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---2002年6月4日17時11分
W杯一次リーグH組。日本対ベルギーの試合がまもなくキックオフを迎えようとしていた。いよい
よ日本の初戦。ここ埼玉スタジアムは、スタンドを埋めるサポーター達の高揚する期待感を丸ごと
飲み込んだ一つの生き物となって、鼓動を響かせ始めている。
「なんだか、現実じゃないような気がしてきましたよ、僕」
そんなうねるような興奮を全身に感じながら放送ブースからその光景を見下ろしていたのは、こ
の試合の実況中継を担当するアナウンサーである。実況席の真後ろで機器の最終チェックを見
守っていたディレクターが苦笑した。
「おいおい、しっかり目を覚ましておいてくれよ。実況が寝言やうわ言にならないようにな」
「なんならワシが時々腕をつねってやってもよか」
「うわ、それは結構ですっ。次藤さんの力なら腕ごと折れちゃいますよ」
隣の席にどっかりと巨体を預けている解説者がアナウンサーの悲鳴ににやりとした。
「まあ、試合が始まったら嫌でも目が覚めるばい」
「そ、そうですよね」
冗談が全然冗談に聞こえないこの名物監督は、高校サッカー界で次々と実績を上げ、ユースの
育成・強化にも貢献してきた一方で、なぜか解説者としても人気が高い。普段はもちろん高校教
諭として勤務する身だからそうたびたびは現われないが、代表の国際Aマッチなどになると各局
からオファーがかかるのだ。地方にいながら海外のリーグや代表チームの情報に詳しい上、解説
そのものも豪快かつ遠慮のない語り口で、楽しみにしているファンが多いと言う。
「おや、そう言えば佐野監督は?」
ディレクターがもう一つの空席に気がついた。Jリーグ横浜○マリノスの監督、佐野満氏の姿が
ない。
「トイレじゃないですか。僕はさっき行っておきましたけど」
アナウンサーもきょろきょろする。
「ロッカールームってことはないよな。なんかT監督、いつもに増してピリピリしてるらしくって、スタ
ジアム入りしてからずっとチームごと完全シャットアウトだとか…」
「無理はなか」
ディレクターの言葉に次藤が口を挟んだ。
「まわりば邪魔なんじゃのうて、自分自身の雑念が邪魔にならんごつ、いうことたい。今までさんざ
ん摩擦ば産んできておいて、今さらおとなしゅうなる理由もなか」
「次藤さん、それ言ったらサッカー協会や運営委員会が気の毒でしょ。今日くらいはもめずにいて
ほしいって思ってるはずですから」
開いたドアのところに、いつの間に入って来ていたのか小柄な人物がにこにこと立っていた。
「あ、佐野さん。どこ行ってらしたんです」
「キッチンにちょっと腹ごしらえに」
「マイペースなこつ、おまえは」
Jリーグの試合でもベンチではスーツで通している佐野監督は、今日も折り目正しい着こなしを
見せていた。年中ジャージ姿の次藤とは好対照である。
「キッチンって、何です?」
ぽかんとしたのはアナウンサーだった。別のスタッフが話に加わる。
「ほら、例のそば屋さん。今日は屋台じゃなくてスタンド内の調理施設で作るって話ですよ。ベン
チに出前するのかな」
「食ったとか?」
「いえ」
佐野は意味ありげに次藤を見た。
「入れてもらえませんでした。森崎さんと話をしたかったんですけどね」
「ほう、そっちもシャットアウトか」
席について、佐野はインカムマイクをつけた。次藤も黙ってそれに倣う。
二人の前には緑のフィールドが視界いっぱいに広がり、大きな興奮の予感にひたすらざわめい
ていた。
「始まりますね」
まっすぐな視線を動かさないまま、佐野は低くつぶやいた。
「何が」
問う次藤をゆっくり振り仰いで、佐野は笑う。
「戦いが、ですよ。決まってるでしょ」
その目は、次藤だけが知っている、かつてゴールを狙う時のみ見せたハンターの目だった。
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