悪徳弁護士シリーズ・4
HOLD ME IN YOUR ARMS











 湿度を含んだ空気に、微かなムスクの香がからみつくように漂っている。女がくるっと頭を振る と、長い黒髪が肩越しに流れ落ちた。
 首都の郊外に広がる緑に包まれた邸宅。その庭の一角にひっそり建つコロニアル式のコテー ジに、密やかな朝が訪れていた。
「…驚いたわ」
 ラタンのシェード越しに差し込んでくる光の、その細い縞模様の中で女は身を起こした。くすっと 笑いを漏らしてベッドの縁に座り直す。
「私の故郷の言葉を、片言でも話せる人に会えるなんて」
「やーらかいなあ…、気持ちいい…」
 反町は背後から手を伸ばして女の髪に触れた。名残惜しそうにその一筋を口元に当て、目を 閉じる。
「こういう香りって、好きなんだ」
「香りだけ?」
 女は反町の手を柔らかく振りほどいて顔と顔を向き合わせる。
「あなたの恋人は香水もつけないの?」
「んー、たぶん、メイクはしない主義みたいだよ」
 悪びれるふうもなく、反町は笑顔を見せた。本人が聞いていたらさぞ腹を立てることだろう。
「変な人ね、ほんとに」
 女は立ち上がると、腰まで届く髪をくるりと巻いて丸く止めつけた。窓のシェードの向こうには、 睡蓮の池が朝の反射光にざわめいている。
「ねえ、あなた本当はなに人なの?」
「日本人だよ」
「嘘ばっかり…」
 女は声を上げて笑い、それからふと口を結んだ。
「帰るところはない、って、ゆうべ言ったわね」
「そうだっけ」
 部屋を横切っていく女の背中を、反町はじっと目で追っていた。シルクのローブの長い裾が、動 きにつれて軽くひらめく。前夜の華やかなパーティの場では見せなかった別のなまめかしさだっ た。
「私、わかるわ。あなたは足元に場所を持たないタイプだって。…そう、猫みたいにね」
「…猫?」
「ええ、家にはつかないで人につくのよ、猫は。あなたも、帰る家がないとしても、きっと帰る人は いるんだわ」
 振り返った女は口元に笑みを浮かべている。切れ長の目に宿るのは、確かに亜熱帯の空気、 モンスーンの湿り気だ。
「私の故郷は…」
 鏡にまた向き直って女は一瞬息をついた。
「ここからずっと北の、国の外れ。開発も経済発展も届かない山奥。私みたいに飛び出して来る 者はいても、わざわざ入り込んで行くような者はいないわ。…麻薬ディーラーのほかにはね」
 反町は目を丸くした。女の手に、小型のオートマチック銃が握られている。
「あんな土地の言葉を知っているなんて、それだけで身分証明をしていることになるわ。命を捨 てるのと同じことよ」
「そうでもないよ」
 反町はニッと笑った。
「家のない人間の特権だからね、旅好きは。ちょいとばかし好奇心があり余ってるだけだよ、俺 は」
「あきれた」
 女はぽんと銃を投げてよこした。
「長居は危険よ。この建物もたぶん監視がついてるわ。これを持ってお行きなさい」
「ありがと。でも、俺は手荷物は増やさない主義なんだ」
 反町はベッドの上に銃を残し、立ち上がった。
「ほんとうは急ぎたくないんだけど、しかたないみたいだな。君と、もっと話せる言葉があったんだ けど」
「じゃあ、次の機会に聞いてあげるわ」
 女は悲しげに微笑んだ。鏡の前からはもう動こうとしない。
「でも、きっと次はないわよね」
 カメラケースを肩に掛け、反町は帽子をぐいっと目深に引いた。ドアを開いたその背に、女は弾 かれたように立ち上がった。
「名前を、聞いてないわ。あなたの名前は?」
「…反町」
 口の中でソリマチ、と繰り返して、女は顔を上げた。笑顔の残像だけを残して、反町はもう消え ていた。
 遠い方向から激しい怒声が響いたようだった。叩きつけるように交差するいくつもの靴音…。 そして鈍い銃声も。
 しかし、そのすべてはドアの向こう側に隔てられている。
「どうせ全部、嘘なのね…」
 嘘つきな猫と会った一人の女の、そんなため息だった。







