「井沢、おはよう!」
「あ、ああ」
 また暑くつらい一日が始まった。朝一番のメニューはとにかくランニング。体と頭
を目覚めさせるためだ。
 その俺を追い越しざま声をかけていったのが反町だった。反射的に返事をしか
けたものの、なぜか俺はうろたえている自分に気づく。
 滝のせいだ。昨夜、あんなことを言い出すから、変に意識してしまうじゃない
か。全然、誤解だってのに。
 俺は前を走る反町の背中に目をやった。そう言えば、いつもこいつはどこにい
たっけ。ポジションは同じ中盤ながら、俺はディフェンシブだし反町はフォワードの
位置まで常にカバーしているオフェンシブハーフなのでフィールドの中でもかぶる
ことはない。
 いや、それ以前に、興味がないのだ。何人もいるチームメイトの一人。俺にとっ
ての反町はそんなところでしかない。
「よっ、ちゃんと起きてるか?」
 いきなり背中をどやしつけて、滝が追いついてきた。
「夢見てんじゃないぞ。しっかり目を開けろよな」
「ばーか」
 俺は気にせず走り続けた。たくさんの声と、たくさんの足音が俺の周りを埋め
る。俺は耳を澄ませて、たった一人の気配を待つのだ。
 一人だけの軽い足音。そしてくすくすと笑いながら俺を呼ぶ声。
 まっすぐ前だけを見て走り続けていても、俺の耳には必ずそれが聞こえてくる。
 そう、いつもなら。
「まさか…」
 俺は初めて周囲を見回した。俺と同じように走っている見知った顔がいくつも目
に入る。だが、その中に翼はいなかった。いなくて当たり前の翼は、やっぱりいな
かった。











