BEAT THE STREET 2002 WORLD CUP編                      9













---2002年6月4日19時11分





「あーっ、○ィルモッツのオーバーヘッド!」
 悲鳴は絶句に取って代わられた。
 ゴールネットに絡まり転がるボールをカメラがズームアップする。
 が、喜び合う赤いユニフォームの間に立つ日本選手たちは誰もそれを見ていなかった。視線は あくまで敵ゴールの先に向いている。
「ディフェンスラインの裏を突かれましたか…」
 アナウンサーにそう問われて、次藤はちょっと首をひねった。彼はどうやら全然別のことを考え ていたらしい。
「そうでもなか」
 このまま何もできずに、また負けてしまうのか…? などという不吉な悲観論は彼にはまったく 存在していないようだ。
「皆、楽しそうたい。こげなこつならミスばあるだけチャンスも作れるばい」
「は…?」
 ぽかんとしたアナウンサーに、佐野が小さく笑った。
「次藤さんのはあくまで精神論じゃないですもんね。無茶も結果を出せば称えられる、ってのが昔 からのポリシーだし」
「ほめても何も出んぞ」
 が、ほめる相手は次藤ではなかった。ベルギーに先取点を奪われたわずか2分後。S木の苦し い体勢で伸びた足からその同点弾は生まれた。
「ほらな」
 アナウンサーが歓喜の絶叫をする裏で、次藤はひそっと佐野にささやいた。自分がほめられる より数倍嬉しい顔で。
「新しい景色が開けましたね」
「そうたい」
 二人の個人的な会話は、マイクに拾われることはなかった。












