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---2002年4月某日
「あの、先生?」
出勤してきた井沢に、秘書の八鹿(ようか)さんが困ったような顔を向けた。
「なんだか気味が悪いんですけど」
「どうかしましたか」
都心のマンションの一室に法律事務所を構える井沢弁護士は、民事中心の、主に商取引上の
契約などごく地道な仕事を扱ってきた。長年秘書を務めるこの八鹿さんとアルバイト事務員の真
弓さんはそう信じ切っている。
「同じようなメールが大量に届いているんです、昨夜のうちに。見たところ宣伝メールのようなん
ですが」
「見せてください」
八鹿さんのデスクに近づいて、井沢はパソコンのモニターを覗き込む。そこには新着メールの一
覧があった。
「『フランボワーズの出前、承ります』『フランボワーズ出前サービス』…おやおや」
不安そうな八鹿さんを振り返って、井沢は微笑んだ。
「大丈夫です、これは全部義弟(おとうと)からのメールですよ」
「は? 義弟(おとうと)さん…?」
ウィルス入りだったらどうしよう…と用心して開くことさえできずにいた彼女は、意外な井沢の言
葉にぽかんとした。
「私は親に勘当された身なので、義弟もこちらの連絡先は知らないんです。転送に転送をいろい
ろ繰り返してここのアドレスにたどり着いたようですね、このタイトルから見て」
「そ、そうなんですか?」
ようやくほっとして、八鹿さんは肩の力を抜いた。自分のデスクのパソコンからそのメールを読も
うとしている井沢を、そっと観察する。
心当たりがない、と言っていた井沢は、内容を確認するとまとめて削除した様子だった。いい知
らせなのか悪い知らせなのか、その表情からは窺えない。
プライベートなメールなら、どんな内容ですか、と聞くわけにはいかないので、八鹿さんはとりあ
えずお茶を入れることにした。
「先生がご家族のことをお話しになったの、初めてですわね」
マグカップを井沢の前に置いて、八鹿さんはちょっと遠慮気味にそう声を掛ける。こちら側では
真弓さんもうなづいていた。
「そうですよ、先生。プライベートなことは一切触れちゃいけない、って私、思ってました」
井沢は意外そうに二人を見やる。
「そうでしたっけ。別に隠していたつもりはないですが。特に話すようなこともなかっただけです
よ」
「あのう、『フランボワーズ』って何だったんですか? 秘密のキーワードか何かですか?」
「いいえ、地元のそば屋の名前です。こんな名前のところはまずないですから、義弟は検索ワー
ドとして使えると思ったんでしょう。もうずっと行ってませんが、懐かしいですね」
確かに、全国探してもこんな名前のそば屋は見つからないと思われる。高杉(旧姓)は、おそら
くかつての仲間のネットワークを手掛かりにここまで辿って来たのだろう。その先々で、この言葉
が説明不要の身分証明を果たしたに違いない。
午後になって井沢は事務所を出た。昼食は出先で済ませる、と言い残して。
エレベーターが降りて来て、扉が開く。
「おやぁ、偶然だねえ、こんなところでばったり会うなんて」
そこに乗っていた先客の挨拶に、眼鏡の奥の井沢の目が険しくなった。
「おい、昼間っから何の用だ」
「夜の用事以外で会っちゃダメなわけ?」
反町一樹はくっくっと笑った。
「弁護士さんに秘密の相談があってね。ワールドカップのことでさ」
「ワールドカップだって?」
井沢は眉を寄せる。
「おまえもか。俺のところにも似たような連絡があったぞ」
「誰? 俺は岬クンから呼び出しを受けたんだけど。そっちは違うよね?」
地球を一回りするルートで連絡をつけてきたのは三杉だったのだが、用があるのは岬のほうだ
と言う。
「それはまたずいぶんと恐ろしげなご指名だな。俺は、そば屋からだ」
「はぁ?」
エレベーターは1階に到着する。井沢は先に降りて振り返った。
「おまえも一緒に食うか? 森崎のそばはうまいぞ。ただし、それが問題になってるんだがな」
反町も小走りに後を追う。それこそ疑問いっぱいの表情をしながら。
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