 合宿もようやく日程の3分の2を終え、ここで練習試合が組まれた。プロの2部
相手に、まあ圧勝といかなくても余裕の点差がつけられて、監督もコーチ陣もか
なり満足だったのか、俺たちに臨時に一日のオフをくれた。たまっている疲労をこ
こで吐き出させようということでもあるのだろう。
 だが、そこまで品行方正な人間ばかりではない俺たちは、試合後あたりからア
ルコールが紛れ込んでたらしい…という言い訳を用意しながら、まあちょっとした
宴会になだれ込んだ。
 羽目を外しすぎる奴もなくて、まあまあの状態でお開きになったのだが、一人、
俺だけがまあまあですまなくなってしまった。つまり、途中でひっくり返ってしまっ
たのだ。
「ほらほら、ちゃんと自分の足で歩けってば!」
 背中から回された腕に支えられて、俺はやっとドアの前にたどり着く。が、ドアノ
ブをつかもうとして手が滑り、結局足で蹴って開けてもらうことになった。
 たいして広くない部屋に並ぶベッドが2つ、その先にソファーが1つある。テレビ
も置いてあるが、監督命令で各部屋のテレビは使用できない。1階の休憩室か、
ミーティング用の小会議室のテレビを共同で使うことになっているのだ。
「どっちだ、おまえのベッドは」
「…ごめんなー、反町」
 どうしたはずみか、近くにいたせいなのか、俺を連れて来てくれたのは反町だっ
た。俺が答えられないので反町はとりあえず近いほうに下ろすことにしたらしい。
「水、飲めば?」
 バスルームから水道の音がして反町が戻ってきた。コップが俺の前に突き出さ
れる。
「で?」
「……」
 俺は手だけ伸ばしてそのコップを受け取った。
「話があるなら、付き合うけど?」
 酔いつぶれた相手に言うような口調ではなかった。反対側のベッドに浅く腰掛
け、ごく当たり前に返事を待っている。
 俺はうつぶせたまま、なんとか頭だけ動かした。
「嫌な奴だな、おまえって…」
「それほどでもないよ」
 反町は楽しそうに目を細めた。
「酒に弱い、って感じの飲み方じゃなかったもん」
「………」
 俺はごろんと仰向けになって、天井に目をやった。最悪の気分だったのは事実
だが、確かに酔いつぶれていたわけではなかった。
「話がある、っていう以前の段階なんだ」
「そう?」
 反町は黙って待っていた。待たせていることであせったり負担になったりしな
い、そんな待ち方だった。
 部屋の中に静かな時間が流れる。
「滝に聞いたのか…?」
 宴会も終わって、みんなそれぞれ部屋に戻ったはずなのに、滝は来ない。つま
りそれは、そういうことなんだろう。
 俺の言葉を聞いて、反町はにやっと笑った。
「病気なんだって、慢性の? て言うか、夏ごとに変になるって」
 滝め、そんなことまで…。
「お節介ってゆーよか、ある意味律儀なんだろな、あいつって。おまえのこと心配
してんだ、マジで」
 まわりくどい方法より、ずばり直接交渉、というのが滝のやり方だ。様子を見る、
なんて俺には言っておきながら、しっかり反町本人に話しているじゃないか。
「見えないはずのものが見えて、そしたらひょっとして逆に、見えるべきものが見
えてないのかもしれないとか、そんなふうに混乱してくるんだ、俺、いつも」
「だろうね」
 説明しようとして、自分でも意味不明なことを口にしていたかもしれない。
 が、反町はやけに冷静だった。俺はちょっと意外な気がして、もう一度改めてそ
の顔をまじまじと見る。
「そういうのが恋の病ってもんだろ。滝も言ってたけど」
「あ、あのな、反町。これだけは言っとかないといけないんだけど…」
 俺は泡を食った。勝手に誤解した滝から話を聞いたってことは、反町もその誤
解をしているってことになる。
「俺がそのぉ、おまえのこと特別な気持ちで見てるとか、あいつ、言ったかもしれ
ないけど、それ、誤解なんだ。あいつが勝手に思い込んで…」
「ふうん」
 反町の目がくるくるっと動いた。
「思い込みか、へええ…」
「だから、迷惑かけたけど、ごめん」
 寝転がったままの格好で謝ってもあまり誠意は感じてもらえないかもしれない
が、と思いつつ、俺は頭を下げた。
「そっか、病気だもんね。思い込みね」
「反町?」
 俺の話が理解できたんだろうか。と思わず危ぶんでしまいたくなるくらい、反町
は楽しそうにうなづいていた。
「そういう思い込みって、いいもんだよね」
「は?」
「俺さ、そういう病気って治らないと思う。しー、治さなくてもいいと思う。無理やり
にはね」
「何言ってんだ、おまえ…?」
 思わず上半身を起こしかけた俺を、反町は笑顔で見下ろしている。
「だって、俺のこと、ずっと見てたじゃん?」
「え?」
 反町は自信たっぷりという口ぶりでそう言った。
「それがおまえの病気だとしても、おまえが何を見たかったにしても、実際に見て
たものは俺だったんだ。違う?」
「そんな、まさか…!」
 俺は必死になって翼の顔を思い出そうとする。いつも俺を呼んでいた声も、姿
も。
 なのに、俺の頭はがんがんと鳴るばかりで、記憶がどこか遠くへ行ってしまった
ように霞んでしまう。酒のせいなのか、それとも…反町の言う通りなのか。
「見とれてたんだろ」
「馬鹿言うな」
 頭痛を押さえながらぶっきらぼうに返事すれば、こいつは逆に嬉しそうに反応
する。
「じゃあ、あいつと、比べてたんだ…」
「反町!」
 がばっと跳ね起きて、俺はやっとまっすぐに顔を合わせた。憤慨に、言葉がもつ
れてしまう。
「似てなんかいるもんか、絶対だ! …あいつは呼んでも応えない、振り返ったり
しない。自分が誰かを呼ぶことはしても、誰かに呼ばれることはないんだ!」
「ふーん」
 反町は少し目を丸くして、誘導尋問に引っかかった俺を見つめた。
「それを確認してたってわけ? 俺が、あいつとは別の人間だってことを」
「おまえって、とことん……!」
「うん」
 反町は動じない。俺のもつれた抗議も勝手にほどいてしまったらしい。
「だってさ、俺、おまえに言われるまで、あいつと似てるなんて自覚、全然なかっ
たもん」
 俺の顔がここで少し紅潮した。もちろん、酒の影響ではない。会話のペースが
一方的すぎて追いつけないのだ。
「俺がいつ、そんなことを言ったって言うんだ!」
「…ずっと、顔に書いてあった」
 襟首を取られた苦しい体勢のまま、しかし反町は笑顔を見せる。俺は睨みつけ
ようとして、それからぷいと顔をそむけた。手から力が抜けたすきに、反町はする
りと抜け出す。
「……」
「井沢?」
「やっぱり、俺は見えてなかったんだ。見えてないってことすら見えてなかったん
だ」
 何を、と問う顔が俺をじっと見つめている。
「自分に見えてないものが何だったのか、俺は自分じゃ全然気がついてなかっ
た。滝が、おまえの名前を持ち出すまで俺はおまえを見さえしてなかったんだ」
 反町は俺が顔をそむけたままなのを見ると、こちらのベッドに移って来て腰を下
ろした。
「俺も聞いておきたかったんだ。おまえが用があったのは、俺だったのか、あい
つに似た誰かだったのか、ってさ」
「…俺はきっとずるくて卑怯なんだ」
 答えはとっくにわかっていた。それを自分の胸にだけ秘めていたのは…。
「口実なら、それもいいかもね」
「反町…… !? 」
 そしてその答えがどちらであろうと結論は同じだ、と反町は言っているのだ。俺
は、もう一度改めて、間近に相手の顔を見つめた。
「何か、ためらう理由があんの?」
「…ない」
 短く吐き出すと同時に、俺は両腕に反町を引き寄せていた。顔を埋め、ただ抱
きしめる。
「口実は、これから見つける。今は、考えない」
「井沢…」
 俺が顔を上げると、反町は自分から唇を寄せてきて、そっと、触れるだけのキ
スをした。
「結末とさ、結論は別モノなんだよ、たぶんね」
「反町…」
 言葉はもう出てこない。そして、俺は本当に、もうためらわなかった。










