BEAT THE STREET 2002 WORLD CUP編                      











---2002年6月4日





 ここは北半球最大の島グリーンランド。その名に反した真っ白い雪原がはるか地平線まで続く 極北の地だ。国としてはデンマーク領となっている。
 北大西洋に面した小さな漁村ルトヴィクの村外れに、子供たちの喚声が交差していた。なぜか 犬の吠える声もしきりに混じる。短い夏の白夜が暮れないまま朝になったその淡い光の中で、も うもうとほこりをたてて子供達が駆け回っているのだ。
「左がガラ空きだぁ、ヨンにパスしろ!」
「ワン!」
 朽ちた古いボートの残骸がゴールのつもりらしく、その前でボールが高く上がった。
「あーっ!」
 もこもこに着ぶくれした子供がジャンプしてそのボールに合わせようとしたそこへ、灰色の犬が 飛びつく。子供と犬はもつれ合って地面に転がった。ボールがころころとこぼれて、キーパーの手 に収まる。
「もー、不公平だよ、こいつらのほうがでかいんだもん」
「惜しかったなー、ヨン」
 転がった子供が起き上がりながら不満いっぱいの声を上げる。駆け寄ってきた仲間がその顔を 見て吹き出した。
「おまえも犬チームに入ったのか、ヒゲが生えてるぜ」
「えっ、嘘 !? 」
 この空き地は村の大型ゴミの廃棄場所になっているせいで、こまごまといろんなものが落ちて いる。ヨンと呼ばれた子供の鼻の頭には、糸クズと鳥の羽毛のようなものがからまったゴミがまん まとくっついていた。
「ほら、こっち向け」
 ボールを片手に持ったまま、キーパーをやっていた男が歩み寄って来た。まださっきのプレイの 続きで駆け回っていた他の犬たちも、それを見て男の足元にまとわりつき始めている。それを押 しのけながら、男はヨンの前に立って顔をごしごしと拭いてやった。よく日に焼けた顔に、白い歯 が覗く。
「ほら、これでいい男に戻ったぞ。自分よりでかい相手と競り合っても勝てるようになれば、代表 選手にだってなれるからな」
「ワールドカップにも出られるよね!」
 ヨンは笑顔でそう叫ぶと、男の手からボールをさらってまた駆け出した。仲間の子供たちも、そし て犬たちもそれを追って、子供チーム対そり犬チームの試合が再開される。
「おーい!」 
 それをにこにこと見送っていた男の背後から別の呼び声が近づいた。村のほうから誰か歩いて 来る。
「マツヤマ、映ったぞ! もうすぐだから早く来い!」
「ほんとか、やったな!」
 呼びに来たのは村の住人トマルクだった。運送業をやっていて、つい先日、村に大きな荷物を 運び込んだのだ。
「あのパラボラ、オンボロだったけどなんとかなるもんだね、まんまと成功、だぜ。これで試合が見 られるぞ」
 二人並んで村の集会ホールに向かう。仕事先で拾われてきたパラボラアンテナはここのテレビ に繋がれたのだ。
「すげえな、トマルク、見直したぜ」
「おお、もっと誉めてくれ。部品も修理道具も全部タダ同然で手に入れた俺を。なんとか少しでも 綺麗に映るようにって今朝からずっと調整してたんだ」
「でも、それはどこの局の映像だ? カナダ? それとも向こう岸のヨーロッパのどこかか?」
「難しいことは聞くな。とにかくあんたの国でやってるワールドカップだ。見ない手はないぜ、マツ ヤマ」
「そうだな」
 大柄なトマルクに背中をばしばしとどやされながら、村の居候、松山光は苦笑した。
「もうずっと帰ってないから自分の国がどこだか忘れかけてたなあ。でもたぶん俺の身内が出て るはずだから、あんたの腕に感謝しながら見せてもらうよ」
「へえ?」
 集会所の二重のドアを開きながら、トマルクが振り返った。目を丸くしてつくづく松山を眺める。
「身内が、って、あんたの身内が代表になってんのか? すごいじゃないか」
「いや、選手じゃなく、スタッフって言うか。とにかく目立つ奴だからテレビにだってしっかり映ってく れると思うよ。しかもカメラ目線で」
 地球の裏側にいる義理の双子を松山は思い浮かべた。最後に言葉を交わしたのはさてどれくら い前だったっけ。
『君の心配はするだけ無駄だろうから、せめて自分から連絡を取ろうって気にくらいなってほしい な』
「約束を守るのも大変なんだぞ、ほんと」
 松山は一瞬だけ反省し、そしてさっぱりとまた忘れたようだった。ホールに入ると、既に何人もの 村人が期待に顔を輝かせながらがやがやとそこに集まり始めていた。
「で、どことどこの試合が始まるんだ? そう言や出場国自体よく知らねえんだった」
 トマルクは驚いていたようだが、この松山自身が一つ前の大会に出場していたことを知ったらさ てどんな騒ぎになっていただろうか。
 グリーンランドは午前8時。キックオフはもうまもなくだった。












