BEAT THE STREET 2002 WORLD CUP編                     11(完)

CAST&あとがき>>         











 スタンド下のラウンジにはあまり人影はない。ハーフタイムにどっと押し寄せていた客も後半が 始まると同時に消え、販売や観客誘導のスタッフは一気に暇になる。キッチンも同じだった。
 モニターの前にはどこかであぶれたらしい数人が立ったままで試合に見入っていた。その横を 通り抜けて通路に出たところで見覚えのある顔がいきなり目の前に現われる。
「よっ、島野、久しぶり。知らない間に転職したんだぁ」
「おまえってやつは…どこにでももぐり込むやつだな」
 日本サッカー協会所属1級審判員、島野正は、つくづく呆れたようにそうつぶやいた。しかし相 手は悪びれる様子もない。
「これ岬がくれたんだもんね。もぐりじゃないもんね」
 反町はカメラバッグを肩に掛け、首には写真付きの正式なプレスカードまで下げていた。
「今日は人のこと言えないんじゃない? おそば屋さんがそんなに似合っちゃってさ」
「もう本物に交替してきたからな。これでまた審判に戻れる」
「うん、ベンチに新しい岡持ちが届いてたの見てわかったもんね。だからお迎えに来たんだって」
「上はどうなった。監視の連中が一気にいなくなっちまったから事態が動き出してるな、とは思っ たんだが」
「会長については、試合が終わり次第、臨時のFIFA理事会が始まるってさ。どんな落とし前をつ けてくれるか見ものだぜ」
「そっちは俺が関知するところじゃないが」
 島野はその場で白衣を脱ぎながら、向こうでずっと騒がしく中継を流し続けているテレビモニタ ーを見やった。ロスタイムに入ったようで、実況がさらにヒートアップしているようだ。
「さっきの抗議、あれは何だ? 俺にはあの副審が監督をなだめてるんじゃなくて巧妙に煽ってる ように見えたんだが」
「さすがは同業者だな」
 背後からの声に振り返ると、井沢がそこに立っていた。
「あの会長、人妻をさらっただけじゃすまなくて、スポンサー企業とウラで小細工をやっていたよう だ。…審判に圧力までかけて」
「やっぱり…」
 と言う言葉自体の悲しさをかみしめる島野だった。
「証拠は若島津の撮影チームのフィルムにしっかり記録されてる。三杉の分析でやつらの計画の 内容がわかるよりも前に、あいつ、予備審判が挙動不審なのに気づいて、カメラを一台審判専用 にするように指示してたそうだ。ゴールのすぐ裏にいたせいで、昔の習性が蘇ったと見える」
「ねーねー、でもさ、どうやって試合中にできたわけ? 誰がどう指示を出してたってことだけど」
 反町は井沢を振り返ったが、答えたのは島野だった。
「主審はシグナルピップという機械を試合中つけてる。副審が主審に合図をして気づいてもらえな い時とかに信号音で知らせる受信機だ。これを悪用してたんだろう。予備審判は副審がセンター あたりに来た時に直接声を掛けることができるし」
「へえ、最近はそんな便利なのがあるんだ」
 後日審判委員会が調査した結果、指示を出していたのは予備審判だと判明した。主審も副審も 試合中は余計なことまで考える余裕はないはずなので、彼が選ばれたのは当然だったかもしれ ないが。
「じゃあ、退場劇をスポンサー付きで演出する役目をそいつらがやってたってわけか」
 主審の微妙な判定。試合中何かとT監督を怒らせるような下地を積み続けていた予備審判。そ して今思えば、空の岡持ちが一番のイライラの元となっていたかもしれない。なにしろ、追い詰め られたあの瞬間、そばの登場が一気に状況を動かしたのだ。
「うん、食い止められて、本当によかった」
 ホテルの部屋を訪ねると、岬は既にそこで彼らを待っていた。
「すぐに韓国にも連絡を取って『誤審の連鎖』にならずにすんだよ。とにかくうちの代表監督を失わ なかったのが何よりだったしね」
 岬は自分に言い聞かせるようにしみじみとそう言った。
「森崎の奥さんも無事に戻れたようだな」
 キッチンに二人一緒に駆け込んで来て、T監督のそばを仲良く準備したらしい。島野がさっさと 遠慮したわけだ。
「それが、あのご老人がごねてちょっと手間取ったんだよね」
 岬は思い出してくすくす笑い声を漏らした。
 結局○ラッター氏の身柄はホテルに密かに移され、そこで理事会メンバーによって秘密裡に会 合が持たれたのだった。
 しづさんを拉致監禁した件を不問にする代わりに、大会期間中は謹慎。病欠という名目で会長 代理を立てること。大会に関わる全ての決定権をその会長代理に委任すること。…これをFIFAの 全理事の承認の元に決定したのである。
 ○ラッター氏が抵抗を見せたのはもちろんだが、その会長代理を任されることになったほうも、 ひたすら固辞をして説得に時間がかかってしまった。
『でも、あなたにやっていただく以外ないんですよ。他の誰がやっても力関係のバランスを崩すこ とになってしまって後々に大きな支障が出ます。何よりも、あなたは当事者なのですから』
 会長糾弾の旗頭だった○ィル副会長のその言葉に、森崎はついに折れたのだった。
「あいつ、忙しいことになるぞ…」
 テーブルに寄りかかったまま反町が嬉しそうに言った。
「まずはチケット問題に裁定を下さないといけないし、何より審判委員会に大掃除が必要じゃん。 試合は待ってくれないしね」
「アジアを軽視してきたことを後悔してもらおうよ、チケットのことも含めて。自分たちの癒着体質を 隠しもしないで落ち度はそちら、責任は取らない…なんて言い続けてきたんだから」
 書き込んでいた報告書をトントンと揃えて、岬も席を立った。
 まだ第一戦を終えたに過ぎない日本。勝ち点の次は勝ち星、そしてグループリーグ突破…。目 標はいくらでも欲深くなる。
「でもT監督はほんと危なかったよ。不思議だよなー」
 ポツリとつぶやいたのは反町だった。
「なんであそこで我に返ったのか、謎だよね。確かに森崎のそばがギリギリ間に合ったわけだけ ど、あの沸騰状態でそれに気づくなんて、ありえなくない? 一瞬のうちに冷静に戻ったんだぜ」
「うん」
 岬は少し考え込んだ。
「実際のところはわからないけど、監督にいつでもささやける立場の人ならいるけどね、試合中だ ろうとなかろうと」
「…まさか?」
 反町はあっけにとられ、井沢と顔を見合わせた。
「彼は『通訳』じゃなく、パーソナルアシスタント、だもの。まさに職務通りだったりしない? …推察 の域を出ないけど」
 試合が終了して既に2時間あまりが経とうとしていた。
 日本が得た初の勝ち点1。その歓喜はまださざ波のように空気に漂っている。
 始まりの夜はこうして更けていった。