「まあ、俺は寛大だからな」
 何を威張ってるんだか、滝はコーヒーのカップを片手に振り上げてそう断言し
た。
「おまえがどうしても感謝したいって言うのを敢えて断ったりはしない。確かに、俺
の誕生日はもうあとちょっとだけどな」
「何言ってんだ、まったく」
 自分のコーヒーをぐるぐると混ぜながら、俺は下から睨み上げる。もちろん滝は
そんなことでひるみはしないが。
「これで夏の誕生日アレルギーは治りそうだな、井沢」
「…治らなくていいって言ってたけど」
「え、誰がかな」
 わざとらしく滝は耳を寄せてきた。
「いいだろ、別に」
 バレバレでも認めるのは悔しいのでしらばっくれる。滝はにやっと笑うとコーヒー
カップをテーブルに置いた。
「それって当たり前さ。反町も誕生日なんだから。翼と2日違いだって」
 初耳だ、そんなの。俺の不意を突かれた表情が受けたらしく、滝はさらに上機
嫌になった。
「元カレ、前カレ、今カレ、みんな誕生日が近い、っていいねえ。一気に合同誕生
パーティ、なんてね」
「やめろ」
 ますます食欲が失せてくる。二日酔いでそうでなくてもコーヒーが精一杯だとい
うのに。
「おはよ! 早いね、お二人さん」
 いいタイミングで話題の人物が顔を出した。朝のダイニングルームはまだ人影
はまばらである。
「なんだぁ、それだけなの、朝ゴハン。さみしー」
「誰のせいだよ」
 俺は反町のそのあまりにあっけらかんとした態度に少々むくれながらつぶやい
た。
「俺のせいじゃないもんね。井沢、自業自得」
「おまえはまたよく食うんだな」
 滝が伸び上がって呆れたように言う。
 反町のトレイは朝食メニューのありったけ、という状態になっていた。コーンフレ
ークとミルク、アジの開き、納豆、目玉焼き、トマトサラダ、ヨーグルト…。
「昨夜、体力使い果たしたもんで、エネルギー補給しとかないとね。ねっ、井沢」
「…知るか」
 俺は頭を抱える。幻覚が現実にスライドしても、俺の苦悩はまったく解決してい
ないじゃないか。むしろ…。
「俺の人生、先が思いやられるよ」
 座っている滝、そして立ったままの反町が同時に顔を見合わせた。そして愛を
込めた目で揃って俺に笑いかける。
「よかったね、井沢」
「………」
 夏の朝の太陽は今日も元気だった。俺の視界をいっぱいにさえぎって、窓の
外、ギラギラと暑い一日を予感させている。
 カウンターパンチは、決まって後から効いてくるのだ。





【THE END】






<< BACK | MENU


作者コメント:
これも「まぼろし」シリーズの一つ、と言えなくもないです が、実は悪徳シリーズの二人のなれそめのつもりもあっ たりします。つまり井沢の危惧する未来はもうそっちにし っかり書かれているんですね。かわいそー。世間的には 井沢×反町は少数派らしいので、あまり大きな声では 言えませんが。滝が微妙な発言をしていますが、井沢と この人との実際の関係はあまりうのみにしないほうがい いでしょう(笑)。