---2002年早春





「あ、井沢様でらっしゃいますか。伺っております、どうぞ」
 ホテルのフロントマンは丁寧に頭を下げてから左手奥のティーラウンジを示した。中庭の日本庭 園を見渡せる静かな空間に朝の光が満ちている。この時間は利用する者もほとんどいないらし く、埋まっている席はたった一つだった。
「よう、久し振りだな、森崎」
「あ、真吾」
 気づいて森崎がぱっと立ち上がる。井沢真吾(旧姓・高杉)は作務衣姿でゆっくり近づきながら 笑顔を見せた。
「ごめん、急に呼び出して。この後すぐに東京に帰るから今しかなかったんだ、会えるのが」
「俺はいいさ。でもどうしたんだ、ホテルになんて」
 南葛に帰っていながら実家ではなくホテルにいるとはただ事ではない。そういう顔の高杉だっ た。
「実は妙なことになって…」
 運ばれてきたコーヒーを前に、森崎は昨日の出来事を話し始めた。
「オフィシャル・サプライヤー? って、オリンピックとかワールドカップとかの、あれか?」
「…俺、選ばれちまったんだ」
「え?」
 高杉でなくとも呆気にとられるだろう。何より当人が一番当惑しているのだ。事情がいまだ飲み 込めないままに。
「T監督が、個人で契約するって、おまえんちのそばを…?」
「うん。て言うか、そばの出前を」
 保護された迷子の監督と一緒にそのまま契約の場に連れて来られた森崎だった。同席してい たサッカー協会の役員も唖然としていたくらいだから、まさにT監督の独断で決まった話に違いな い。
「変人とは聞いてたが、これじゃサッカー協会ともめ続けるのは無理ないな」
「それなんだ、おまえに来てもらったのは」
 森崎が思わぬことを言い出したので、高杉はぽかんとする。
「井沢と連絡取れないかな、急いで。おまえなら知ってるかと思って」
 井沢守。二人の元チームメイトで東京在住の弁護士。そしてこの高杉(旧姓)の義理の兄にな る。
「表の井沢じゃなく、裏のだ。そっちと連絡が取りたい。なんとかならないか?」
「そうか…」
 高杉は難しい顔で腕組みした。井沢が彼らの前から姿を消してから既に十年近くが経つ。特に この高杉はその井沢が勘当された実家に婿養子に入った立場だけに、表向きには当然絶縁状 態のはずだった。
「裏なら裏同士、ってことになるな」
 高杉はそうつぶやいて、森崎ににやりと笑いかけた。そして腕組みを解く。
 地元では温厚な人柄で檀家の皆さんにも評判の良い住職である彼は、しかしそんな表向きだ けではない顔も持っている。森崎はもちろんそれを知っていた。
「早いほうがいいんだろうが、そこはちょっと我慢してくれ。たぶんあいつから直接おまえのところ に連絡が行く形になると思う。それでいいなら」
「ありがとう、真吾。助かったよ」
 森崎は礼を言ってもじもじと立ち上がる。
「頼み逃げになってごめん。もう行かないと」
「いいよ。俺はもう少しここでコーヒーを楽しんでくから。で、これも協会持ちか?」
「いや、たぶん組織委員会だと思うけど」
 生真面目に言い残して森崎は去った。迫るワールドカップの、数々の伝説の一つに自分が加わ るとは全く知らないまま。




【3へつづく…】




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