---2002年晩夏






 バカンス中は人口が激減してひたすら静かなパリ。
 その裏小路のカフェに、妙にしんみりした空気をまとって一人コーヒーを飲む男の姿があった。
「しばらくは浪人生活も悪くないさ。働きづめだった分、体も休ませないと。ははは」
 誰もいないのに笑ってみたりもする。
「せっかくの代表監督のクチだったんだが、あれでフイにしたのは惜しかったな。フ○ーランがあ の時、そばのことさえ言い出さなければ今頃私は…」
 大会直前に密かに持ちかけられていた不思議なオファー。生臭い話ではあった。審判と喧嘩す ることと引き換えに新しい就職先を用意する、などと。
 その通りにしていれば何が起きたのか、彼は知らない。ふと気づくと、自分はベンチに座ってそ ばを手にしていたのだ。
 カップをテーブルに置く。
 ポケットから取り出したのは日本で使っていた携帯電話だった。もうここでは使えないが、記念 にと思って手元に残している。T監督はメモリに残る名前のリストを順に眺めて追憶に浸った。
「そばか。日本を懐かしいとは思わないが、あれだけは忘れられそうにないな。機会を見てまた 食べに行きたいものだ」
 しかし、彼が雇った若いそば屋の名はそのリストにはない。ふと首をひねったT監督、いや、元 監督はそこで思い出す。彼は自分はそば屋ではない、と言わなかったか。実家はそば屋だが自 分は違う、と。
「じゃあ、何だったんだろう」
 悪徳なそば屋。人の良い、しかし人の悪いそば屋。
 それで十分か。また会えるために。
 携帯には着信メールがいくつか残っていた。帰国直前に届いていたらしい未読の1通を開いて みる。
『○ィリップ、お詫びを一つ言わねばなりません。私があなたをわざと迷子にしたことです。私が知 るあなたの行動パタンから、ここで一人で迷えばきっとあの町にたどり着くだろうという計算ずく で、私はあの場所を選んでおいたのです…』
「さて、何の話だったかな、これは」
 漠然とした文面に、記憶がうまく結びつかない。
『FIFAの一部の反乱分子が密かに進めいていたと言う罠の存在が実家の親のほうから伝わっ て、私はこれではワールドカップも台無しだ…と、自分なりになしうることを探しました。奥さんを人 質に取られそうになっていた一人のそば屋さんをあなたと引き合わせることが、その手助けにな るはずと、私なりに準備をしたのです。そう、あなたには全てを伏せて。あなたには大会のことだ けを考えてほしくて。そのことだけ、許してもらえれば幸せです。どうかお元気で。…フ○ーラン』
「あの男らしいな。話が観念的すぎる」
 T監督の感想はそれだけだった。















