俺はようやく息を吐き出した。酸欠寸前になっていた。
「一つだけ聞いておきたいんだが」
「ん?」
 滝はようやくカウンセリングモードから普通の会話に戻ったようだった。
「俺の…恋わずらい、相手は誰なんだ?」
「反町だろ」
 あっさりと、それはもう当然といった顔で、滝は即答した。俺は硬直する。
「そ…、な、な、なんでっ?」
 目を丸くして俺を見返した滝は、すぐに同情したような笑いを見せた。
「今さら照れんなよ。おまえ、ずっとあいつを見てたじゃないか。厄介な相手だけ ど惚れちまったもんはしかたないからな。まあ、あまり思い詰めない程度にやれ。 応援するから」
「違う、滝!」
 俺の叫びは結局奴には届かなかった。友情に酔いながら、滝はさっさと出て行 ってしまったのだ。
 俺は特大の疑問符と共に取り残されてしまった。
……俺が、反町を見てたって? ずっと?
 見えない翼を一人で追っていた俺が、反町だろうと誰だろうと他の奴に関わる 余裕はなかったはずだ。まして、惚れるだなんて。
 俺は翼を忘れられない。
 そればかりか、幻まで見るようになって。
「やっぱり、病気だ」
 俺は、ベッドにどさっと倒れ込んだのだった。






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