BEAT THE STREET 2002 WORLD CUP編                      6











 音もなく忍び寄る人影が一つ。
「記者証はどうした」
 が、相手は一枚上。背を向けたままビシリと言い放つ。静かな、それでいて有無を言わせない 迫力を秘めたその声に、足はその場に凍りついてしまった。
「カムフラージュにカメラくらい持ってろ。手ぶらで潜り込むとは大した自信だな、反町」
 国立競技場のVIP席下の通路に緊張が走る。いきなり名指しされた反町は、もはや隠れること もかなわず、観念したように姿を現わした。
「健ちゃんこそ、試合中にこんなとこにいるなんて、正式招待されてるわりに怪しい行動だと思う けど?」
 羽織袴という純和風の正装をした若島津は、いつもの無表情さを変えることなく反町を見返し た。
「怪しくて当然だ。極秘の任務だからな」
「冗談でしょ。俺と違って健ちゃんはそこにいるだけで注目を集める有名人なんだよ? 極秘に動 けるわけないじゃん。そんな目立つカッコして、しかもそのヒゲ!」
 後ろで束ねた長い髪に、顎に無造作に伸ばしたヒゲ…というその風貌は、ハリウッドを騒がせる 映画界の鬼才、というよりも孤高の武道家と言ったほうがふさわしい。
「何の変装さ、それって」
「そうか」
 変な相槌を打っておいて若島津は背を向けた。スタジアムの興奮がスタンドに遮られたここにま で鳴り響く中、一人でさっさと階段を下り始める。
「待てってば!」
 あわてて反町も追いついた。
「おまえ、帰国したばかりだろ。知ってんのか? 代表が大変なことになってるんだぞ。…日向さ んのケガ以外にも」
 イタリアでのリーグ終盤に負傷した日向はまだ回復が遅れており、合流後もずっと別メニューで 調整中だった。しかも日向だけではない。骨折だ盲腸だエコノミークラス症候群だとそれはもう畳 み掛けるような不幸が次々と襲ってきて話題に事欠かない日本代表チームだったのだが、それ とはさらに別クチで…と反町は念を押す。
「知ってるさ」
 しかし若島津の口調はもちろん平常心そのものだった。
「だからこういうことをしてるんだ」
「…極秘の任務?」
 さっきの言葉を反町は改めて問い直す。若島津はうなづいた。
「森崎の代わりにエスコートすることになったんでな。姉貴を」
「はぁ?」
 一瞬ぽかんとしてから反町は思い出したようだ。
「そうか、森崎はおまえの義兄(にい)ちゃんなんだったな」
「俺もよく忘れるが」
 大学に入ってすぐに森崎が結婚したその相手というのが若島津の姉だった。しかしもともと家族 とは疎遠がちなこの男、かつてのチームメイトとしても身内としても、顔を合わせる機会はほとん どないらしい。
「てことは、もしかして…」
 反町はじろじろと若島津の姿を眺め直した。ワールドカップの公式記録映画を担当するプロデュ ーサーに指名されて、この後の記者会見に出席すると聞いている。
「T監督ご指名のオフィシャル・サプライヤーは森崎だけじゃなかったってわけ?」
「誰がだ。俺は最初に内定していた者が都合が悪くなってその代役をやるだけだ」
「世間的にはそうだとしても俺は信じないなあ。それに俺の顧問弁護士も」
「そんな詮索をしに潜り込んだのか、わざわざ」 
 階段の途中で向かい合ったまま、反町はニッと笑った。
「あいつじゃないよ。俺を呼びつけたのは岬クン」
「…なるほど」
 その恐怖の告白に、若島津は一瞬だけ動きを止めた。
「大変な事態って言った意味がわかった?」
「骨身にしみるほどな」
 その岬は、この間も日本代表のヨーロッパ遠征に同行していた。が、実際に彼がどこで何をして いたのかは本人にしかわからない。