---2002年6月30日10:24PM





 5度目の栄冠に輝いたブラジルの歓喜が、横浜の夜空の下で渦巻いていた。
 黄金のカップを高々と差し上げ、そして唇を寄せ、○ナウド選手は笑顔で何度も声を上げた。
 カップは次々と選手たちの手を渡っていく。名誉と、何よりも幸福な達成感が彼らを満たす瞬間
だった。
 ○ナウドはふと振り返る。
 ロイヤルボックスの中央、彼のいるすぐ隣に、今このカップを手渡してくれた人物が立っている。
どこか遠慮がちにさえ見えるその穏やかな笑顔に、○ナウドはこちらも白い歯を見せて応えた。
そして顔を寄せて耳打ちする。
『幸運のソバ、今度ボクにも食べさせてね、会長代理』
『あっ、はい!』
 銀色にライトを反射させながら、折鶴の形をした夢の小さな破片が頭上に降り注ぎ始めていた。






【Fin.】





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CAST


井沢 守  悪徳弁護士。独身
反町一樹  悪徳フォトジャーナリスト。独身。息子1人

森崎有三  悪徳そば屋。東京在住。妻しづ、娘2人
若島津健  悪徳映画プロデューサー。ハリウッド在住。娘1人
日向小次郎 悪徳建築家兼セリエAプレイヤー。既婚
岬 太郎  悪徳学者。今はフリーの(?)JFA委託職員。既婚
三杉 淳  悪徳医師。日本代表チームドクター。既婚
松山 光  悪徳探検家。犬ぞりを使って極地探検中。既婚
早田 誠  悪徳警部補。どんな事件で昇進したかは秘密
島野 正  悪徳審判。プロ契約でJFA職員
井沢真吾  悪徳僧侶。旧姓・高杉。井沢の妹と結婚して寺を継いだ
次藤 洋  悪徳高校教師。サッカー部監督として名を馳せる
佐野 満  悪徳Jリーグ監督。もしかしなくても史上最年少
大空 翼  悪徳サッカー選手。妻と息子1人
若林源三  今のところはまだ善良サッカー選手のようだ。既婚

T監督   フランス人。そば好き
フ○ーラン・○バディ  フランス人。監督のパーソナルアシスタント 日本代表ご一行様  …23人超えてるかも
  


参考文献

2004年6月4日〔勇者が聞いた凱旋行進曲〕 戸塚啓著 角川書店 ワールドカップ全記録2002年版    原田公樹著 講談社文庫
ジャッジをくだす瞬間            岡田正義著 講談社
U−22 フィリップ・トルシエとプラチナエイジの419日間
                      元川悦子著 小学館

あとがき


悪徳シリーズのオールキャストを目指したわけでもないのですが、それ くらい登場人物が多い話になりました。いつもは井沢と反町だけですも のね。
現実のワールドカップを舞台にしてみたかっただけなんですが、中身は 思いっきりフィクション…というよりギャグなメルヘンになっておりま す。実在の皆さんに迷惑のないことを祈るばかりです。

この話は紆余曲折をへて…というほどでもないですが…発行した本から の再録です。まず4のところまでを前編、その後を後編としてコピー誌 で出し、次に前後編合わせてさらに加筆訂正したものをオフ本にしまし た。登場人物もエピソードもその時にかなり増やしました。
で、今回はそれにさらに手を入れてあります。このシリーズは事件の謎 解きがテーマではないのでそのへんはいつも相当いい加減なのですが、 今回はちょっと気になっていたところとか、ちょっとニュアンスが変わ るくらいに直してみたり。まあ、どちらにしても厳密なものではないの で、もし気になった方があれば、程度の言い訳です。

ところで、T監督ですが、その後代表の試合の解説者として日本に招か れた時、とある番組のゲストとしてインタビューを受けていたのです が、それがなぜか料亭でそば懐石のようなもので接待を受けてたような んです。話が終わって、さあでは召し上がってください…というところ で放送は終わったのですが、その瞬間のT監督のそばに注がれた嬉しそ うな眼差しは忘れられません。そば好きの噂は本当でしたか…。(笑)

このシリーズは単発でまだ何話か書いていますので、機会があればまた 読んでいただけると嬉しいです。