 特別席のブースの前には、警備員が一人立って警戒していた。もうここまで来れば森崎もため らっている余裕はない。
「すみません、ケータリングサービスです。ご注文のそばをお届けに来ましたぁ!」
 わざと甲高く声を上げる。警備員はここで待つようにと制してから、ノックしてブースのドアを開け た。
『いや、そんな注文はしていないが。別の部屋と間違えているのではないかね』
『会長、私、そのそばを食べてみたいんですけど。確か、日本代表が幸運のジンクスにしていると 聞いたので』
 ドア越しに、会長としづさんの声が聞こえてきた。岡持ちを握る手にぐっと力がこもる。
 すぐに警備員が振り返った。
「そのまま中へどうぞ」
「はい」
 簡単に身体検査をされてから入れ代わりにブースに入ると、目の前にスタジアムの緑が眩しく 広がった。ガラスの向こうで、赤と白の点となって選手たちが激しく動いているのが別世界のよう に思える。
『君、そのそばをこちらのご婦人が所望しておられる。別の所で注文されたものかもしれんが、私 が責任を取るのでこちらを優先させてもらえるかね。支払いはもちろんこちらで持つ』
『ええ、ではそのように』
 森崎は岡持ちをサイドテーブルに置くと、蓋を取った。会長が興味深げに覗き込むのを意識しつ つ、ざるをくるっと回して見せる。溜めざるからそば玉を一つ取って揚げざるに入れ、バーテンダー がシェーカーを振るような手さばきで軽く水を切った。
『すごいわ! おそば屋さん、見事ねえ!』
 普段なら絶対ありえない森崎のパフォーマンスをさらに上回る演技力で、しづさんが賞賛の声を 上げる。会長の顔も輝いた。
『ほう、本当にこれは面白いものだな。君がそんなに喜んでくれるとは思わなかった。口もきかな ければ笑いだって一度もしなかったのに』
『私、そばが大好きなんです。美味しそう…。いただきます』
 森崎の手からそば猪口を受け取って、しづさんはためらうことなくそばをすすり込んだ。その思 わぬ大きな音に、会長は度肝を抜かれたようだった。
『ご存じないんですか? 麺はこうして食べるのが日本の正しい作法です。こうしないとむしろもて なしに対して失礼になります』
『な、なるほどな。文化の差だな。まあ私にはちょっと簡単に真似ができるとは思えないが』
 一瞬引き気味になった会長だが、しづさんがいかにもおいしそうに口にするのを見て、自分も試 す気になったようだ。
『どれどれ、私もいただいてみよう。君、頼む』
『承知しました』
 もう一度同じ手順で会長のそばを用意し、箸と猪口を渡す。
『…これは意外に風味になじみがあるな。スープの味は東洋風なのに…。思ったより食べやす い』
『おそばもおいしいですが、おそば屋さんの姿も好きなんです。日本の「粋」、伝統的洗練が感じ られて』
 白い上っ張りに白い前掛け。それを腰で横手にきりっと結んで一分の隙もないいでたち。
 うっとりとしているようにさえ見えるしづさんの視線に、会長は自分もそれが着てみたくなった。 これまでの数日間、何を言ってもどう取り入ろうとしても、ただ無反応でこちらを見ることさえしな かった彼女が、今輝くような笑顔を見せているのである。自分に似合うか似合わないかよりも、 意中の女性が自分を振り返ってくれるだけでいい…などと妙に純情な気分にさえなって、会長は 思わず立ち上がった。
『君、私にもできるかな。やってみたいんだが。その服も、借りられると嬉しい』
『できますとも。よかったらお教えしますし』
『そうか!』
 せっかくだからと上から下まで一式交換する。背丈はほとんど同じだったが、腹回りの差でちょ っと苦しそうなあたりは目をつぶることになった。
『どうだね、似合うかね』
『ええ、そんなにお似合いとは思いませんでした。本物のおそば屋さんみたいですわ』
 しづさんがしらじらしく褒めたので、会長は有頂天だった。
『…ああ、いけない。そばを使い切ってしまったな』
『えっ、じゃあ私が作る分はないのか?』
 岡持ちを覗いた森崎がそう言ったので、やる気満々だった会長はがっかりする。
『いえ、大丈夫です。このすぐ下にケータリングの手押しワゴンを持って来ているのでそこに行け ばまだそばの予備があります』
『会長、せっかくだから出前持ちもやってごらんになっては? この岡持ちを持って取りにいらっし ゃればもっと本物らしい気分になれると思いますよ』
『そうか?』
『ええ、私もぜひ見てみたいです』
 にっこり笑うしづさんに、会長はすっかりその気になったようだった。
『よしよし、ではひとつ行って来ようか。君、このすぐ下だね?』
『はい、すぐです』
 森崎も素知らぬ顔でうなづいて岡持ちを渡す。
 会長はブースを出ると階段に向かった。さっきまでいたドアの外の警備員が消えていたことにも 気づいていない。
 スタジアムの最上階の廊下はぐるっと弧を描くように各ブースを結んでいる。会長は数段降りた 所でワゴンを探したが、どこにもそういうものは見当たらない。しばらくウロウロした後諦めて戻る ことにした。ところが。
「この先は立ち入り禁止だ。FIFAの役員専用になっている。戻りなさい」
『えっ、いや、私はFIFA会長のゼップ・○ラッターだ。自分のブースに戻るところだぞ』
「嘘を言うな。どう見ても出前か何かじゃないか。外人向けのサービスか何か知らないが、許可 のない者は入れないんだ。しつこいと連行することになるぞ」
 さっきそば屋を通した警備員がここにいれば証人になってくれるのに、と思ったが、もめている のに気づいて集まってきた他の警備スタッフの中にもその顔はなかった。いくら説明しても信じる 者は誰もいそうにない。会長は腹立ちのあまり真っ赤になってしまった。
『何を騒いでいるんですか?』
 そこへ長身の黒人男性が通り掛った。囲まれていた○ラッター氏のそば屋スタイルに目を留め て、一瞬笑みをこぼす。
『おお、いいところへ、○ヤトウ君。私が会長だと信じないんだ、この無能連中が。君から言ってや ってくれたまえ』
 つい先日のFIFA会長選で惜しくも敗れたばかりの○ヤトウ氏は首を傾げた。
『見覚えのない人ですね。私の知っている会長はこんな姿をしているはずはないし。何か勘違い しているんじゃないですか?』
『おい、何を言い出すんだ。私が分からんはずないだろう!』
 歩み去る○ヤトウ氏の背中にいくら叫んでも、警備員たちの疑いを晴らすどころかますます追い 詰められただけである。早々につまみ出されてしまった○ラッター会長は、ただ呆然とするしかな かった。
「しづさん、無事でよかったです!」
「来てくれるって、信じてました、有三さん!」
 こんな「にほんむかしばなし・絵姿女房」な展開は起こるはずもなかったが、ともあれ会長専用 の特別室の中では感動の再会が果たされていた。
「警部補、こちらはパトロール終了しました。異状ありません」
「ご苦労やったな。ほな、後は任せたから試合終了までしっかり頼むで」
 少し前まで特別室の警備に立っていた早田警部補は、敬礼を受けてニッと笑った。
「はいっ!」
 通路には、再び静けさが戻ったようだった。






【10へつづく…】



MENU | NEXT>>