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---2002年6月4日19時35分
「おや、これは何か変ですよ…?」
独り言のようにつぶやきかけたアナウンサーを、隣からディレクターが急いでつっつく。実況中
継中に独り言は困るのだ。
2対2の同点。今ボールはベルギーの支配下にあって、日本は攻め込まれる展開になってい
た。
「ああ、確かにT監督、ずっとあそこから動かんばい」
「何だか、もめていませんか? 予備審判と」
解説の次藤が受けてくれたので、アナウンサーはさらに疑問を引っ張った。と言っても、実況も
後回しにするわけには行かない。
「あーっ、このパスは通るか? ○モンズから大きくサイドチェンジして…バン○ルハーグと、あ
っ、N田K二が競り合って、こぼれた…!」
「注意ばされとるようたい。ラインのすぐ前まで出て来たのがいかんとか、何か暴言ば吐いたとか
…」
これくらいの会話のすれ違いは許容範囲らしく、ディレクターは文句はつけずに自分もモニター
を見た。カメラの切り替えも考えているようだ。
「笛です。日本のフリーキックで早いリスタート! …T田、ドリブルで上がります…ああ、監督も引
き下がりましたね。まだちょっと不服そうな表情ですが…。何だったんでしょう」
「この展開ならそう逆上するようなことはないはずですけどね」
もう一人の解説者佐野も考え込む。
「ガムだけじゃ、足りないのかも」
「は?」
「そばが食べられないフラストレーションで…」
「どういうことばい。岡持ちばずっとベンチにあったっちゅうのに」
「さあ」
佐野はとぼけた。試合前にキッチンを訪ねた時に、そこにT監督専属そば屋がいないことを彼は
知ったのだ。そしてその理由も。
岡持ちは、ずっと空だったのである。
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