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---2002年5月31日
練習が上がったばかりでラウンジはまだ人影はまばらだったが、壁際に置かれた巨大TVモニタ
ーに近い順にソファーが埋まっていっている。ソウルでの開会式まであと2時間弱。ここ日本から
は遠くても、選手たちの気持ちはもう海峡の向こうへ飛んでいるようだ。
「ドクター、お話、よろしいですか?」
背後から呼びかけられて、三杉は振り返った。監督のパーソナルアシスタント兼通訳であるD君
が、いつものちょっと困ったような顔で立っている。三杉は申し送り事項を書類ごとスタッフに委ね
ておいて、彼に歩み寄った。
「お邪魔してしまってすみません。監督がすぐに、と言うものですから…」
二人は並んで廊下を歩き始めた。なんだかどんどん急ぎ足になっていく気がする。
「大丈夫ですよ。ワールドカップに出る代表監督の宿命ですからね、選手のコンディションにナー
バスになるのは。職業病のようなものです」
「ヨロシクお願いします」
案内されて行ったT監督の自室には、三杉が予想した以上に落ち込んだ様子の監督が待って
いた。
「…M本の経過は良好です。鼻骨の整復も終えて、今、特注のサポート防具を用意してもらって
います。明日には練習に戻れると本人に伝えました。O野は100パーセントとは言えなくても出
場に問題はありません。慢性のものは薬でコントロールできるので、N沢の時のようにすぐに手
術が必要なわけではないんです」
前日に練習試合で鼻骨を骨折したM本と謎の腹痛に悩まされるO野に始まり、Y沢、M岡の経
過…と順に冷静な説明を続ける三杉に、監督もようやく表情が和らいできた。いい材料でも悪い
材料でも、状況さえ正確につかめていれば安心できるものなのだ。
「最後に日向ですが、回復は順調と言っていいと思います。ただ…」
「ただ、何です?」
監督が口を開くより先にD君が質問した。このあたりはテレパシー並みのあうんの呼吸らしい。
「筋肉に急激に負荷をかけると危険です。年齢のこともありますが、それ以上に性格がああです
から」
「つまり自制心の問題ですか?」
またもや監督の心を読んだD君の発言だった。
「無茶を無茶と思わないですからね。走るウサギを見てしまったハウンド犬と同じですよ」
『よくわかりました、ドクター。それでしたら私が対処できます。なにしろ、私もそのハウンド犬の血
統ですから』
T監督は見る見る血色がよくなった。立ち上がって三杉と力強く握手を交わす。
「ところで監督、そばのことですが…」
三杉が別れ際に笑顔で念を押した。
「いかに健康食品でも食べ過ぎはいけませんよ。ご注意を」
『本当に、そうですよ』
三杉が出て行ってから、D君が真面目な顔で付け足した。
『第一、大会規約でピッチ上にヤタイは置けませんから。モリサキさんにはスタジアム内のキッチ
ンで調理してもらってベンチまでデマエで届けてもらうことになっています。あまり苦労かけちゃい
けません』
『わかっているよ、フ○ーラン。試合中は我慢する。ハーフタイムに食べるとしよう』
今年に入って国内でのA代表の試合は負けがない。森崎が不在だった海外では2戦2敗だっ
た。そばのおかげだ、というジンクスで周囲を煙に巻いてきたが、さて神通力は大会本番まで続く
のかどうか。
我慢すると言った端からまたそばの味を思い出しているらしき監督を横目で見ながら、D君は深
く嘆息したのだった。
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