湿度を含んだ空気に、微かなムスクの香がからみつくように漂っている。女がくるっと頭を振る
と、長い黒髪が肩越しに流れ落ちた。
首都の郊外に広がる緑に包まれた邸宅。その庭の一角にひっそり建つコロニアル式のコテー
ジに、密やかな朝が訪れていた。
「…驚いたわ」
ラタンのシェード越しに差し込んでくる光の、その細い縞模様の中で女は身を起こした。くすっと
笑いを漏らしてベッドの縁に座り直す。
「私の故郷の言葉を、片言でも話せる人に会えるなんて」
「やーらかいなあ…、気持ちいい…」
反町は背後から手を伸ばして女の髪に触れた。名残惜しそうにその一筋を口元に当て、目を
閉じる。
「こういう香りって、好きなんだ」
「香りだけ?」
女は反町の手を柔らかく振りほどいて顔と顔を向き合わせる。
「あなたの恋人は香水もつけないの?」
「んー、たぶん、メイクはしない主義みたいだよ」
悪びれるふうもなく、反町は笑顔を見せた。本人が聞いていたらさぞ腹を立てることだろう。
「変な人ね、ほんとに」
女は立ち上がると、腰まで届く髪をくるりと巻いて丸く止めつけた。窓のシェードの向こうには、
睡蓮の池が朝の反射光にざわめいている。
「ねえ、あなた本当はなに人なの?」
「日本人だよ」
「嘘ばっかり…」
女は声を上げて笑い、それからふと口を結んだ。
「帰るところはない、って、ゆうべ言ったわね」
「そうだっけ」
部屋を横切っていく女の背中を、反町はじっと目で追っていた。シルクのローブの長い裾が、動
きにつれて軽くひらめく。前夜の華やかなパーティの場では見せなかった別のなまめかしさだっ
た。
「私、わかるわ。あなたは足元に場所を持たないタイプだって。…そう、猫みたいにね」
「…猫?」
「ええ、家にはつかないで人につくのよ、猫は。あなたも、帰る家がないとしても、きっと帰る人は
いるんだわ」
振り返った女は口元に笑みを浮かべている。切れ長の目に宿るのは、確かに亜熱帯の空気、
モンスーンの湿り気だ。
「私の故郷は…」
鏡にまた向き直って女は一瞬息をついた。
「ここからずっと北の、国の外れ。開発も経済発展も届かない山奥。私みたいに飛び出して来る
者はいても、わざわざ入り込んで行くような者はいないわ。…麻薬ディーラーのほかにはね」
反町は目を丸くした。女の手に、小型のオートマチック銃が握られている。
「あんな土地の言葉を知っているなんて、それだけで身分証明をしていることになるわ。命を捨
てるのと同じことよ」
「そうでもないよ」
反町はニッと笑った。
「家のない人間の特権だからね、旅好きは。ちょいとばかし好奇心があり余ってるだけだよ、俺
は」
「あきれた」
女はぽんと銃を投げてよこした。
「長居は危険よ。この建物もたぶん監視がついてるわ。これを持ってお行きなさい」
「ありがと。でも、俺は手荷物は増やさない主義なんだ」
反町はベッドの上に銃を残し、立ち上がった。
「ほんとうは急ぎたくないんだけど、しかたないみたいだな。君と、もっと話せる言葉があったんだ
けど」
「じゃあ、次の機会に聞いてあげるわ」
女は悲しげに微笑んだ。鏡の前からはもう動こうとしない。
「でも、きっと次はないわよね」
カメラケースを肩に掛け、反町は帽子をぐいっと目深に引いた。ドアを開いたその背に、女は弾
かれたように立ち上がった。
「名前を、聞いてないわ。あなたの名前は?」
「…反町」
口の中でソリマチ、と繰り返して、女は顔を上げた。笑顔の残像だけを残して、反町はもう消え
ていた。
遠い方向から激しい怒声が響いたようだった。叩きつけるように交差するいくつもの靴音…。
そして鈍い銃声も。
しかし、そのすべてはドアの向こう側に隔てられている。
「どうせ全部、嘘なのね…」
嘘つきな猫と会った一人の女の、そんなため息だった。
|