 ドア。何度かノックしたことのある見慣れたドアの前に、反町は立った。
「えっ、嘘だろー !? 」
「先生は出張中です。当分はお留守です」
 反町をいきなりたじろがせたのは、女性秘書のあまりに事務的な返答だった。
「ね、いつ戻るの? 連絡先、教えてくれないかな」
「残念ですけれど、お答えできませんわ」
 取り付く島がないとはこのことだった。この法律事務所で井沢の秘書を務めてもう数年のキャ リアを持つ彼女とは、これまでにも数回顔を合わせたことがある。ここまで素っ気なく門前払いを 食うとは納得がいかない。救いを求めるように視線を巡らしたが、別の机に向かっている新顔の 若い女性もちらっと目を合わせたとたんに、急いで顔を伏せて仕事に戻ってしまった。
「んーと、俺のこと、覚えてない? 井沢とは古い付き合いで…」
「存じてます。あなたのことは先生から十分にうかがってますから」
「えっ、そう? 何て?」
 反町はようやく安心したように目を輝かせる。秘書は固い表情のままで姿勢を正すと、きっぱり 答えた。
「あなたが訪ねてきたら絶対に関わるな、とのことです」
「口もきいちゃ駄目、だそうです」
 横からもう一人がそーっと補足してくれる。
「女の敵だから、っておっしゃって」
「…あ、それは…ご丁寧に、どうも」
 口ではめげていなかったものの、反町の体勢は一気に崩れかかっていた。よりによって害虫 指定されていたとは、予想しきれていなかったのだ。
「久しぶりに東京に戻ってきたから寄ってみたのに、こんな仕打ちに遭うなんて、井沢、ひどいよ …」
 うつむいて、肩を落として、すごすご引きあげる反町であった。と、通り過ぎざまにふらっとよろ けて机にしがみつく。若い方の女性がはっと腰を浮かしかけたが、秘書が目でそれを制した。反 町は自分で立ち直ると、黙って事務所を出て行った。
『……ちょっとかわいそう、じゃなかったですかぁ?』
『先生のお言いつけですもの、当然よ』
 エレベーターホールまで早足でやってくると、反町は受信機を胸ポケットから出してイヤホンを 装着した。低く流れてきたのは女性たちの会話だった。
『あの人、以前にも一度、訪ねて来ましたよね』
『私は3回ほど会ってるわ』
 年長の秘書はさっきとは一転して柔らかな口調になっていた。反町が盗聴器を残して行ったと は、もちろん気づいていない様子だ。
『確か、フリーのカメラマンか何かだったかしら。お仕事上のお知り合い、って感じでもなかったけ れど』
『井沢先生とはずいぶんタイプが違う感じだけど、ちょっと素敵でしたよねー? 先生と同年輩な のかしら…』
 若い助手のほうは屈託がない。噂話は大好き、というところか。
『…女の敵、なんて、先生も大袈裟だな、って思ってたんだけど、実物を見てなんだか納得。危 険なタイプ、って言うと少し違うかな。ちょっとエキセントリックなところがなんか気になっちゃう感 じー』
『真弓さんったら、ほら、手がお留守よ。…確かに先生のお知り合いにしてはずいぶん不釣合い な気はするわね。もっとも先生はご家族とかお友達とかプライベートなことはめったに話題にされ ないけれど…』
『じゃあ、先生にご報告します? あの人のこと…』
 噂にされるのは全然嫌いではない反町は、二人の女性の会話に楽しそうに聞き入っていた が、ここで、秘書の言葉にぐっと耳をすませた。
『…どうかしら。留守中の用件はそのつどメールで、ってことだから、緊急のことじゃない限りお帰 りになってからでいいと思うわ』
 メールで? 反町は少し考え込んだ。どうやら井沢は電話に出にくい場所にいるらしい。彼女 たちも直接には連絡を取り合っていないことになる。では、いったいどこに…?
「じゃ、今日は悪いけれど、私、少し早めに終わらせていただくわね」
「はーい、どうぞ。夫婦揃ってホテルでパーティだなんて、うらやましいけど。ご主人に、よろしく」  秘書を見送って、アルバイトの真弓さんは少し伸びをした。今日の登記簿入力はほぼ出来上 がっている。残る仕事は戸締りをすることくらいだった。
「…… !? 」
 が、顔を上げて、彼女はガタンと席から飛び上がってしまった。思わず口を押さえ、目を真ん丸 にする。
「へえぇ、彼女、ミセスだったんだ。道理で、井沢に全然興味を持ってくれないと思ったよ」
「あ、あなた…!」
 ソファに座ったまま、反町はにっと笑ってみせた。
「いつ、入って来たんですか?」
「うん」
 立ち上がって近寄ってくる反町に、真弓さんはびくっと一歩後ずさった。なにしろ、先生のお達 しがお達しなだけに。
「ちょっと、見せてくれる?」
「あ、あの…」
 が、反町は勝手に彼女の机の横に立って、デスクトップのコンピュータを覗き込んだ。
「まずはこっちから見てみるか」
 立ったままでキーボードをぽぽぽんと叩き、画面にリストを呼び出す。真弓さんは緊張した。
「わ、私はやり方知らないんです。先生との連絡は八鹿(ようか)さんが全部やってるので…」
「パスワードはわからないんだ。それじゃ…」
 反町は時々手を止めて考えながら、しかし特に迷った様子もなくキーボードを操作し続ける。
「なるほど、確かに昨日の日付で入っているな、こちからの報告は。けど、あいつの返事は…」
 反町は眉を寄せた。
「ね、これ全部ダミーだよ、あいつからのメール」
「そんなはずありません、だって毎日ちゃんと連絡があるし、指示とかしていただいてますも の!」
 真弓さんは反町をにらみつけた。が、それに動じるふうもなく、反町は次に移る。
「これだな。…ほら、ここを見なよ。井沢からの指示って、全部ここに登録してあるやつじゃない の? これって、パソコンの日付に合わせて順送りにこっちに送信するようになってるよ」
「オ、オートマチックに?」
「そう、オートマチックに」
 真弓さんの素直な表現に敬意を表して、反町は同じ言葉を繰り返した。
 地裁との日程調整。債権者への通達事項。弁護士会名簿の変更項目。……日付や個人名に 至るまで、レファレンスデータが揃えてある。事務所からの照会に対して、何の不自然さも見せ ることなく対応できるよう、あらかじめ用意されたものだった。
「あいつの宿泊先ってのに問い合わせてみれば? たぶん、デタラメだと思うよ」
「そんな…。でも、どうして」
 反町は顔を上げた。当惑顔の真弓さんを見つめ、それからにっと笑ってみせる。
「そいつは井沢に聞いてみるしかないなあ。それよりさ、真弓さん、君の名前、教えてくれる?  ファーストネーム」
「えっ?」
 さっさと戸口に先回りして、反町は手を振る。
「今度お礼に食事おごるよ。おカタい先生の目を盗んでさ。じゃ、おやすみ」
「あ、あのっ、先生に何か良くないことがあったとか…じゃあないですよね!」
 真弓さんの問いに答えるべき男は既に消えていた。知りたいことだけを調べ、言いたいことだ けを言って。
「やっぱり先生の忠告は正しかったわ。ほんとに危険人物じゃない、十分!」
 などと憤慨しつつ、顔がゆるむのはやはりしかたがないところか。しかもその忠告のほうはなん だかんだでとっくに破られてしまっている。
 ま、そこが危険の危険たるゆえんだから。