 W杯本大会の直前に行なわれる会長選挙。○ラッター現会長の再選を阻むべく、反会長派は 今度の理事会で会長の癒着スキャンダルを追及しようとしている。放映権を巡る不透明な利権争 いに、寸前になってもまだ決着しないチケット問題…。切り札は揃っているが、時間切れの感は 否めない。
「総本山が今、思いっきりゴタゴタしてるだろ? 大会までに類焼を防ぐんだって、あいつ俺に後方 支援を頼んでったんだ。そしたら井沢と偶然かち合っちゃってさ…」
「どこか偶然だ」
 反町の正面、若島津の立つ横手からもう一人現われた。
「それに俺を顧問弁護士呼ばわりするな。顧問料を払う気もないくせに」
「えー? 払ってんじゃん、カラダで…」
 反町が皆まで言い終わる前に脇へ押し退けておいて、井沢は若島津の前に出てきた。
「森崎がおまえに頼んだのはただのエスコートの代役じゃないだろう」
「ストーカーから守ってくれと言われてな。去年の暮れの埼玉スタジアム以来付きまとわれてると かで」
 淡々と答えながら若島津は顎をなでた。こうして見るとこのヒゲの感じ、父親に似てきた気がし ないでもない。
 昨年埼玉スタジアムで行なわれた日本代表対イタリア代表の親善試合。ワールドカップに向け てのスタジアムお披露目のイベントといった趣の対戦だったが、そういう意味で内外の大物関係 者が大挙して招待されていた。総本山ことFIFAの幹部たちも揃っていたのだが、スタンドで観戦 していた森崎の奥さんに目をつけたのがまさにその中の一人だった。
「目立つ場所では自分も立場があるだけに、怪しい真似はできんはずだ」
「なるほど、お前の連れとしてVIP席にいる限りは安全ってわけだ」
 若島津の説明に井沢はうなづいた。
「俺が森崎から相談を受けたのは3月だ。T監督専属になる話と奥さんの件に何らかの関連性が あるのか、そして引き受けたことで奥さんに何か不利な状況にならないのか、それをひどく気にか けていて…。奥さんがどういう目に遭ってたのか、そこまで詳しくは聞かなかったが」
「……」
 怪訝な顔で若島津は井沢を見返す。
「関連性…? こいつがT監督のそばとどう繋がるんだ」
「微妙なところだ。俺もまだ調査中だが、なにしろ相手が大物過ぎる。背後関係も何かと複雑で な」
 VIP席どころか貴賓席の中央に座る人物。彼こそが今回の騒ぎの震源地だったのだ。
「大変な相手にホレられちゃったもんだよね、おまえの姉ちゃんもさ」
 その言葉に、一瞬だけ若島津の表情が反応する。それを見逃す反町ではなかった。
「そっか。その目立つカッコって、手を出しにくくするだけじゃなくて、姉ちゃんと絶対に間違えられ ないように、だったりする? おまえ昔から似てたもんな…」
 若島津の口封じはさらに容赦がなかった。腕の一振りで反町を弾き飛ばし、平然と会話を続け る。
「でもいいのか、若島津。彼女を一人残しておまえだけ出て来たりして」
「さっきサッカー協会のスタッフが呼びに来てな。K淵会長が上のブースまで来てほしい、と」
「うそぉ」
 反町が復活してきた。
「あの人、『下』にいるよ、後半からずっと。試合後にセレモニーがあるだろ。天皇皇后両陛下の 激励、ってやつ。あの準備してたもん。タイムアップ直前にロイヤルボックスに戻るって言ってた」  五万五千人分の熱気がスタジアムに渦巻き、その轟く歓声がスタンド裏に振動となって伝わっ て来る。
 3人は向き合って沈黙し、それから弾かれたように駆け出した。












 後半残り10分を切った頃から、スタジアム内の警備が布陣を変える。もちろん、終了時の騒ぎ
に対応するためである。
「失礼ですが、この先は入れないことになっていますので」
 いかつい体格の警備担当機動隊員が、VIP席に通じるゲートに立ち塞がった。場所が場所だけ
に態度は厳しく、口調は丁寧に、というマニュアルらしい。
「人を、探してるんだ。きれいなお姉さん、見なかった?」
「き、きれいな…?」