 青山通りに出ると明るさが一変した。華やかなイルミネーションがあたりの空気をいかにも浮き 浮きしたものへと塗り替えている。赤と緑、そして圧倒的な金色。ウィンドウからあふれてくるの はそんなコマーシャルベースの季節感だった。
 しかしそれらとは裏腹に、反町の胸にある不安が押し寄せていた。火災報知器のベルのように けたたましく頭脳に襲いかかってくるものがあったのだ。
「なんなんだよ、あの下手な宣伝コピーは!」
 事務所で見た井沢の個人宛のメールファイルに、あるメッセージが残されていた。内容はとも かく、その発信元になっている企業には、思い切り心当たりがあった。
 反町にはこの数ヶ月にわたって追い続けたスクープがあった。東南アジアのある華僑グループ の一件である。日本からの融資を軸に計画されていた公共工事が、発注先との契約を取り交わ す寸前になって突然の方向転換をした。日本のODA活動との政治的癒着を証明するその情報 は、かなりの綱渡りを経てようやく手に入れたものである。融資に関与したとされる日本の企業 が、今回の帰国で最後のチェックポイントとなるはずだった。
『クリスマスプレゼントに、弁護士を』
 一見軽いジョークにみせているようだが、その心当たりがある者にとっては笑える状況ではな い。
 これは招待状だったのである。
「しかもオミヤゲ付き? じょーだんじゃない」
 名前は出していなかったものの、自分に向けたメッセージであることを反町はすぐに悟った。誘 拐犯は脅迫する相手をしっかりわきまえている。脅迫状を送りつける方法まで計算ずくなのだか ら。
「ヤな感じ、ヤな感じ、絶対ヤな感じ!」
 表向きにはごく穏当な仕事ぶりで通っている井沢は、法律事務所のスタッフにも裏の仕事は 一切明かしていない。今回井沢が何に向かおうとしたのかはわからないが、あんな細工までし てカムフラージュしようとしたということは、秘書たちに明かせない分野であることは疑いもない。  政財界の一部ではその名はある種の恐怖と共に囁かれている男だ。その手腕を評価して身 内に取り込もうとするもの、また致命的な被害を恐れて抹殺を図る者……井沢に関してはその 両極端に反応が分かれる。
 メッセージの意味するところが何であれ、反町に歓迎する気はまるでなかった。
「ここか」
 大きなクリスマスツリーが飾られたファッションビルの裏手に、10階建てのビルがあった。
「クリスマスプレゼントだけ持ち逃げって、いかないかなー」
 いかないと思いつつ、反町は闇へと入って行った。


【つづく…】





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