 警官は、息を切らして走ってきた反町を体を張ってブロックしながら、不審をあらわにジロジロと
眺め直す。
「この通路はさっきから誰も出入りしていませんよ。どういうことでしょう。招待券をお持ちです
か?」
「あ、それは連れが持っていて…」
 反町はきょろきょろと背後を探した。今日は井沢のコネで入れてもらっているのだ。つまり招待
券は生きて歩いていることになる。
 怪しい。応援を呼ばなくては…。機動隊員がそう判断して無線機に手を伸ばしたその時、上か
ら声がした。
「大丈夫や。通したってくれ」
 それは、なぜか関西弁だった。
「あっ、はい!」
 警官はさっと敬礼して姿勢を正した。下りてきたのはワールドカップ警備対策本部の担当官の
一人で最終チェックの場となるこの試合の警備主任を務める早田警部補だったのだ。
「ホンマに、こっちに人は来んかったか? 和服の、美人や。あ、こいつの姉さんやけど」
 その早田と連れ立って下りてきた、こちらも和装の長身の男。警官は目を見開いた。
「あっ、まさか、若島津…さん !?」
 国際的有名人を目の前にして、警官は固まる。
「確かに、隣のゲートから10分ほど前に…」
 別のゲートを守る担当者に連絡を取って確認すると、和服の若い女性が数人の白人系の男た
ちと出て行ったとの報告があった。
 そこへ井沢も合流して、3人は事態を把握にかかる。
「しかし力ずくで連れて行ったわけではないんだ、その様子だと」
「そもそも姉貴が力ずくでどうこうされるような人間じゃないことを考えろ」
「合意の上でってこと? まさか健ちゃんをおびき出したの、ほんとにK淵さんだったなんてことは
…」
 井沢が目配せをして、反町ははっと口をつぐんだ。一人黙りこくっている若島津の目が不意に険
しくなる。
「早田、すまん。世話かけたな」
 井沢が向き直った。
「大阪府警から出向か」
「ああ、なにしろ警察庁としても未知の領域やからな、ワールドカップて。付け焼刃にも限界があ
る言うて、それで経験者の俺が駆り出されたちゅうわけや。蛇の道は蛇、言うてな」
 その経験というのが警備の、でなくて選手として参加したほうだというのは、とりあえず内緒であ
る。さらにこの若さで警部補…というのも、かつてあまり大きな声では言えない事件で二階級特
進したからなのだが、もちろん彼の部下たちは知る由もない。さらに、この有名プロデューサーま
でもが共にワールドカップに出場していた仲間だということなど、まして知らぬが仏。通路に消え
ていく3人を見送る上司に、機動隊員は驚きと尊敬のまなざしを向けた。
「…あ、あのっ、警部補?」
「ああ、ご苦労やったな。もうこの後は式典か。人数回すから、VIP席のほうきっちり頼むで。本番
になったらこんなもんでは済まんぞ」
「はいっ!」
 その姉、と言う人の顔を曲がりなりにも思い出せて本当によかった…と、職務に忠実な彼は心
の中で誇らしく考えた。なにしろ姉弟の顔が似ていたおかげだ、と。
「ね、井沢」
 こちらは階段に向かう反町。若島津はとりあえず森崎に異変を伝えに行かねばならず、先に別
れたのだ。
「危ないこと、されないよね」
「まんまと奪われたのは痛いが、お偉方なだけにスケジュールは筒抜けだ。多少の変更が生じる
としても、岬が押さえてくれるだろう」
「つまり、連れて行かれた先は予測できるってこと?」
 不安よりも悔しさを表情ににじませながら反町は念を押す。その言葉に突然の歓声がかぶさっ
た。タイムアップだ。井沢は足を止め、フィールドの方を振り返る。
「ああ、自分の目の届く範囲、つまり自分と一緒に連れ回すつもりだろうな」
「じゃあ…」
「そう、ソウルの開会式だ。開幕は、1週間後だぞ」
 二人は苦い思いで目を合わせた。






【7へつづく…】





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